延喜式神名帳 東海道 尾張國owari

 尾張國121座:大8小113

海部郡中嶋郡葉栗郡丹羽郡春日部郡山田郡愛智郡知多郡



海部郡[アマ]:8座並小

漆部神社[ウルシヘ]
漆部神社[ぬりべ]「三見宿禰 配 木花開耶姫命 合 八大明神」愛知県海部郡甚目寺町字東門前11 阜嵐健

漆部神社由緒
御祭神と御神徳
当社の名が世に知られるに至ったのは、文献上では延喜式神名帳(えんぎしきじんみ ょうちょう)を以て初見とする。延喜式神名帳というのは、平安朝の中期、醍醐天皇 の延長5年(927年)に撰進されたものであるから、今日から一千三十年程前のも のである。それに神社名の載っているということは、これが一千年以上の古社である ことを示すもので、当社も従って一千三十余年以前には、既に存在していたと言える 。延喜式の制度に従えば、当社は当時、国幣の小社とされ、尾張国司から幣帛を奉ら れる名社とされていた。鎌倉時代には尾張国神明帳に「従三位漆部天神」と称され、 神格の高い神として尊崇され、引き続いて、同国司の幣帛を受けた。然るに南北朝時 代以降、戦国時代にかけて、当地方は戦乱の巷となり、このとき当社も戦火にかかり 、社名さへも忘れられるに至った。そのため、室町時代以降は、八大明神社と称され 、その維持の計られたことは、現在も当社に残る明応7年(1498年)8月23日 の墨書銘によって、明らかである。その後のことは、元和6年(1620年)5月2 5日の棟札が残っているので、このとき社殿の造替が行われたことがわかり、その後 引きつゞく修造を経て、今日に至っている。江戸時代には尾張藩は、当社に二十石の 祭祀料を寄進して崇敬し、明治維新後は、同40年10月26日、指定郷社の社格が 与えられた。氏子は先祖以来の氏神として、厚く奉斎、その維持に当たっている。昭 和32年10月21日に至り、その社名を旧来の漆部神社に復した。

御祭神と御神徳  当社の御祭神三見宿祢命は漆部の祖神である。漆部というのは、 今の言葉で言えば漆を栽培、採取し、それによって漆器具を製作する工業団体をいっ たものである。日本で漆器、塗物のことの世に知られるに至った初めは、上代のこと で、日本書紀用明天皇2年(587)の條に、大和国で漆器工業に従事するものに「 漆部造兄」というものの名が見えるのを初見とする。今日から一千三百七十余年程前 のことである。次いで同紀天武天皇の條にも、大和国に「漆部友背」というものの名 が見えている。当時は大陸の文明が、朝鮮を経て、日本に輸入されていたときなので あるから、新しい漆塗の技術の輸入に伴って、その技術者団体が、我が国でも発生し ていた様が知られる。奈良時代に至ると、播磨国風土記や出雲国風土記を見ると、こ れらの国に漆の樹の生じていることが、珍らしい事実として記載されている。平安時 代には越後国磐船郡に漆の生ずる山があり、そこに漆山神社が存在していた。これも延喜式内社となっているから、古社の1つだと言える。右によれば、漆塗に関する古 い神社としては、日本には当社と漆部神社との存することが知られる。但しここで注 意すべきは、右二社にはその御神徳の性質に相違のあることである。即ち漆部神社と いう方は、漆の樹の守護神である。これに対し、当社の漆山神社という方は、漆器、 塗料の技術並びに同工芸の作製、頒布に関係する団体の守護神になる。ここに当社が 漆器工芸の諸団体組合の祖神であり、守護神とされる基本的な神格を見出し得る。こ の漆器工芸団体が古語でいう「漆部」で、その祖神が三見宿祢命という神に当る。こ の神は平安時代に編簒された先代旧事本紀という書物の巻五、天孫本紀の條によると 、「漆部連の祖」とあるので、この神が漆器工芸団体の祖神であったこと、明らかで ある。この神は尾張国を開拓した天火明命(一名を饒速日尊という)の五世の孫で、 天火明命の子孫が大和国から尾張国に移住すると共に、同国海部郡に移って、漆器工 芸の技術の普及に従い、現在の他にその祖神を祭ったのが、漆部神社である。当社に 隣接する甚目寺を創設した「甚目連公」というのも、その一族である。漆部神社はそ の氏神、甚目寺はその氏寺とされ、共にその氏人、氏子によって崇敬されたのである 。甚目寺御本尊の御前立である十一面観世音菩薩象が尾張国唯一の乾漆像であること は、この寺が漆部の神と深い関係あることを示す有力な証拠とされる。当社には漆部 の祖神たる三見宿祢命を奉斎する外、古来の由緒によって、同殿に木花咲耶姫命と八 大明神との祭っている。木花咲耶姫命というのは、桜の花の如き優に柔しい婦徳を授 けられる神で、慈悲円満の女性の守護神である。又八大明神というのは、世上一般の 信仰を集めている賀茂、春日、祇園、稲荷、住吉、松尾、平野、貴船の八社を指し、 その御神徳は、広く各地方面に亘っている。以上これをまとめていえば、当社の御神 徳は漆器、塗料に関する工芸守護の神たることを根本の御神徳とするものであるが、 同時に農商工の産業開発に、又諸徳円満の神徳をもたらす神として、末永く仰がれる ものである。



諸鍬神社[モロクハ]
諸鍬神社[もろくわ]「天諸羽命」愛知県海部郡佐織町大字諸桑字郷越76 阜嵐健

國玉神社[クニタマ]
国玉神社・八剱社合殿[くにたまじんじゃ・はっけんしゃあいどの]「大物主命、日本武命、天照皇大神」愛知県名古屋市中川区富田町大字弓場字郷中1131  えーなも

藤嶋神社[フチシマ]
藤嶋神社[ふじしま]「市杵嶋姫命」愛知県海部郡七宝町大字秋竹字柏田509 阜嵐健

由緒
当神社は、愛知県海部郡七宝町大字秋竹字柏田に鎮座し、延喜式尾張121座の1社 に列せられ、天武天皇の白鳳4年(676)の創建と伝えられ、千三百有余年の歴史 を有する古社である。伝説によれば太古の昔、此の辺一帯は洋々たる蒼海にして、所 々に州が点在し、其の1つが藤島であったと伝えられ、古くは此の地を藤島と呼んで いた。織田、豊臣時代の頃には藩士等の崇敬篤く、徳川時代の頃中沢百太郎など七勇 士が当神社を殊の他尊崇し、その勢力を強固にしていった。明治元年、明治天皇東京 遷都に際し、植松少将勅使として当神社に参向し、金幣を奉ぜられた。大正10年県 社に列せられたが、戦後は社格廃止とともに宗教法人藤嶋神社として新たなる歩みを するところとなった。そこで逸早く氏子を始めとして、御神徳を景仰する崇敬者など によって奉賛会を結成し、社殿その他の改修工事が行なわれ、今や広大無辺な御神徳 を慕う人々は遂年その数を増している。



宇太志神社[ウタシ]
宇太志神社[うたし]「邑上足尼命」白髭大明神と呼ぶ。愛知県海部郡八開村大字鵜多須字下中山27-1 阜嵐健

由乃伎神社[ユノキ]
由乃伎神社[ゆのぎ]「日子湯支命」愛知県海部郡佐屋町大字柚木字東田面773 阜嵐健

伊久波神社[イクハ]
伊久波神社[いくは]「的臣祖 合 菊理姫命」愛知県中島郡平和町大字下三宅郷内419 阜嵐健

憶感神社[オカム]
憶感神社[おかん]神」愛知県津島市神守町字上町36 阜嵐健


中嶋郡[ナカシマ]:30座大3小27

坂手神社[サカテ]
坂手神社[さかて]「高水上神」愛知県一宮市大字佐千原字宮東91 阜嵐健

見努神社[ミヌ] 所在不明

大神々社[オホムワ]
大神々社[おおみわ]「大物主神」愛知県一宮市花池2-15-28 玄松子の記憶

波蘇伎神社[ハソキ] 所在不明

針熊神社[ハリクマ] 所在不明

野見神社[ノミ]
野見神社[のみ]「天照大御神、天穗日命、野見宿禰命」愛知県一宮市今伊勢町宮後字稲荷1929 阜嵐健
浅井神社 次の式内浅井神社に掲載

淺井神社[アサヰ]
浅井神社「淺井神」愛知県稲沢市浅井町宮西305 阜嵐健

裳咋神社[モクヒ]
裳咋神社[もくい]「裳咋臣船主」光仁天皇に奉仕、中島郡目比村の人。愛知県稲沢市目比町天神東1244 阜嵐健

太神(神)社[オホ](名神大)
大神社[おおの]「神八井耳命」愛知県一宮市大和町於保郷中2311 阜嵐健

知除波夜神社[チチハヤ] 所在不明


小塞神社[ヲセキ]
小塞神社[おぜき]「天火明命 合 加具津知命、天加具山命、天照大御神」愛知県一宮市浅井町尾関字同者6 阜嵐健

小塞神社
鎮座地、尾関字同者6番地
境内、1504坪
「寺社志」に大明神、神明、愛宕、社内町3反2畝歩前々除とある。(前々除とは、慶 長3年伊奈備前守検知の際、崇敬して、無税地とされたもので、其以前からある神社 なるを示す
祭神、天火明命、天照大御神、天香具山命、加具津知命
由緒、醍醐天皇延喜(907)7年藤原時平編の延喜式に中島郡小塞神社、尾張国神名帳 に従二位小塞天神とある旧社で、倭名鈔小塞郷の主郷に鎮座する。明治2年同字にあ る無格社斉宮司神社祭神天照大神)同西神明社(祭神同上)同愛宕社(祭神加具津知命) を本社に合祀した。旧社僧大日堂。



石刀神社[イハト]
石刀神社[いわと]「手力雄命、國常立尊、豐斟渟尊、國狹槌尊」崇神天皇の御宇。愛知県一宮市今伊勢町馬寄字石刀3 リンク 阜嵐健

御祭神
手力雄命外4柱。御祭神は力の神として御神威の強烈なるを以て世に聞こえ、往古か ら御力をわけ戴いて、事業の成就と開運招福を祈願する近郷武門豪族を始め、氏子崇 敬者から深く信仰されて来ました。
御由緒
本社は延喜式内の古社で、社伝によれば崇神天皇の御宇の御鎮座と、伝えられていま す。当地は木曽川の流れに沿い、尾張国内でも古くから文化の開けたところで、のち の律令による石刀の里は、御社名にちなんで命名されたものといわれます。御鎮座の 地馬寄は往古「今寄の庄」と云い、天慶年間平将門追討の後、奉賽のため伊勢神宮に 神戸として貢献せられた処で爾来伊勢との神縁あり、当時郷内に伊勢両宮を斎祀した が、永録年中戦火に遇い社殿を烏有に帰したため、石刀神社の内陣に遷座、以来三明 神と尊称、後に享保三年宗源宣旨により、正一位の神階にお進みになられました。応 永年代頃国衙領内に既に所領を有しており、武将豪族の崇敬も篤く、文明8年斯波氏 採地を寄せ奉り、降って領主となった織田氏も毎年灯油料を寄進致しました慶長年間 関ヶ原の戦いに際し、此地に関東の陣営を布く処となり、社殿建造物を荒廃させたた め、関東の勝捷後徳川氏の命により、奉行吉田伊豆守修復御造営の事に当たり、以後 尾張徳川家の尊崇を受け面目を一新しました。当地、地頭武藤氏の代々の崇敬は今も 尚語り伝えられて、一般近郷隣甫の諸人の崇敬をあつめて今日に至りました。御宝物 中には、全国臨時宝物取調局登録状の交付を受けた、鎌倉時代前後の作と推定される 狛犬等の彫刻を始め、古文書其他往昔を偲ばせる品を蔵しています。内、経筒.釣燈 籠.懸佛.祭礼用山車は一宮市文化財に指定されています。昭和15年県社に列格。御祭 礼、例祭、4月19日斎行、毎年4月19日以降の最初の日曜日に、山車三輌、献馬6頭を 各町内から意匠をこらして曳き出されます。まつりの中心となる頭人は其の古い慣例 がそのまま伝えられており、世に広く石刀祭とよばれています。関ヶ原の戦いの後、 前述の徳川氏の命による御社殿の修復、御造営にあたり、その奉祝のため慶長13年に 伊奈備前守に願出で、山車、献馬を奉納したのが其の始めといわれる。戦前は5台の 山車が戦災により2台を失い、3台が献馬と共に巡行し「おはやし」「人形からくり」 を御社前に奉納します。山車は三層よりなり、上層のからくり人形は「はなれからく り」で他に類例をみないものであります。


