横山神社
滋賀県長浜市高月町横山297-1 mapfan

鳥居


交通案内
 JR北陸本線高月駅 北北西 2km


祭神
 大山祇命、少彦名命、泉龍大神

苔むした手水舎


由緒

 伊香郡の延喜式内社横山神社の論社。他の論社は木之本町に鎮座。
 『近江伊香郡志』によると、天徳元年(957)、本地馬頭観音を横山村に移し奉れり。これが横山神社とある。
 また昭和二十七年の『神社明細書』には、第四十九代光仁天皇の時代、近江国安曇郷涌の荘の清浄な地に淡海真人三海の勧請したものと伝えている。場所が違うようで、よく判らないが、当時は琵琶湖の対岸も伊香郡であったのだろうか。現在でも対岸に伊香郡高月町がある。

社殿


お姿
 七郷小学校の東の森に鎮座、北側には小さい円墳らしきものがある。その横に小さい社殿。
 東西に長い社叢の南側に本殿などが並ぶ。大きい森の中の神社ゆえ、落ち葉を掃く人もいないようだ。

本殿

横山神社古墳
 西野山丘陵の尾根上やその東麓の平地には、数多くの古墳群が所在する。
 横山神社古墳は中でも北寄りにあり、前方部を西に向けた全長約三十六メートルの前方後円墳である。
 前方部はやや広がり、後円部南側にある石室から、横穴式石室を主体部とする古墳時代後期の古墳と推定される。
 現在の規模は後円部直径二十一メートル、高さ二.三メートル。周濠の有無は明らかではなく、葺石埴輪は持たないようである。



お祭り
  4月 1日  例祭

平成祭礼データから

横山神社 由緒


 悠遠なる上代に於て、私達の民族信仰として、雄大且秀麗なる横山岳の雄峰を神聖視して、神霊の憑るところのものとして崇敬したものと考えられる。
この雄大なる山岳は、標高一、一三二米にして遠く東浅井郡等の各地より遥かに望見され、而かもその方向より来たる水流の灌漑によって農耕の業を創め、生命を保つを憶った素朴な農民等がこの山獄を以って神霊的存在として崇拝した事は今も他町の地に拝所というを伝えその行事によっても想見されるところである。
当社に伝わる記録によると、推古元年(五九二年)ニ月の申の日に、横山五智様子の滝のほとりの杉の巨樹に神霊の降臨あり、郷人その霊夢による神告に随い、翌年(五九三年)その杉樹を以って神像を彫刻し、経の滝上に社殿を建立奉祀して、本宮横山大名神とあがめまつられたのである。
この様にして横山岳の中央の上部に鎮座されて伊香、東浅井両郡の農地を一望にし、且つ五智様子の飛瀑の懸れる景勝の地に鎮まつられたのも偶然ならずと思考されるのである。
かくて後仏教隆昌の世となり、白谷の馬頭観世音は本地仏として供に崇拝された。  延喜十八年(九一八年)四月十七日神階従四位下に陞され(類聚符宣抄)延長五年(九二七年)藤原忠平等の勅撰せる延喜式神明帳、伊香郡四十六座のうち横山神社として登載された。
この地はまた奥美濃に通じる要所である為地頭職が置かれその要所に伊香厚行が任ぜられ、その守護神としてその祖伊香津臣命を奉祀されたのである。
古今集第八に「いかこのあつゆき」とあるはこの厚行で雅樂頭神祀大副たりしと伝える。天徳元年(九百五十七年)二月中申の日、時の神主横山将監、本地仏馬頭観世音を本郡の横山村に遷座する。かくして本宮横山神社出は、山岳の地に鎮座の為、参拝に難渋するので神慮を伺い、永亨十一年(一四三九年)神主横山五左衛門が本宮を始め緒神を今の宮の内に遷座したと伝え、又別に伝える処では応永年間(一三九四〜一四二七年)の遷御なりともいう。
鎌倉時代当国を領した佐々木氏の重臣で、伊香の四家と云われた千田、布施磯野、赤尾の各氏が子孫の元服式を当社社前に於て行なわれたが、寛政年間に至って絶えたとつたえられる。
明治九年村社に列せされ、明治四十一年神饌幣帛料供進の神社と指定された。境内神社、二之宮(旧社号山王社)三之宮(旧社号蛭子社)は、永亨十一年本宮横山神社が現今の社地に遷座ありし際、倶に遷座されたのである。
四の宮については当杉野は従来上組、中組、向組の三組に別れ、それぞれが守護の社を有し、上組は八幡神社と称し、譽田別尊を祀り、中組は又八幡神社と称し、応神天皇を祀り、向組は白山神社と称し、伊邪那岐命を祀り来たが、明治四十三年(一九〇九年)二月二十六日、本社境内神社としてその三殿の祭神を一般に合せて奉祀、四之宮自づと生ずるに至った。この三つの組には古来より「おこない神事」があって元の鎮座の食堂にて行われて来た。合併遷座後も元鎮座地に遺る殿舎に御分霊を鎮め奉り、それぞれ古式による厳粛な「おこない神事」が行われている。
その期日は上組は二月十三日、中組二月八日、向組は二月十五日である。
以上

参考 『式内社調査報告』、『平成祭礼データ』

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