石刀神社「八倉比賣神」天然に躓踞する巨岩を以って神体とす。愛知県一宮市浅井町黒岩字石刀塚271-1 阜嵐健

石刀神社
鎮座地、黒岩字石刀塚271番地の1
境内、464坪「寺社志」に天王一社、社内7畝歩前々除とある。
祭神、八倉比売神
由緒、延喜神名式に中島郡石刀神社。尾張国神名帳に従三位石刀天神ともある旧社 で古来社はなく、天然に躓踞する巨岩を以って神体とし、古代人の信仰を其の侭現在 に伝えている。玉垣内の神体は長約6尺巾約4尺、色漆黒で旭に映ずれば金色の光輝を 放つ。又この地より東1町許り距てて畑中に約6尺4面の同岩があり、本宮のものを胴 体岩と称するに対し、これを尾岩とも言う。


八剱神社[やつるぎ]「櫛岩窗神」岐阜県羽島市桑原町八神字八剱4980-1 玄松子の記憶

室原神社[ムロハラ]
室原神社[むろはら]「伊弉册尊、倉稻魂命」愛知県一宮市串作字郷541 阜嵐健

高田波蘇伎神社[タカタハソキ]
高田波蘇伎神社[たかだはそぎ]「應神天皇、大綜杵命」愛知県一宮市大字高田字南屋敷116 阜嵐健

大口神社[ヲホクチ] 所在不明

賣夫神社[ヒメフ]
売夫神社[めふ]「大鞆和氣命」愛知県中島郡平和町大字六輪字嫁振81 阜嵐健

眞墨田神社[マスミタ] 
真清田神社[ますみだ]「天火明命」祭神を大己貴命または国常立尊とする説もある。水神龍神の性格を持つ。尾張国一宮である。愛知県一宮市真清田1-2-1 真清田神社公式 玄松子の記憶

当社は尾張国一宮にして、祭神天火明命は天孫瓊々杵尊の御兄神に坐しまし国土開拓 、産業守護の神として御神徳弥高く、この尾張国はもとより中部日本今日の隆昌を招 来遊ばされた貴い神様であります。



川曲神社[カハワ]
川曲神社[こうわ]「菊理比賣命」愛知県稲沢市子生和町北屋敷1406 阜嵐健

酒見神社[サカミ]
酒見神社[さかみ]「天照皇大御神、倭姫命、酒彌豆男神、酒美豆女神」本殿裏に祀る倭姫神社の社殿は全国でも珍しい吹抜きの社殿。本殿向かって左側に倭姫命御愛用の姿見石がある。愛知県一宮市今伊勢町本神戸字宮山1476 阜嵐健

酒見神社
御祭神、天照皇大御神、倭姫命、酒弥豆男神、酒弥豆女神
其の昔、倭姫命は勅名を受けられ天照皇大御神の霊代を永久にお祀り出来る地を求め て旅される途中、尾張の神戸である、当村にお出でになられたのは今から2000有余年 前の事で、ご一行は現在の無量寺にあったと云われる神戸屋敷にお泊りになり、御神 体は宮山の此の地にお祀りになられました。そして村民の奉仕により社殿が建設せら れたのが、当酒見神社の始めであると伝えられています。当時の神戸村は40戸で1戸 平均5人と見て200人の村民がこぞって建設に当り出来上った社殿は、総丸柱、草屋根 にて高く、下から見れば恰も天井の如く、梯子をかけて御神体を其の中程に祀る、下 は腰板をつけず、吹抜きにて只下に板敷をはるのみであり、後世に吹抜きの宮と呼ば れたと云います。現在に伝えるのが本殿裏に祀る倭姫神社であり、この社殿は全国で も珍しい吹抜きの社殿であります。次にご覧頂きたいのは、本殿向かって左側にある 倭姫命御愛用の姿見石であります。これも非常に貴重なもので現在の鏡の代りで倭姫 命が当村にお出で遊ばされるに当たり、わざわざ石工に作らせられたものであると伝 えられています。さて、当神社は其の名のとおり酒に最も縁の深い神社であり、日本 に於いては清酒の醸造が最初に行われた所であります。その際に使われた甕が今も本 殿裏の両側に埋められております。これは当神社第一の宝物であります。時は紀元5 4年、今から1138年前、第五十五代文徳天皇、斉衡3年9月、大邑刃自、小邑刃自、の 酒造師が勅命を受け伊勢皇太神宮より当宮山に遣わされ伊勢神宮にお供えする御神酒 を造らせになりました。その際に持ってこられた、大甕個が地下1メ-トルに埋めら れております。日本は地球の温帯に位置し春夏秋冬の区別がはっきりしているので、 良い季節に醸造を行えば良いのですが、支那中国)では大陸気候なので寒暖の差が激 しく朝晩では夏と冬程度違います。そこで地熱を利用できる方法が取られ、地下メ- トルの所に甕をいけ、そこで醸造が行われたのであります。即ち、支那式醸造法で行 われた甕が此処にあるのです。この外境内正面右側に岩船という石があります。当神 社宝物の一つでもあります。なる程石で出来ていて船の型をしているので船の名がつ けられていますが、実は清酒を造る日本に於ける最初の試みに酒を絞る台として使用 された酒船であります。石質が極めて軟く房州石や大谷石の類で酒甕と一緒に御使者 がお持ちになったと伝えられております。



淺井神社[アサヰ]
淺井神社「水波賣神」愛知県一宮市浅井町東浅井字北屋敷浦311 阜嵐健

久多神社[クタ]
久多神社[くだ]「天背男命、茜部天神」愛知県稲沢市稲島町石畑136 阜嵐健

堤治神社[ツゝチ]
堤治神社[つつみはり]「埴安姫神」愛知県尾西市小信中島字宮浦780-1 阜嵐健

石作神社[イシツクリ]
石作神社[いしつくり]「建真利根命」石作連火明命六世孫。愛知県海部郡甚目寺町大字石作字郷61・62 阜嵐健

石作神社由緒書
当神社は延喜式神明帳延喜5年(905)尾張國中島の条、また國内神明帳に正四位 上石作天神と所載されている由緒正しい古社である。祭神は詳らかでないが(姓氏録 )に石作連火明命六世孫建真利根命で石工に関わる遠つ祖神であると伝えている。尓 来この氏神を祀る石作郷に居住し生活を営む人々と広く崇敬者らが連綿と幾世代に渉 り当代に至るまで神の御恵みに奉賛の祭事を捧げて来た神社である。ゆく先も、ここ の産土の大神と縁を結び地域社会の心の拠り所として生かされる喜びと御加護を只管 に祈りつづける吾が鎮守の神で在らせる。



千野神社[チノ] 所在不明

鹽江神社[シホエ]
塩江神社[しおえ]「鹽土神」愛知県稲沢市中野宮町85 阜嵐健

布智神社[フチ]
布智神社[ふち]「軻具突智命」愛知県中島郡祖父江町大字本甲字宮原4 阜嵐健
八剱神社[はちけん]「經津主神」愛知県尾西市玉野町字渕ヶ巻2392 阜嵐健

宗形神社[ムナカタ]
尾張大國霊神社摂社宗形神社[ムナカタ]「田心姫命」愛知県稲沢市国府宮1-1-1 玄松子の記憶

尾張大國靈神社[・・オホクタマ]
尾張大國霊神社[おわりおおくにたま]「尾張大國靈神」大国主命とする説もある。はだか祭、馬まつり。愛知県稲沢市国府宮1-1-1 神社公式 玄松子の記憶

国府宮
御祭神は尾張大国霊神であって、尾張大国霊神社という御社名が、神社の本質を素直 に現しています。大昔、此の地方が伊勢湾の水底から干上って、只今も群名として遺 っている様に、中の島の如く陸地が出来ました時、此処へ我々の祖先が移住して来て 居を構え、生活を始めましたが、その日その日を生きて行く糧を生み出す根源である 国土の偉大なる霊力を神と敬い、尾張大国霊神と崇め名附けて、日常生活の守護と感 謝の心の拠り所として祀ったのであります。即ち、数千年前に尾張地方人と共に創っ た、尾張地方人の生活に直結している神社であって、まことに尾張人の心の故郷であ り、尾張国の総鎮守に外なりませぬ。ところが大国主命の別名を大国玉神とも申しま すので、後世になって大国主命を祀る神社であると広く信仰されましたが、昭和十五 年国幣小社に列格の時、本来の真面目に還して、尾張大国霊神を祀ると改められまし た。今日、農商業守護の神、厄除けの神と広く信仰されていますのも、そうした有難 い由緒からであります。

別宮として大歳神の御子を祀る大御霊神社と、田心姫の命を祀る宗像神社(昔は角玉 大明神ともいい、又、文徳実録にはオガミの神とある)とが御鎮座になっていますが 、御本社と併せて昔から国府宮三社と申して居ります。即ち、国土の神、五穀の神、 水の神という三社による構想であって、これをひそかに拝察する時、尾張総鎮守とし て創祀した遠い遠い我々の祖先の、遥かなる代の日常生活が偲ばれるではありますま いか。その他、末社として稲荷神社をはじめ司宮神社、神明社、居森社、白山社、三 女神社が鎮座になって居ります。

磐境(いわくら、又、いわさか)といい、七個の大きい石が立並んで、神聖視されて 居る一廓が御本殿に接して厳存しています。これは今日の様に社殿を建てて祭をする 以前の、最も古い、原始的な祭場で、所謂、尾張大国霊神を祀っていた遺跡であり、 当神社が数千年以前の太古、既に創祀されていたことを物語っています。

国府宮とは今から少なくとも千三百余年前、既で此処に国衙が置れていて、尾張国司 が来任して尾張の国政を執っていました。この国府に在る宮の意から国府宮とか府中 宮などというに至ったのであります。

総社というのは、一宮、二宮等と同様に、制度上一種の社格に類するものであって、 一国中の神社を国衙附近に総合併祀して、国司が自ら祭祀をする神社をいうのであり ますが、尾張国としてはその根源である尾張大国霊神を祀る社柄であり、古くからの 名社、且は、国衙に隣接して御鎮座である処から、当神社を尾張国総社と定めて、手 篤くお祭りしたのであります。

神階は、光仁天皇の宝亀二年二月の(約1190年前)従四位下に始り、順次昇叙さ れて土御門天皇の建仁元年二月(約760年前)には正一位に進まれました。 別宮の大御霊神社が従一位に、宗像神社が従二位に叙せられましたのは、文治二年三 月(約770年前)のことであります。

社格も、文徳天皇の仁寿三年六月(約1100年前)に御本社はじめ二別宮が共に官 社に列せられ、延喜式(約1060年前)には三社共に小社に列して祈年祭の国幣に 預られ、崇徳天皇の永治元年(約820年前)には大社に列せられました。明治維新 後は、明治六年に郷社、同九年県社に、昭和十五年十一月一日国幣小社に列格になり ました。

崇敬は又格別であって、古く崇神天皇七年(約1870年前)に神地を定めて封戸を 賜り、天背男命(尾張族の祖先)の子孫である中島直(後に久田氏、野々部氏を称し て明治維新まで奉仕しました)をして奉仕せしめられたという。爾来朝廷は勿論、武 家では源頼朝をはじめ各時代の将軍から、下は庶民に至るまで篤く崇敬し、報賽寄進 の実例は枚挙に暇がありませぬ。特に織田信長は永禄七年社殿を修理し、豊臣秀吉は 文禄四年に百五石の地を、又、尾張藩祖徳川義直は元和七年百五十石の地を寄進した が、以後、代々の藩主はこれを安堵し、御社殿の御造営等を援助して明治維新に至っ たのであります。

社殿は尾張地方特有の構造様式をもった所謂、尾張式といわれるもので、御本殿、渡 殿、祭文殿、東西の廻廊、拝殿、楼門と建並んでいます。殊に楼門は足利初期(約5 50年前)に建てられ、正保三年(310年前)に解体大修理を加えましたが、その 際、上層を全く改造したので珍しく両期の手法様式を備えて居りますし、又、拝殿は 徳川初期(約350年前)に建った切妻造で内に柱が並立する稀有な建物(舞楽を奏 した名残か)である処から両者共に昭和三十年重要文化財に指定されました。

神職には古くから尾張族の遠祖、天背男命の子孫が代々奉仕して来ました。後に久田 氏を名乗りましたが、暦応二年(約620年前)に久田弥四郎崇政が夜討ちに遭い、 伝来の古記録宝器等皆な散逸したといいます。その子元政が神主となって世襲します が、永正年間(約450年前)に久田氏を改めて野々部氏と称し、累代正神主として 社家を統率しました。その下に権神主蜂須賀氏、中臈として広瀬氏、川口氏、水野氏 、野々部氏、近藤氏、大津氏、加藤氏、服部氏の八家や、神子座、神楽座等十四家が 、夫々所役をもって奉仕し、幕末に至りました。

社僧には真言宗の威徳院があり、その下に大日坊があって、当神社の本地は大日如来 であるとして来ましたが、明治維新となって、稲沢市長野にある万徳寺へ仏像等を移 しますと共に、還俗して岩田氏となりました。

境内は稲沢市国府宮の中心となし、総坪数八千二百余坪あり木々も繁茂した真に神々 しい神奈備の社をなしていますが、殊に参道は昔から国道美濃街道に1ノ鳥居を建て 大江川を横断して楼門まで延々四百六拾余間、真によく総社の威厳を如実に示してい ます。

梅酒盛神事(うめさかもり神事)は又、神代(かみしろ)神事、かたしろ神事ともい いますが、一般には「馬まつり」として知られ、五月六日午後に行われます。これは 当神社が此処へ御鎮座になった時の姿を現している神事であって、十歳前後の男の子 に直衣を着せ、えびらを背わせ、太刀を佩かせて神代となし、宮司以下神職伶人等と 共に庁舎に入ります。ここで尾張大国霊神、大御霊神、宗形神を招神して鯔の刺身や 青梅の実を供え、国家安穏五穀豊饒を祈願します。ついで御幣持ちを先頭に、神代と 神職は馬に乗り、巫女や弓矢太刀等の神宝持ちが行列を組み、楼門前から南へ進んで 、大御霊神社を通り、西参道の石鳥居を経て楼門前に着き、悪魔祓いの鳴弦の儀をす ませて庁舎へ帰るのであります。この時六十余頭の飾馬を献じます旧慣は、寛永三年 (約330年前)日照りが続いたので、近隣の農民が雨乞ひをして馬をひいたのに始 るといいます。猶、例祭がこの日の午前中に行われます。

儺追神事は毎年旧正月十三日に行われ、一般には「はだか祭」として知られています 。昔、神護景雲元年(約1200年前)称徳天皇の勅命によって悪疫退散の祈祷が各 国で行われました。その時、尾張国司が総社である当神社に於いても厳修しましたが 、これが儺追神事となって伝ったといい古い伝統をもった、いかにも総社らしい神事 だといえましょう。現在では、旧正月二日に祈祷と神籤によって志願者の中から唯一 人儺負人(なおいにん)「一般には神男、神僕という」を決め、又、楼門前と二ノ鳥 居の傍に標柱を建てます。この日に、此処で儺追神事が行われる事を標示するのです 。

同十一日早朝、土餅といって、神灰を包み込み、外も真黒に灰をぬった餅を宮司自ら がつき、神前に飾って置きます。これはあらゆる罪穢をつき込んだものと信仰し、夜 儺追神事に儺負人に背負せて追放する神聖な餅であります。同時に宮司は神前於いて 一宮真清田神社、二宮大県神社、三宮熱田神宮、総社尾張大国霊神社の御神名を認め て秘符をつくり、神殿に納めます。一方、儺負人は今日から儺追殿に入って参籠する のです。

同十二日夜七時から庁舎(ちょうや・当神社の東南に接した境外にある)に於いて庁 舎神事が即ち、宮司が司宮神を奉して庁舎に移り、燈明のまたたく中に一宮、二宮、 三宮、総社の各大神様を招神して国家安穏五穀豊饒を祈ります。所謂、前夜祭とでも いうものでありましょう。この日午後には、当祭典に奉献されます数十俵どりという 大鏡餅が、威勢よく釣込まれて、拝殿の中央に飾付けられますのも名物の一つ。

同十三日は早朝から厄除けの祈祷者が列をなして社頭につめかけ、厄除けの護符の「 なおいぎれ」やお守を受ける人で雑踏します。「なおいぎれ」とは、神男が厄を一身 に引受けるのだと信じて、自ら裂いて祈祷をこめた信仰的な布ぎれであって、神社に 於いてのみ授与しています。午後ともなれば裸男が群をなして威勢よく「なおい笹」 を捧げて、拝殿へ駆け込みます。これは裸になれない老若男女が、氏名年齢等を書い て祈念を籠めた布を結付けました青竹で、裸男が身代りとしてかつぎ込み、厄除を祈 願してやるのです。境内は何万という裸男と数十万の拝観者とで埋めつくされます。 午後三時には御本殿に於いて儺追の祭典が行われてから、神男は御鉄鉾を拝んで、儺 負取場附近の裸男の群の中へ飛出します。御鉄鉾は御節刀のなまりであって、勅命を 戴く時賜る節刀をかたどった木刀と、御神宝の大鳴鈴(おおなるすず)と、四社の御 神名を認めた秘符とを結付けた大榊であって、この神事が勅命によって始められたと いうことを物語るものであると同時に、この神事の神籬とも見るべきものであり、神 男が裸群中にいる間、神職が拝殿で打振っています。何万という裸男は、この神男に 触れて厄を托し、厄を落そうと神男に突進します。信仰を一途にもみ合いへし合い、 全く肉塊の乱闘です。白龍の様にぶっかける水は、直ちに湯煙となって立ちのぼりま す。歓声は四方に響動し、壮絶そのものです。人垣をつくった観衆は、唯一心に見入 っています。こちらに押付けられ、あちらに押返され、やがて楼門をくぐりここをせ んどともみ合う中、神男が儺追殿へ納まれば、裸男は潮の引いた様に四散して、夕の 帳と共に再び静寂境にかえります。

翌十四日午前三時には、庁舎に於いて夜儺追神事が行われます。浄闇の庁舎にはほの ぼのとかがりが燃えて、昼間揉み苦茶にされた神男が白衣で参列します。一の宮以下 四社の大神を神籬に招神して、天下の悪鬼退散を祈願した後、人形と紙燭に火をつけ て突き立てた土餅が、しめ縄で神男に背負わされます。神男は警固の者に引立てられ て、神職の打振る大鳴鈴に追われながら庁舎の周囲を三回廻る頃、神職以下参拝者か ら礫(つぶて)をなげつけられて、境外へ追出されて行きます。礫とは一寸ばかりの 桃と柳の枝を麻でしばり白紙に包んだもので、桃は古くから悪鬼を祓うという信仰が あり、伊弉諾尊が黄泉国の醜女を追祓われたという神話を、今そのまま実行している 訳です。さて、神男は途中で土餅を捨てて、後をも見ずに帰宅します。土餅を捨てて 始めて神男から自由な人間に還った訳です。土餅は直ちに神職の手で土中へ埋められ ます。土から生じた罪穢悪鬼を土へ還し、国土平穏に帰したと信ずるのです。昔から この神男をつとめることと土餅を土中へ埋めることとが、この神事中最も神聖視され 、重要視されていました。
同日朝から大鏡餅を献納地区へ撤下すると共に、参拝者に頒授します。この餅を戴け ば、夏病みしないと深く信仰されていまして、希望者が社頭に充満します。

さて、明治維新前までは今日のと多少相違がありまして、正月十三日早朝、社伝の御 神影を拝した中臈の八社家等が大勢のお伴をつれ、御鉄鉾を押立て、刀鎗を抜き放ち ながら、その年の恵方に当る、神社を中心として一里以外(一里以内を神垣などとい った)の地方へ行って、通行人や戸外に居る男を、誰彼の差別なく、一人捕えて神男 としました。唯、女、子供、乞食、僧侶は除外されていました。捕えて神社に送り込 む人等を寄進人といい、捕えた神男を無理無体に神社へ引立てて儺追堂へ納めたので ありましたが、公許の祭典なるが故に、時に悲劇もあったと伝えます。
又、当日は藩主徳川家から代参が立ち、熱田からは宮福太夫が来て、翁を一曲舞い納 めてから夜儺追神事となりましたが神男は一里以外の地方へ追出され、暁頃に、土餅 を捨てて自らの赴く所へとぼとぼと立去ったといいます。

鍬形祭(くわがたまつり)も亦特殊な祭で、旧正月七日に行われます。これには一尺 二寸位の割竹で作った鍬形、長さ八寸、径二寸五分位の青竹で作った白亥(しろきい )と白鶏(しろきかけ)とを神前に供えて五穀豊穣をお祈りした後、廻廊を出た斎庭 の東側へ白亥、西側へ白鶏と夫々唱えながら是を投げ捨ててついで同様東西へ御洗米 を散じます。即ち、当神社に古く伝る特異な祈年祭であります。

的射祭(おまとう)又は月代(つきしろ)神事というのが、旧正月十七日夕七時から 庁舎に於いて行われ悪魔退散を祈ります。その時、南の庭を南山といって、山、谷、 星、という的を設け、桑の弓にうつきの矢をつがえて射ます。この弓矢は魔除けの護 符として参拝者が奪取って行きますが、猶神饌には蛤、繭方の白と黄の団子、大根な ます等をお供えするのも産業の守護神らしく、まことに珍しい祭といえましょう。 総まいりは七月初旬、田植を終った小牧、春日井、丹羽等の地方の人々が、部落毎に 一団となって豊年祈願に参拝します。
参拝しないと不作だと信仰せられ、連日雑踏し、一週間位にぎやかな日が続きます。 厄除輪くぐりは七月三十一日に七夕祭と併せて行われますが、参道に立連ねた七夕竹 が夕風になびく間を、疫病除けに参拝する浴衣着の人々が行交い夏姿として実に麗し い情景を現出します。

秋の大祭が国幣小社に列格の記念日である十一月一日に行われます。この当日この一 年間に生れた子供の息災多幸を祈願する御寿々祭もございます。 宝物類としては嘉禄元年八月(約七四〇年前)並びに暦仁元年十二月(約七三〇年前 )付の尾張国司庁宣や、尾張藩主歴代の黒印状等、古文書古記録類百数十点はじめ、 昔、儺追神事の早朝、社家が拝んで儺負人を捕えに出たという櫛稲田姫画像等二十余 点の書画類、儺追神事の御鉄鉾に着ける大鳴鈴、又、登録状のある獅子頭や陶製狛犬 等二百余点の宝器刀剣武具類を蔵して居ります。

尾張国衙があった所は、名鉄線路を西へ隔てた松下村だといわれ、弘文天皇元年(約 一二九〇年前)に尾張国司守小子部連鋤釣(ちいさこべのむらじさひち)の名が日本 書記に見えます。尾張国司の名が史上に出るこれが最初ではありますが、成務天皇五 年(約一八四〇年前)に国県の制が定められたと説かれますので、その頃から己にあ ったかとも思われます。文明九年(約四九〇年前)尾張の領主斯波義廉が、清洲へ帰 りましてからは(清洲城を初めて築いたのは斯波義重)、国政は清洲で執られまして 、今まで政治経済文化の中心地であった当地も、全く荒廃に帰するに至りました。国 司として此処へ来ました大江匡衡が、その妻赤染衛門と共に開設した尾張国学校院も 、今は国府宮駅の北隣にその遺跡を留めるに過ぎませぬ。この附近は田畑等何処を歩 いても、千数百年前からの土器の破片が散乱していますが、これは国衙所在のもとに 大繁栄を極めた当時の名残であって、地下一帯には、その大聚落の趾がさびしくも眠 っていることでありましょう。



大御靈神社[オホミタマ]
尾張大國霊神社別宮大御霊神社[おおみたま]「大御靈神」愛知県稲沢市国府宮2丁目 玄松子の記憶

鞆江神社[トモエ]
鞆江神社[ともえ]「仲哀天皇、神功皇后、應神天皇、武内宿禰 合 素盞嗚命、大山命」愛知県尾西市明地字鞆24 阜嵐健


葉栗郡[ハクリ]:10座並小

穴太部神社[アナホ]
加茂神社[かも]「玉依姫命 配 賀茂別雷命」欽明天皇の御宇。愛知県葉栗郡木曽川町玉ノ井字穴太部4 阜嵐健

由緒書
祭神  
玉依姫命
賀茂別雷命
由緒  
祭神 玉依姫命  奉祀年代不詳なれども欽明天皇の御宇、皇紀一一九九年(西暦五 三九年)・皇紀一二三一年(西暦五七一年)、玉の井の霊泉の邊りに、穴太部神社の 祭神として奉祀せりと伝えられる。
祭神 賀茂別雷命  堀河天皇寛治四年(皇紀一七五〇年、西暦一〇九〇年)庚午、 四十二・所の一なる御厨を置かれ、賀茂別雷命を合祀し賀茂神社と改称せり。 謹みて按ずるに祭神玉依姫命は賀茂別雷命の御母神にましまして共に京都下鴨神社の 御祭神なり。
折々当神社は濃尾の大平野を流れる木曽川の畔に神鎮まりまして境内は古来より廣大 鬱蒼として風致備り蒼生の心根を浄化する霊場として尊崇篤く、堀河天皇寛治七年( 皇紀一七五三年、西暦一〇九三年)以来、天下泰平五穀豊穣を祈願して執行される競 馬の第十八番を、尾張国五井庄の馬として牽引、馬料を奉献するを例とせられたり。 後白河法皇寿永三年(皇紀一八四四年、西暦一一八四年)甲辰四月、院廳の御下文に 依り武家の狼藉を禁令せられ、又同年源頼朝も亦之を奉じて保護に任せり。
当社は木曽川を遠く隔てて美濃国羽栗郡一帯の氏神として崇敬者多数ありしが、種々 の不便の為、水尾天皇慶長四年(皇紀二二五九年、西暦一五九九年)十二月二十四日 、美濃国羽栗郡南及村(岐阜県羽島市正木町南及)氏子の勧請により分社し、美濃国 一帯の氏子の氏神となせり。
昭和四年十二月二十七日、郷社に列せられ、又昭和二十一年一月十日附にて県社に該 当すと昇格の通知ありたり。

玉の井霊泉
境内に湧出する清水は、古来より名高く聖武天皇の御宇皇紀一三八九年(西暦七二九 年)・皇紀一四〇八年(西暦七四八年)、光明皇后病気平癒祈願成就の為、境内に神宮 寺を創建せられたり。又当社に参拝し霊水を用ひる時は種々の疫病眼病を治癒すると云 ひ、雷除けの御神符を家々に祀る時は雷災を避け得る霊験ありと伝えられ遠近よりの 参拝者後を断たざる有様なりき。
永仁四年(皇紀一九五六年、西暦一二九六年)、参議飛鳥井雅経、本社に参拝し、
  「思ひつや みたらし川にせしみそぎ わすれぬ袖の玉の井の里」
の歌を奉献し、また秋隆も、
  「汲みゝれは 遠きむかしのおもかけは こゝろにうつる 玉の井の水」
と詠進せり。
享保二年(皇紀二三七七年、西暦一七一七年)、偶然境内の林中を発掘せしに、「天 平三年辛未三月五日」(皇紀一三九一年、西暦七三一年)と墨書せる古井筒楔と古井 桁数片を見出せり、これ霊泉「玉の井」の跡にやあらん。此の地は往昔鎌倉街道に沿 ひ境内に清水の涌出せる故、旅人の渇を医し、文人墨客も亦杖を止めて参詣し、古今 詩歌に詠ぜられし場所なりと。
近世江戸時代、当地が尾張藩に属するや寛保元年(皇紀二四〇一年、西暦一七四一年 )、 藩の老職瀧川豊後守は石燈篭壹基を寄進し、宝暦六年(皇紀二四一六年、西暦一七五 六年)、藩守宗勝も亦同じく壹基を献じ、北方奉行所は毎年備銀を供し神門及び名泉 「玉の井」の修理を命じたり。
天保二年(皇紀二四九一年、西暦一八三一年)、藩廳に於いては本社に対し四反歩、 末社三社に壹町七反八畝拾歩の除地を附与し、天保十四年(皇紀二五〇三年、西暦一 八四三年)、藩守齋荘参拝の折「萬歳」の二字を染筆奉納する等篤き崇敬を寄せられ たり。
明治十一年(皇紀二五三八年、西暦一八七八年)、「玉の井」清水の後世名所古跡と して失われんことを慮り、時の県令安場保和は「玉井清水」の献碑をなせり。



阿遲加神社[アチカ]
阿遲加神社[あぢか]「日本武尊」岐阜県羽島市足近町直道1088-2 玄松子の記憶

若栗神社[ワカクリ]
若栗神社・八幡宮[わかぐり]「天押帶日子命 配 應神天皇」愛知県一宮市大字島村字南裏山75 阜嵐健

黒田神社[クロタ]
籠守勝手神社[こもりかって]「瀬織津比命、淀比命」淀比命のまたの名は豊比命。愛知県葉栗郡木曽川町大字黒田字往還東ノ切11 阜嵐健

籠守勝手神社
尾張国上門間ノ壮松枝ノ郷黒田ノ里ハ往昔木曽川下流ノ幾状トナキ流域中ニ介在シ降 雨ノ都度濁水氾濫ノ為、田園ヲ流出シ曽テ五穀ノ豊穰ヲ見ス毎年ノ雨期里人ハ此処彼 処ニ蹲リ旦彷徨シ施ス可キ術ヲ知ラサリキ皇極ニ癸卯年3月上丁ノ日始メテ瀬織津比 ・命淀比・命ノ御神札ヲ行フ爾後里人ノ尊信次第ニ加ハリ終ニ神霊ノ冥護ニ依リテ積 年ノ水害モ漸ク免ルルヲ得タリ今其神徳ヲ温ヌレハ瀬織津比・命ハ世ノ中ノ罪穢ヲ清 メ凶事ヲ除キ去リ給フ神ナリ淀比・命ハ豊姫豊比・命又ノ名淀姫又王妃命トモ謂フ神 功皇后ノ御妹ナリ三韓征伐ノ時干珠満珠ノ両顆ヲ得皇后ニ奉リテ異国ノ凶徒ヲ海中ニ 覆没セシメ大功ヲ立テ給フ、四十八代称徳天皇景雲年間及五十九代宇多天皇寛平年間 ノ両度官幣ヲ奉ラレシカハ爾来景雲祭ト称シ現在ニ臻ル、神礼ヲ執行シツツアリ六十 二代村上天皇ハ天暦5年ノ春洛中其外大疫病流行シ蒼生ノ悲惨極リナク宸襟ヲ悩マシ 給ヒテ勅使ヲ遣シ病気平癒ヲ御祈念マシマセリ斯クテ御裔胄ニアラセラルル久我雅定 卿ヲ始メ御代々御崇敬厚ク候爵従一位久我建通卿ハ籠守勝手神社ト彫鏤ノ額面及猶常 通卿ニハ先々代建通卿御所用ノ立櫻直衣ヲ御寄進アリ天正10年3月黒田城主澤井左衛 門尉雄重深ク当神社ヲ御崇敬セラレ本殿ヲ再建シ武運長久ヲ祈願セラレタリ尾張国式 社考書ニ黒田神社坐門間荘黒田村北宿松枝郷黒田ハ久呂太ト訓ムヘシ地ノ名ナリ国帳 元亀本ニ正四位黒田ノ天神民部省図帳ニ尾張葉栗郡黒田明神神田5束外以海鮮食塩為 横貢皇極2年3月初行神札神霊淀比・命瀬織津比・命二座也久我家相続以使祭之月 上丁ノ日ト有リ愛知県神社明細帳ニ延喜式神名帳所戴黒田神社也ト又張洲府誌尾張誌 等ニモ黒田明神ハ籠守勝手神社也ト見ユ此社往古ヨリ裡語籠守勝手大明神ト申伝フ尾 張名所図絵ニ黒田神社黒田村ニ在リ当所ノ生土神ニシテ延喜神名式ニ葉栗郡黒田神社 本国帳ニ従三位黒田天神ト記セリ例祭月9日国内神名帳明治神社誌料葉栗郡紀要ノ諸 書ニ記載セラル大泊瀬幼武ハ市邊押磐皇子ヲ誘ヒ興ニ猟シ是ヲ射殺ス皇子ニ二子有リ 億計弘計ト謂フ二皇子ハ危害ヲ懼レ丹波ヨリ尾張一宮真清田神社ヘ遁レ給ハントテ其 途路当神社ノ鬱蒼タル森林中ニ畏クモ御籠檻ノ儘御寝息坐シマセリ因ニ後世ニ至リテ 黒田山黒田明神ヲ籠守勝手大明神ト尊称サレタリ明治年壬申5月愛知県下第4大区12 小区ケ村郷社ニ制定セラレ翌6年10月27日郷社制定奉祝祭執行ニ付黒田村内割田村外 割田村玉ノ井村三ツ法寺村里小牧村北方村中島村曽根村ノ各村ヨリ神楽餅投ケ相撲ノ 余興ヲ奉納セリ爾来氏子崇敬者ノ信仰弥高ニ弥広ニ日夜改善ニ腐心シ社殿モ宏壮ニ祭 文殿廻廊拝殿神橋鳥居埒門社務所神馬舎斎館神庫等ヲ新築シ神苑ヲ拡張シ神域ノ壮厳 ヲ加ヘ又神社財産ノ増加ヲ企画充実セシメ今日ニ臻レリ。公爵久我常通書。
昭和年9月9日建之。



大野神社[オホノ]
大野神社[おおの]「譽田別命、天照大神、建水方神」愛知県一宮市浅井町大野郷東1042 阜嵐健

石作神社[イシツクリ]
石作神社[いしづくり]「建眞利根命」建眞利根命は垂仁天皇の皇后日葉酢媛命のため石棺を作って献上す。岐阜県羽島郡岐南町三宅木瀬25 阜嵐健

参拝のしおり
第60代醍醐天皇の延喜年間に着手され、延長5年(927年)に完成した。延喜式 の神名帳に石作神社が六社記載されており、そのうち4社が尾張地方御鎮座になって いる。建眞利根命は、天照大神の御ん孫天火明命の6世の子孫である。第11代垂仁 天皇の皇后日葉酢媛命のため石棺を作って献上し、大連公の姓を賜った。石作大連公 は建眞利根命の子孫である。石作氏一族は石作りを業とし、各地で活動する大氏族と なり、祖先をお祀りする石作神社を創建した。式内社が尾張地方に4社もあることは 石作氏一族の繁栄を示している。



宇夫那神社[ウフスナ]
宇夫須那神社[うぶすな]「余曾多本比賣命」愛知県一宮市大字島村字上深田84 阜嵐健
宇夫須奈神社「五百入姫命」青木の宮跡。愛知県葉栗郡木曽川町大字里小牧字砂越83 阜嵐健

宇夫須奈神社
所在地、木曽川町大字里小牧字砂越83番地。
祭神、五百木姫命、伊弉諾尊、伊弉冉尊、市杵島姫命。
社域約17260平方メ-トル。旧幤帛供進指定の村社、里小牧に「青木の宮跡」がある、 その昔は、小高い丘、幾もとかの木立があり、青木の宮があった。宇夫須奈神社はこ の宮を遷座申したもので、正保2年(1645)の記録が残っている。青木の宮にちなんだ 地名として、北青木、中青木、南青木が今日も用いられている。



川嶋神社[カハシマ]
川島神社「水波賣神」愛知県江南市宮田町四ツ谷285 阜嵐健
白鬚神社[しろひげ]「猿田毘古神」仁徳天皇10年。岐阜県羽島郡川島町笠田字村中146 阜嵐健

参拝のしおり
本社祭神は猿田彦ノ命ニシテ領主崇敬ノ社ナリ 即ち氏神トセリ、創立ハ人皇17世 仁徳天皇ノ御勅宣ニテ壬子10年川島笠田ノ人々宮室可造トノ御勅許ニ依リ頗ル宏壮 ニ造営セラレタリ、然ル后允恭天皇ノ御勅許ニテ乙 4年11月附ヲ以テ初テ社職姓 氏ヲ賜リヌルト傳ヘラレテイル。領主坪内伊豆守前藩富樫勇将ノ一族奉賽ノ社ニシテ 当国ハ勿論近国ヨリ賽スルモノ甚ダ多シ9月29日ノ例祭ニ東西南北尾張両国ニ ル 百村ノ長民参拝例式タルシガ枝広ガリノ洪水ニテ木曽川乱流トナリタルニヨリ止ミタ リ其ノ後領主ノ参拝及古式等ハ廃藩置県ノ際止ミタルナリ。


榎神社[えのき]「猿田毘古神」岐阜県羽島郡川島町松倉字前松倉前河原2433 阜嵐健

伊富利部神社[イフリヘ]
伊富利部神社[いぶりべ]「若都保命」伊富利部大神である。愛知県葉栗郡木曽川町大字門間字北屋敷3714 阜嵐健

大毛神社[オホケ]
大毛神社[おおけ]「大御食都姫命」愛知県一宮市大字大毛字五百入塚73 阜嵐健


丹羽郡[ニハ]:22座大1小21

阿豆良神社[アツラ]
阿豆良神社[あずら]「天甕津媛命」愛知県一宮市あずら1-7-1

阿豆良神社
吾鬘に鎮座まします神で、郷社(式内)阿豆良神社と申すが本名であります。祭神は天 みか津媛命で垂仁朝57年(紀元688)の創建、今年から1942年前に当る古社であります 。熱田神宮、津島神社、内津神社よりも古く、大県神社、国府宮尾張大国霊神社と殆 ど同時代で一宮真清田神社だけが神武朝33年であるから古いのであります。尾張本国 神名帳集説に「従一位阿豆良名神在稲置庄吾鬘村、釈日本紀尾張風土記中巻曰、丹羽 郡吾鬘郷巻向珠城宮御宇天皇(垂仁)品津別皇子、生七歳而語。傍問群下無能言之、乃 後皇后夢有神告曰、吾多具国之神、名曰阿麻彌加都比女、吾未得祝、若為吾充祝人皇 子能言、亦是寿考、帝ト人覓神者日置部等祖建岡君ト食、即遣覓神、時建岡君到美濃 国花鹿山攀賢木枝造縵誓曰吾縵落処、必有此神縵去落於此間、乃識有神、因堅社由社 名里、後人訛言阿豆良里也。」

右の由緒は諸書にありますが其の中最も簡結なものです。これを意訳しますと「垂仁 天皇に品津別皇子と云う皇子がありました。生まれ乍ら唖で七歳になられても言葉が 出ません、天皇は御心配の余り群臣に治療の方法を御尋ねになりましたが、誰も明答 を致しません。一夜皇后様の夢に「私は出雲の阿麻彌加都比女(天みか津媛)と申す 神であるが、今迄誰も祀ってくれないが祠を立て神に祭るなら、皇子の唖は立ち所に 治り天寿を全うして長生が出来やう。」と申して枕神は消えました。天皇は臣下に卜 占はせて建岡君に祭神の事を御委せになりました。建岡の君は美濃国花鹿山(揖斐郡 花長神社現存)に登って山中の榊の枝で縵(古代頭髪に押すもので「カンザシ」に当 る)を作つて、天神に祈って「此の縵の落ちた所が神を祭る所である。」と申されて 縵を遠く投げられました。縵は遠く南方に飛んで此の地に落ちました。そこで直ちに 神殿の造営にかかって天みか津媛命をお祀りになりました。「みづら」によって地名 となり後世言葉がなまって「あづら」となりました。古来此の神社に祈願すると聾唖 が治ると申すのも由緒から来たものであります。境内神社中に神宮司社と云うのがあ りますが前に述べた建岡の君が祀ってあります。(昭和56年1月)



田縣神社[タアカタ] 
田縣神社[たがた]「御歳神、玉姫命」母なる大地は、父なる天の恵により受胎す。なる古代日本思想により祀った。愛知県小牧市田県町152 阜嵐健

御由緒
世に名高い小牧長久手の合戦に、豊臣秀吉が陣取ったといわれる久保山。
そのふもとに続く俗称「縣の森」に当社は鎮座します。 御創建年代は古く、遠く弥生時代にさかのぼります。太古この地方一帯にすんでいた 豪族が、「母なる大地は、父なる天の恵により受胎する。」との古代日本の民族思想 により、五穀の豊穣、万物の育成、国土の発展を神に祈ったのにはじまります。
醍醐天皇の延長五年(九二七年)に編纂された「延喜式」には、田縣神社と記載され 、また貞治三年(一三六四年)の「尾張国内神名牒」にも、従三位上田方天神とあっ て、古くから格式の高い神社であったことがわかります。



稲木神社[イナキ]
稲木神社[いなぎ]「天照大御神、大中津日子命、月夜見命、五百筒磐村命、須佐之男命、白山比命、火産靈神、祓戸四柱大神」愛知県江南市大字寄木字稲木 稲木神社

参拝のしおり
当神社は創立は不詳であるが延喜式内社で祭神は垂仁天皇の皇子、大中津日子命で古 事記の垂仁天皇の項に有り、明治5年10月村社に列格し大正12年郷社に昇格した 。江南市で最も由緒正しい神社の1つである。お天道さんの名で人々に親しまれてい る。



石作神社[イシツクリ]
石作神社「天照大神」愛知県犬山市大字今井字宮ノ洞37 阜嵐健
神明社「武杵命」愛知県江南市大字石枕字北屋敷124 阜嵐健
八劔神社「日本武尊」駆け馬の神事。愛知県江南市大字小折字上源寺3700 阜嵐健

伊賀々原神社[イカカハラ]
伊賀賀原神社[いががはら]「日本武尊、仲哀天皇、乎止與命、祓戸四柱大神」愛知県江南市大字木賀字新宮448 阜嵐健

山那神社[ヤマナ]
山那神社[やな]「素盞嗚尊、菅原道眞」愛知県丹羽郡扶桑町山那字屋敷地609・610 阜嵐健
山那神社「八野若比賣命、日本武尊、神功皇后、應神天皇、玉依姫命」愛知県丹羽郡扶桑町南山名字森58 阜嵐健

尓波神社[ニハ]
爾波神社[にわ]「神八井耳命」愛知県一宮市大字丹羽字宮浦1410 阜嵐健

爾波神社
当神社は延喜神名式に丹羽郡爾波神社、尾張国内神名帳に従三位上丹羽天神、奉唱国 内神名帳に従一位丹羽大神とあり、俗に明神の社丹羽大明神社、爾波天神祠などと称 してきた。
祭神、神武天皇御子神八井耳命、往古尾張丹羽の県を治めた命の後裔丹羽の臣がその 祖神を祀つったものである。
創立、人皇第四十二代文武天皇大宝元年一月。 鎮座地、元大江川東南天神の地にあったが、寛文六年荒地破地を開墾して此の地に移 し奉り大宮跡壱反五畝を除地として神事に充てて来たが、大正年度耕地整理後はその 旧蹟は止めない、社殿は天文時代火災に罹り社記とともに焼失して由緒詳かでないが 、俚伝に古来丹羽郡の総社と云われている、昭和二十六年日米平和条約締結以前に氏 子の勇気と総力により、同二十年七月二十八日に空爆により焼失した本殿を同二十三 他社に先んじて再建、次いで祭文殿、社務所及び末社に至るまで悉く復旧した。 祭日、古来旧暦八月十五日のところ大正の中頃農事の都合により陽暦十月二十四日に 改める。
社格、明治五年五月式内郷社に列せられ同十年十月二十六日神饌幣帛供進神社に指定 。
末社、神明社、天照大神、寛正三年創立、稲荷社、豊受大神、天保六年創立、秋葉社 、迦具土神、天保元年創立、金比羅社、大物主命、不詳。



前利神社[サキト]
前利神社[さきと]「神八井耳命」前刀連は丹羽臣の同族。愛知県丹羽郡扶桑町大字斎藤字宮添3 阜嵐健

参拝のしおり
神八井耳命は神武天皇の第一皇子といわれ綏請天皇の兄とされています。上古では祭 政二元制をとっており兄が祭事を司り弟が政事を行なう天皇に即位される慣わしとな っており祭事の相続権を持った兄が上位とされておりました。この尾張一帯はかつて 上古の時代丹羽臣が支配しておりましたがその始祖が神八井耳命とされております。 斉藤を中心とした和田勝佐、山尻、江森、高屋、高木、山名、柏森を支配していた豪 族の前刀連は丹羽臣の同族となっていたため前刀連の前方後円式古墳の上に神八井耳 命を神祖として建てられた神社とされています。創建年代は不詳でありますが延喜式 神名帳に記されており今から約1300年以前に建てられた古い神社であります。昭 和13年3月12日県社に昇格された由緒ある格式の高い神社であります。



神社[モロクハ]
諸钁神社「建御名方命」愛知県犬山市字裏之門121 阜嵐健

阿具麻神社[アクマ]
阿具麻神社[あぐま]「阿具麻天神」愛知県一宮市千秋町天摩字惣神250 阜嵐健

針綱神社[ハリツナ]
針綱神社[はりつな]「尾治針名根連命、比賣命、伊邪那岐命、菊理姫命、大己貴命、竹筒草命、建多乎利命、建稻種命、尾調根命、大荒田命」白山大明神。犬山城築城で頂上から遷座。尾治針名根連命は火明命の十四世の孫。愛知県犬山市大字犬山字北古券65-1 阜嵐健

参拝のしおり
当神社は延喜式神明帳所載の式内社で本国貞治本には従一位針縄明神又同亀本には正 一位針綱明神とあり、太古よりこの犬山の峯に鎮座せられ東海鎮護、水産拓殖、五穀 豊饒、厄除、安産、長命の神として古来より神威顕著にして士農工商の崇敬殊に厚く 白山大明神と称えられ濃尾の総鎮守でありました。
中古織田信康公市内木の下城を社地に移築せんと御奈良天皇の宣旨を蒙り、天文6年 (1537年)8月28日市内白山平に遷座し奉った。以後69年を経た慶長11年 4月8日更に市内名栗町に遷座し奉り、城主成瀬氏代々の祈願所でありました。明治 維新の後明治15年11月名栗町の座地より天文6年まで座地であった現在地に御遷 座になり、戦前は県社とし戦後は宗教法人針綱神社(尾張5社の1つ)として近隣の 崇敬を集めています。



生田神社[イクタ]
生田神社[いくた]「稚日女命」天平勝宝4年。愛知県一宮市千秋町芝原字石原291 阜嵐健
神明生田神社「大日命、稚日女命」愛知県岩倉市下本町下市場25 阜嵐健
生田明神社「倉稻魂命 配 大日命」愛知県岩倉市大山寺町吸田596 阜嵐健
生田社「稚姫命」愛知県西春日井郡西春町徳重字米野2652 阜嵐健

宅美神社[タクミ]
宅美神社[たくみ]「武田王」愛知県一宮市大字西海道字中山73 阜嵐健

宅美神社
祭神、武田王。
当社ハ本国神名帳ニ従三位宅美神社ト見エ日本武尊ノ御子、仲哀天皇ノ皇弟武田王ヲ 奉祀ス、王ハ丹羽建部君ノ御祖ニシテ、此ノ地ニ在ラセラレ土地ヲ墾キ産業ヲ勧メ美 術工芸ヲ指導守護シ給イ古来此ノ地ヲ工ト称シ奉ル所以モ亦是ニ起因セリ、御所屋敷 跡ハ現在ノ参道南部一帯デアル。付記、建部ノ制度、景行天皇ハ日本武尊ガ伊勢ノ能 褒野ニ薨ゼラレシヲ痛ク悼マセラレテ其ノ御名代トシテ諸国ノ建部ヲ置カレシガ、当 国ノ建部ハ尊ノ御子、武田王ガ率ヒラレタリシガ丹羽建部君デアル。昭和七年四月二 十九日



鳴海神社[ナルミ]
鳴海神社[なるみてがし]「山岬多良斯神」愛知県犬山市大字羽黒字成海郷109 阜嵐健

削栗神社[ケツリ]
削栗神社[けぐり]「譽田別尊」愛知県一宮市千秋町勝栗字神子屋267 阜嵐健

託美神社[タクミ]
託美神社[たくみの]「日本武尊、大美和都禰命」愛知県丹羽郡扶桑町大字高雄字南郷147 阜嵐健

虫鹿神社[ムシカ]
虫鹿神社[むしか]「國常立尊、國狹槌尊、豐斟渟尊、大日靈貴命、菊理姫尊」愛知県犬山市大字前原字向屋敷62 阜嵐健

立野神社[タチノ]
立野神社[たつの]「菅原道眞、應神天皇、玉依姫命」愛知県犬山市大字上野字郷1506 立野神社
立野天神社「菅原道眞 配 天火明命」愛知県一宮市大字浅野字天神2 阜嵐健

井出神社[ヰテ]
井出神社[いで]「井出天神、水波賣命」愛知県江南市宮後字宮東1315 阜嵐健
神明社「大日尊」愛知県岩倉市井上町井出南1 阜嵐健

小口神社[ヲクチ] 
小口神社[おおぐち]「小口天神」愛知県丹羽郡大口町大字小口字城屋敷11 阜嵐健

鹽道神社[シホチ]
塩道神社[しおみち]「大日貴神」愛知県一宮市千秋塩尻字居屋敷690 阜嵐健

大縣神社[オホアカタ](名神大)
大縣神社[おおあがた]「大縣大神」祭神を国狭槌尊、国之常立尊、大荒田命とする説がある。垂仁天皇27年尾張本宮山頂より現在地に御鎮座。本宮山一の池・二の池の奥の「おそそ洞」に「御社根磐」と言う磐座がある。姫の宮豊年祭も有名である。愛知県犬山市字宮山3 玄松子の記憶

参拝のしおり
尾張国開拓の祖神、大縣大神を祀る。社伝によれば、垂仁天皇27年(約2000年 前)尾張本宮山頂より現在地に御鎮座申し上げたと伝えられる。
延喜式内の名神大社にして、尾張二の宮として広く尊宗せられ、事業繁栄・家内安全 ・開運厄除・交通安全の守護神として上下の人々の崇敬篤く、四時参拝者が絶えませ ん。
尚、御社殿は尾張藩主2代目徳川光友公御再興の建物で、御本殿は三棟造と称され他 に類をみない特殊な様式を備え、国の重要文化財の指定を受けております。旧国幣中 社。




春(日)部郡[カスカベ]:12座並小

非多神社[ヒタ]
六所神社境内摂社非田神社[ひだ]「國常立尊、天御中主尊」愛知県名古屋市西区比良3-154 阜嵐健

乎江神社[ヲエ]
六所神社境内摂社大江神社[おおえ]「木花開夜姫命」愛知県名古屋市西区比良3-154

外山神社[トヤマ]
外山神社[とやま]「天照大神」愛知県小牧市北外山字南屋敷1494 阜嵐健

片山神社[カタヤマ]
片山八幡社「應神天皇、少彦名命」愛知県小牧市村中字洞木48 東区、鎮守の守
天神社「吾田片隅命、品陀別命、天照大神、火産靈命、菊理姫命、建速須佐之男命」愛知県春日井市牛山町字皿屋敷431 阜嵐健

訓原神社[クニハラ]
訓原神社[くにはら]「少彦名命」愛知県西春日井郡師勝町大字井瀬木字南五反地甲418 阜嵐健
白山神社「菊理姫命」愛知県春日井市外之原字前田2631 阜嵐健

牟都志神社[ムツシ]
牟都志神社[むつし]「菊理姫命」愛知県西春日井郡師勝町大字六ツ師字南屋敷760 阜嵐健

味鋺神社[ミマリ]
味鋺神社[あじま]「宇麻志麻治命、天照大神」愛知県名古屋市北区楠町味鋺2-736 味鋺散歩

由緒書き
当社は延喜式神名帳に記載されている古社である。宇麻志麻治命は物部氏の始祖であ り、その子孫が美濃、尾張、三河を平定しこの地に祖先を祀ったと伝えられている。



物部神社[モノゝヘ]
白山神社に合祀「伊邪那岐命、伊邪那美命、天兒屋根命、菊理比賣命 合 可美眞手命」愛知県春日井市二子町2丁目11-2 阜嵐健
八所神社「宇麻志麻治命」明治以前は氏神物部社、他の社を寄せ集めて八所神社とした。 明治二年の「尾張神明帳集説本之訂考」改題「尾張国神社考」(津田正生著)という本では、豊場の八所神社を物部神社としている。 ペギラさんの情報
愛知県西春日井郡豊山町大字豊場字木戸69 天璽瑞宝

伊多波刀神社[イタハト]
伊多波刀神社[いたはと]「高皇産靈尊」元の祭神は五十猛命。愛知県春日井市上田楽町3454 阜嵐健

高牟神社[タカム]
高牟神社[たかむ]「高皇産靈命」創建は養老元年(717年)。愛知県名古屋市守山区大字瀬古字高見2400 阜嵐健

高牟神社
祭神
 高皇産霊命 素盞鳴命 伊邪諾命 大山祗命 天照大御神 菊理媛命
由緒
 創建は養老元年(717)11月15日で高見と言う称号をいただいた。
本殿は昌泰三年(900)9月再建あり。
文政8年(1825)8月修造、同6年5月、社務所、同7年8月、拝殿、同12年 8月幣殿をそれぞれ造営する。
「延喜式」に春日部高牟神社、「本国帳」には従3位高牟天神、「尾張本国内神明帳 」に従3位上高見天神と記るす古社なりと。明治40年10月26日供進指定社とな る。同41年4月7日字右京浦1996番、神明社。字屋敷93番、山神社。昭和5 年3月3日、字柴荷、白山社。字屋敷、神明社の4社を合祀した。
同20年5月、戦災により社殿を消失、同36年10月造営復興した。
例祭日 10月10日
社殿  神明造0.30坪、拝殿12.00坪、社務所41.00坪
境内坪数 762.75坪
氏子数  1,100戸


松原神社「高皇産靈尊、倉稻魂命、埴山媛命、稚牟須比命、大宮姫命、大山祇命、猿田彦命、底筒男命、中筒男命、表筒男命、神功皇后」高牟神社は金工の祭神。愛知県春日井市東山町2263 阜嵐健

内々神社[ウチウチ]
内々神社[うつつ]「建稻種命、日本武尊、宮簀姫命」雨ごい歌[ここが内津か妙見さまか 竜が水吐く おもしろや西右に立つ雲 乾にや夕立やがて降り来る 村雨が]。景行天皇四十一年尾張連祖、建稲種命を祀る。愛知県春日井市内津町字上町24 阜嵐健

縁起
「延喜式神明帳」(九二七)にその名の見える古い神社で(式内社という)、創建に ついては日本武尊の東征と深い関係をもち、「妙見宮由緒書」(吉見幸和著・一七〇 二)によると、景行天皇四十一年尾張連祖、建稲種命をまつったのにはじまる。
建稲種命は熱田神宮にもまつられているが内々神社より八、九年おそい創建となって いる。
いずれも国造りの始祖の神霊をまつったもので、そのご、各地にたの神社が勧請され しだいに氏子が減少していったという。
内々神社は中世までは、この地域一帯の篠木荘三十三か村の総鎮守で祭には村ごとに 毎年湯立神楽が奉納されたらしく、現在も内津村、堀内村、上大富村、下大富村(大 留村)・神将村(神領村・)・討手村(・)の銘がある釜がのこっている。
また、尾張、美濃両国の農民たちは、雨ごいの際には当社に祈願をかけており、この 地域住民の精神生活の中心であった。
ちなみにつぎのような雨ごい歌がのこっている。
ここが内津か 妙見さまか 竜が水吐く おもしろや西右に立つ雲 乾にや夕立 やがて降り来る 村雨が。
前述の「妙見宮由緒木書」をつづけると、建稲種命は天香語山命の後裔、小豊命の子 、宮簀姫のあにで、母は尾張大印岐女真敷き刀婢である。
尾張連清稲の選述した「熱田縁起」によれば、日本武尊が東征の帰路、尾張にはいり 篠城に到着して内津の坂をくだられる頃、副将軍建稲種命の従者久米八腹が、建稲種 命が駿河の海に落ち水死された、と早馬をもって報告した。
日本武尊はこれを聞き悲泣して、「うつつかな、うつつかな」といわれその霊をまつ られたのが内津神社で、神社の有る町を内津というようになったという。
なお、建稲種命の死因については、命が一日船をうかべておられると、羽うつくしく 声おもしろい異鳥が海上に飛翔するをみて、これをとらえ日本武尊に献上しようと、 おいまわすうちに突風がおこり乗船が転覆し溺死したと書かれている。
むかしから武将の崇敬があつく、慶長二年(一五九七)には、豊臣秀吉が朝鮮出兵の おり、戦勝を祈願して社頭の大杉七本を伐採して帆柱とし、凱戦ご御礼に社殿を造営 したという。
また、慶長十八年(一六一三)には美濃土岐郡妻木城主妻木伝入ならびに可児兼山城 主森右近が、天正年中兵火にかけたところをわびて、妻木の城主は鐘楼をたて、妻木 村のなかに妙見宮を勧請し、日々崇敬して神罰をまぬがれたとある。
また、社宝として武士、信者から寄進された幾多の刀剣、鏡などがある。
中世からは妙見宮といい、妙見尊王を本地とし、建稲種命を垂迹とした、いわゆる妙 見信仰を中心として隆盛をきわめた。
これと密接な関係にある神宮寺妙見寺は、密蔵院開山慈妙上人によって嘉暦年間(一 三二六〜二九)に建立されている。
ちなみに、「延喜式」に春日部郡内々神社、「尾張国神明帳」には正三位内々天神と しるされている。
祭神は建稲種命・日本武尊・宮簀姫命である。
境内社には福神社(大国主神・事代主神)・三峯社(日本武尊)・天王社(素盞嗚命 )・稲荷社(稲荷五柱神)・双殿社(迦具土之神・菅原道真・天照大御神・市寸岐島 命・大山祇命・伊弉諾尊)がある。



多氣神社[タケ]
多気神社[たき]「伊邪那岐命、伊邪那美命、天照皇大神」愛知県小牧市多気中町242 阜嵐健


山田郡[ヤマダ]:19座並小

片山神社[カタヤマ]
片山神社「藏王大權現 配 安閑天皇、國狹槌命」愛知県名古屋市東区芳野2-4-28 阜嵐健

由緒書き
和銅2年創祀、一説には持続2年役行者の開基という。延喜式神名帳に尾張国玉ノ井 ノ庄片山神社、本国帳に従三位片山天神と記されている。往古より片山天神、蔵王天 神、蔵王社、片山蔵王神社と呼称され明治初年郷社に列せられ片山神社となる。



大目神社[オホメ]
大目神社[おおめ]「五男三女神」愛知県瀬戸市巡間町1 阜嵐健

羊神社[ヒツシ]
羊神社「火之迦具土神 配 天照大神」愛知県名古屋市北区辻町5-26 阜嵐健

参拝のしおり
創立年月日は不詳なれど、第61代醍醐天皇の御代にまとめられた延喜式神名帳に、 尾張の国山田郡羊神社と記され、本国帳に従三位羊天神とある古社である。神社に保 存されている棟札によれば、本殿は慶長10年に再建されたとある。その後天保9年 尾張藩主徳川斉温公の時代に改築され今日に至っている。



深川神社[フカカハ]
深川神社[ふかがわ]「五男三女神」光仁天皇宝亀2年の創立。愛知県瀬戸市深川町11 深川神社公式

川嶋神社[カハシマ]
川嶋神社「伊邪那美命、大苫邊命、譽田別天皇」平城天皇2年(807年)尾張国の連沖津が創建した。愛知県名古屋市守山区川村町281 阜嵐健

川島神社
神社の明細帳に「この社は日本彦国押入天皇(平城天皇)2年(大同2年807)尾 張国の連沖津が創建したと伝える。延喜式内尾張の国山田郡従3位川島天神と言うの はこの神社である。」と天野信景の「本国神名帳」にも川島神社は春日井郡川村氏神 熊野宮である。小田切春江の「尾張名所図絵」も川島の神社と記す。明治5年5月、 村社に列し、同15年5月4日、今のように社号を改めた。同40年10月26日供 進指定社となり、同44年4月17日字柳原の八幡社と字山際の八剣社又字鴻巣の山 神社を合祀した。昭和44年5月3日社殿及び社務所を造営する。同年9月18日8 等級社に昇級した。棟札は江戸初期から現在まで20余社蔵する。
例祭日 10月15日



小口神社[ヲクチ]
小口神社[おおぐち]「小口天神」愛知県丹羽郡大口町大字小口字城屋敷11 阜嵐健

伊奴神社[イヌ]
伊奴神社[いぬ]「素盞嗚尊、大年神、伊奴姫神[いぬひめのかみ]」愛知県名古屋市西区稲生町2-12 伊奴神社公式

由緒 鎮座地、名古屋市西区稲生町2丁目12番地、祭神、素盞鳴尊、大年神、伊奴姫神( いぬひめのかみ)稚産霊神(わくむすびのかみ)他、七柱を祀る。
天武天皇の御代白鳳2年(673年)この地でとれた稲を皇居に献上した際、社殿を創建したと伝え られている。昔は稲生村とよばれ、庄内川の流域で古くから稲作が盛んでありました 。農業の守護神として崇敬された。約千年前の法令書「延喜式」に尾張国山田郡、伊 奴神社と記載され、当時の国幣社であって、「式内社」とも云われる神社である。又 「尾張国内神明帳」には従三位伊奴天神と記載されている。御神徳により、農業を始 めあらゆる産業の発展興隆、安産、子供成育の守護神として参詣者も多い。境内には 椎の古木(樹齢約800年)、大楠木2本や、シャシャンボ(南方系で北限といわれ る珍しい木)を始め多くの樹木が繁茂し、森全体が「緑地保全地区」に指定されてい



金神社[カネ]
金神社[こがね]「尾治金連 配 安閑天皇、金山彦也」愛知県瀬戸市小金町69 阜嵐健

和尓良神社[ワニラ]
天神社[てんじんしゃ]「吾田片隅命、品陀別命、天照大神、火産靈命、菊理姫命、建速須佐之男命」愛知県春日井市牛山町字皿屋敷431 阜嵐健
朝宮神社[あさみや]「阿太賀田須命、建手和爾命、菊理姫命」愛知県春日井市朝宮町7054 阜嵐健

由緒
創建は不詳。延喜式神明帳(延喜五年、九二七年)の式内社和爾良神社とつたえられ ているがさだかではない。
建保六年(一二一八年)加賀白山より菊理比売命を合祀し朝宮白山宮と称した。 寛永十九年(一六四二年)徳川源敬公により改造営され朝宮神社となった。
なお、文録四年(一五九五年)の「奉再建和爾良白山宮御本殿」の棟札がのこってい る。
今回、区画整理にともない境内地の変更もあったので本殿拝殿とも鉄筋コンクリート つくりで再建し境内も整備して昭和六十三年(一九八八年)遷座祭をおこなう。


両社宮神社[りょうしゃぐう]「譽田別命 配 日本武命、大國主命、建手和尓命、阿田賀田須命」徳川末期、森のなかに延喜式(九二七)以前の和爾良神社祠を発見し合祀。愛知県春日井市宮町1 阜嵐健

御由緒
創建は慶安元年(一六四八)。
延享元年(一七四四)に八幡社と熱田社とをあわせまつり両社太神宮とよぶ。 徳川末期、森のなかに延喜式(九二七)以前の和爾良神社祠を発見し合祀、慶安二年 (一八六六)尾張藩から式内和爾良神社両社宮の社号を許可されたが、明治三年(一 七八〇)から両社宮神社とあらためた。
昭和二十二年(一九四七)郷社に認定、六等級社となる。
現在の本殿・祭文殿は昭和三十一年竣工、拝殿は文政十年(一八二七)改築の建物。 また、昭和三十四年の伊勢湾台風で巨大な森は全滅、以後植林して現在の森となる。
例祭は十月の十日から十六日までの日曜日。


和爾良神社[かにら]「阿太賀田須命 配 建手和尓命、伊弉册命、磯城津彦命、菊理姫命」愛知県春日井市和爾良字寺中3,619番地
和爾良神社「譽田別尊、宿禰大臣」愛知県名古屋市名東区猪高町猪子石原字西ノ切1098 阜嵐健

由緒(掲示板)
往古当村家は主に武内宿禰3代の孫に当る。
斎庭の連等が親に相成理宿禰を称を給う事となり(和各抄)尾張国山田郡()首原の 里とあるが当神社である。
当神社の近辺には古墓所が多く石棺ある中にみられる
延喜式に尾張国山田郡和爾良天神又は本国帳に従三位和爾良天神とあり古社でもある


景行天皇社「大帶日古淤斯呂和氣命」愛知県愛知郡長久手町大字長湫字宮脇2 阜嵐健

由緒書
1、祭神 大帯日子淤呂和氣命 
1、例祭 10月15日 
1、由緒 承和4年(8 37)斎藤氏が天皇御事蹟の長湫根ノ神に創建し、そのご大久手、枯乎良岐と移り長 久手合戦後の慶長9年(1609)城主の支援を得て今の地に御遷座したと伝えられ ている。天正年間には徳川家康が戦勝を祈願葵紋太刀三振りを寄進し、伝統行事とし て氏子による警固祭、棒の手の奉納がある。明治5年村社に列格、戦後宗教法人とな る。昭和20年代より改築改修を重ね社頭の面目を一新した。
1、境内地1300余 坪。



多奈波太神社[タナハタ]
多奈波多神社[たなばた]「天之多奈波太姫命、天照皇大神、應神天皇、大山津見命、大己貴命、素盞嗚神」棚機天神。愛知県名古屋市北区金城4-13-16 天文民俗学

由緒書き
延喜式神名帳に山田之郡多奈波太乃神社、本国帳に正四位下棚機天神とあり、大正1 1年指定村社、昭和39年社殿造営、昭和56年7級社に昇格。



綿神社[ワタ]
綿神社[わた]「玉依比賣命、神功皇后、應神天皇」愛知県名古屋市北区元志賀町2-53-1 阜嵐健

由緒書き
延喜式神名帳、国内神名帳、尾張名所図絵等に記載される古社である。鎮座地は織田 信長公の忠臣平手政秀の居住地であり、両者からも厚い崇敬をうけた。旧郷社。



澁川神社[シフカハ]
渋川神社「高皇産靈大神 合 大年神、御食津大神、庭高日大神、阿須波大神、波比伎大神、大宮賣大神、八重事代主大神」愛知県尾張旭市印場元町北島3977 阜嵐健

太乃伎神社[オホノキ]
大乃伎神社[おおのぎ]「伊弉諾尊 配 伊弉册尊、大日尊、月讀尊、蛭兒尊、素盞男之命」愛知県名古屋市西区大野木2-233 えーなも探偵団

由緒
鎮座地、名古屋市西区大ノ木2丁目233番地。
祭神、伊弉諾尊、伊弉册尊、天照大御神、須佐乃男尊、月読尊、蛭子尊、創始年代は 詳らかでないが「延喜式 神明帳」に大乃木神社と登載され「尾張国神明帳」にも従 三位大乃木天神と記されている、安永8年(1779年)庄内川氾濫し大洪水のため 文庫流失して現在、確固たる由緒を知る由もなく、天和2年(1682年)5代将軍 綱吉に仕えた春日井郡の城主、塙宗悦の寄進により修復せりと言う、明治5年5月郷 社に列せられとある、明治40年10月26日指定社となる。大正10年5月31日 市場社と児宮社と天神社と津島社を境内神社として合祀した、昭和11年5月15日 社殿を改築する。



尾張神社[ヲハリ]
尾張神社[おわり]「大名持命、香山命、譽田別命」愛知県小牧市大字小針字中宮107-1 阜嵐健

別小江神社[ワケヲエ]
別小江神社[わけおえ]「伊弉諾尊、伊弉冉尊、大日靈尊、素盞嗚尊、月讀尊、蛭兒尊」愛知県名古屋市北区安井4-14-14 阜嵐健

大井神社[オホヰ]
大井神社「罔象女命、速秋津彦命、速秋津姫命」愛知県名古屋市北区如意2-1 阜嵐健

由緒書き
和銅・養老年間(700年代)に大井の池のほとりに産土神として勧請せられた。
中世大水の難を避けて現在地へ鎮座される。
延喜式神名帳に山田郡大井神社と記録される式内社である。



坂庭神社[サカニハ]
坂庭神社[さかにわ]「國常立命、國狹槌命、天照皇大神」愛知県小牧市多気東町9 阜嵐健
星神社「大己貴命 配 天香香背男神、牽牛、織姫」天香々背男神に牽牛、織女の二星を合せ祀る故に通名酒庭星社と言い伝えています。愛知県名古屋市西区上小田井1-172

由緒
鎮座地名古屋市西区上小田井1丁目172番地、祭神、大己貴命、天香々背男神、牽 牛、織女、延喜式神祇巻第九尾張国山田郡19座、並小ノ内17座目、坂庭神社とある是 なり現在の坂井戸町にありました。尾張本国帳に従三位坂庭神社(天神)(一本に作 正四位下)とある、毎年7月7日(旧暦)社内に祭場を設け奥に土壇を築き酒を注ぎ 天香々背男神に牽牛、織女の二星を合せ祀る故に通名酒庭星社と言い伝えています。 この星祭りは古く仁和年中(約1100年前)大江音人の子孫 政盛(現在の上小田 井一丁目西部)に居住す、秀才な人でしたが本望が遂げられず故に朝夕当神社に祈る こと3年京へ行き官職に就く、その後政盛の一子五郎政輝、当神社を崇敬すねこと父 の如く学問に精通し書道にも優れ、父と同様京へ行き官職に就く当地を去るに及び近 隣の人々に感謝して言ふ「私は此の神社のお蔭にて願望を達することが出来て感謝に 堪えないみなさんにお願いは皆さんの為に当神社の祭礼を怠る事無く奉仕して下さい 」と言って大江社と言う社を建立して当地を去った。弘安3年軍卒多数来て当神社附 近で火事が起こり当神社悉く焼失しました、故に祭典が出来なくなりました、その後 60余年右近中将藤原朝臣実秋悲しみて社殿、回廊、拝殿、楼門等を新築して祭典を 起こしたので復興しました。社領4町8反(神官、社家両職あり)信長公の御代まで ありましたが太閤殿下の御時残らず召し取られたる由。



尾張戸神社[ヲハリヘ]
尾張戸神社[おわりべ]「天火明命、天香語山命、建稻種命」愛知県名古屋市守山区大字志段味字東谷2099 超古代ロマン

石作神社[イシツクリ]
石作神社「建真理根命」愛知県愛知郡長久手町大字岩作字宮後17 阜嵐健

由緒書
当神社は御宇建立は人皇五十四代仁明天皇の承和元年甲寅の歳(834)愛知群長久 手町大字石作字宮後17−1に鎮座。往古は旧山田郡に属したるも室町時代末期頃山 田郡が廃絶と共に愛知群にはいる。古くは神明社と称し、又五社明神とも傳う。延喜 式神明帳に従三位石作天神と、明治五年五月式内郷社を賜る。祭神は建真理根命で天 孫本紀に始祖天照国照天明彦、櫛玉驍速日尊(天火明命)の子、天香語山命その子の 天村雲命の六世の孫、建田背命の條を次ぐ、建真理根命は石作連桑内連、小島県主等 の祖である。




愛智郡[アイチ]:17座大4小13

日置神社[ヒヲキ]
日置神社[ひおき]「天太玉命」愛知県名古屋市中区1-3-21 阜嵐健

参拝のしおり
創立は不祥であるが延喜式に「尾張國愛智郡日置神社」とある。尾張國内神名帳に「 従三位日置天神」とあり、また同貞治本には「従一位」とある。中世に、山城國男山 から八幡大神を勧請して合祀。永禄3年5月、桶狭間の役に織田信長出陣の途次当神 社に祈誓あって、戦勝後、報賽のため神域に松樹千本を植えた。俗に当神社を「千本 松日置八幡宮」と崇めた。明治維新の際、社号復旧「日置神社」と改む。明治4年郷 社に列格。同40年10月26日神饌幣帛料供進神社に指定される。同42年10月 隣接の村社神明社を合併、相殿に配祀する。昭和20年戦災を受く、同33年社殿復 興造営完成。



上知我麻神社[カムツチカマ]
熱田神宮境内摂社上知我麻神社[かみちかま]「乎止與命」愛知県名古屋市熱田区神宮1丁目1-1 玄松子の記憶

星宮社境内末社の知我麻社[ほしのみや][ちやま]
「伊奈突智翁命」星宮社は「天津甕星神」を祀る。愛知県名古屋市南区本星崎町宮西622

下知我麻神社[シモツチカマ]
熱田神宮境内摂社下知我麻神社[しもちかま]「眞敷刀俾命」愛知県名古屋市熱田区神宮1丁目1-1 玄松子の記憶

熱田神社[アツタ](名神大)
熱田神宮「熱田大神 配 天照大神、素盞嗚尊、日本武尊、宮簀媛命、建稻種命」愛知県名古屋市熱田区神宮1丁目1-1 熱田神宮公式

熱田神宮について
[鎮座地]名古屋市熱田区神宮一丁目1番1号、[電話]052(671)4151 名古屋市のほぼ中央に広がる緑の神苑「熱田の森」に鎮まります熱田神宮。古くから 「熱田さん」・「宮」と呼ばれて親しまれ、年間1千万人に近い参拝の人々で賑わい 、地元はもとより全国津々浦々から「日本の心のふるさと」として限りない崇敬と信 仰を集めております。

一、由来
祭神 熱田大神(あつたのおおかみ)・相殿神(あいどののかみ) 天照大神(あま てらすおおかみ)、素盞嗚尊(すさのおのみこと)、日本武尊(やまとたけるのみこ と)、宮簀媛命(みやすひめのみこと)、建稲種命(たけいなだねのみこと) 祭神の熱田の大神とは、三種の神器の一つである草薙神剣(くさなぎのみつるぎ)を 御霊代(みたましろ)として、よせられる天照大神のことであります。天照大神は、 言うまでもなく、皇室の御祖神として至高至貴の神と仰がれ、人々にいつくしみの徳 をあたえられた神であります。また、相殿神は「五神(ごじん)さま」と呼ばれ、草 薙神剣とゆかりの深い神々で、宮簀媛命、建稲種命は尾張氏の遠祖として、仰がれた 神々でもあります。御鎮座は、日本武尊の御事蹟と深い関係があります。御父景行天 皇から絶対の御信任を受けた尊は、御東征の帰途、尾張国造の御女宮簀媛命をお妃に お迎えになり、やがて草薙神剣をこの国に留めて崩じられました。その後、宮簀媛命 は日本武尊の御遺志を重んじられ、神剣を今の熱田の地に祀られました。今からおよ そ1,880年前になります。

二、祭典
年間約60度の恒例の祭典と、約10度の特殊神事が昔ながらの尊い手ぶりのまま、 今に伝えられています。数多い祭典の大半が産業、民生と深い関係のあることは、熱 田神宮の歴史的な特性をよくあらわしております。中でも一番大きなお祭りは、あつ た祭りの名で呼ばれる6月5日の例祭です。この祭りには天皇陛下のお使いとして勅 使の御奉仕があります。また、初詣、1月5日の初えびす、5月8日からの豊年祭( 花の撓)、七五三まいりなどは、殊に多くの参拝者で賑います。

三、境内・社殿・建造物
境内は、古くから雲見山・蓬莱島の名で知られ、大都会の中心にありながら静かで、 市民の心のオアシスとして親しまれています。面積約190,000平方米(約57 ,600坪)、境外地をあわせると約539,000平方米(約163,400坪) にのぼります。神苑の樹木はクス・ケヤキ・カシ・シイ・ムク・イチョウ・クロガネ モチ等比較的広葉樹が良く育ち、ことにクスは巨木が多く、樹齢千年前後と推定され るものが数本あります。有名な木には、弘法大師お手植と伝える「大楠」、花が咲い ても実のならない「ならずの梅」、茶人の愛好する「太郎庵椿」などがあります。境 内外には、本宮の外、1別宮、12摂社、31末社が祀られています。本宮社殿の構 造は、古くから尾張造という特殊な様式でありましたが、明治26年から神明造に改 められ、現在の社殿は昭和30年の御遷座であります。著名な建造物は、西楽所・清 雪門・信長塀・佐久間燈篭・二十五丁橋等があり、先の大戦後逐次造営されたものに 、神符守札授与所・神楽殿・勅使館・能楽殿・土用殿・文化殿・宝物館・斎館・会館 (結婚式場)・宮庁・龍影閣・千秋閣・参拝者休憩所・茶席等があります。

四、宝物
当神宮には、その尊い由緒からも、長い歴史の上からも多数の貴重な宝物があり、総 数は4千余点にのぼります。そのうち百点近くが国宝及び重要文化財に指定されてい ます。その所蔵品は、縄文時代から現代におよび、朝廷、代々の幕府、戦国の武将、 尾張藩公からの寄進から一般庶民のまごころこもる献納品までで内容は、書跡、絵画 、彫刻、工芸、和鏡、刀剣等多岐に亘ります。このうち特に有名なものは、熱田本日 本書紀、法華経涌出品、舞楽面、菊蒔絵手筥、古神宝、来国俊の短刀をはじめとした 刀剣類等であります。これらの宝物は宝物館で順次展観されています。

五、造営
当神宮は先の大戦で手痛い戦災をうけ、荘麗をつくした諸施設も、すべて焼失いたし ました。この戦災の復興は、幸いにも崇敬者の熱意によって、昭和30年御遷座が行 われ、その後も諸施設の造営、境内整備に力を注ぎ、現在では昔日の姿をしのぐ神器 奉斎の社にふさわしい偉容が整えられてきました。なお復興計画は、単に戦災によっ て失われた社殿や、建造物の復興というだけでなく、新時代の神社の施設としてふさ わしい総合的な文化施設をも完備し、名実共に崇敬者の心のよりどころにしようとす すめられてきたものであります。

六、諸事業
時代に即応して神徳を宣揚し、報恩の誠を捧げる崇敬者のために、奉賛会・熱田講社 ・豊年講・神御衣奉献会・恵比須講・稲荷講・敬神婦人会・桐竹会・朱鳥会・献茶会 ・よもぎ花道会・刀剣保存会・献菊会・ボーイスカウト・ガールスカウト・青年会・ 児童合唱団・蓬栄会・緑陰教室・日本を考える会・学院等の各種団体を結成し、積極 的な事業が行われているほか、各種講座、講演会等を開催しています。

七、付記・奉賽(おまいり)のてびき
特別参拝は御垣内で、神楽・祈祷(家内安全・会社繁栄・商売繁昌・厄除・初宮詣・ 自動車祓・諸願成就・各種祈願等)は神楽殿で、結婚式は儀式殿で、それぞれ執り行 います。また、地鎮祭・上棟祭・竣工祭・清祓・安全祈願・進水式・神符奉賽・火入 式・起工式・月次祭等の祭典はお申し出によって出張して奉仕いたします。なお、結 婚式のすべて(披露宴・貸衣裳・着付・記念写真・旅行等)は神宮会館にてうけたま わっております。
授与所においては、家内安全・業務繁栄のお札、身体安全・学業・交通安全・安産・ 厄除等のお守と、神舎・初宮絵馬・各種土鈴・絵葉書・由緒記等を授与しております 。なお、特殊な神札、授与品としては、初詣の干支絵馬付破魔矢・えと守・七五三詣 の笹飴(千歳飴)、上知我麻神社の、はたらきえびす・あきないえびす神札と招福熊 手・福箕等があります。



御田神社[ミタ]
熱田神宮境内摂社御田神社[みた]「大年神」愛知県名古屋市熱田区神宮1丁目1-1 神社公式
七所社神社境内摂社の御田神社[しちしょしゃ][みた]「保食神」愛知県名古屋市中村区岩塚町上小路7 阜嵐健

高牟神社[タカム]
高牟神社[たかむ]「高皇産靈神、神皇産靈神、應神天皇」成務天皇の御代の鎮座。愛知県名古屋市千種区今池1-4-18 えーなも探偵団

高牟神社略記
第十三代成務天皇(一三一年)の御代の鎮座にして、第五十六代清和天皇(八九五年 )の御時御造営に際し勅して応神天皇を配祀せしめられる。
応神天皇御神像は束帯乗船の香木座像で世に出船八幡とも申され俗に古井八幡と称せ られる。
延喜式神名帳(九〇一年)愛知郡の部に「高牟神社あり小社なり」国内神名帳に「従 三位高牟久天神」参考本国帳に「従三位高牟神社天神一本作正四位下高牟久(古井村 号八幡)」
尾張国式社座地目録に「高牟神社(鳴海庄古井村)」
尾張神名帳集説、参考本国神名帳集説、塵点録には「按姓氏録日、高向朝臣、武内宿 祢六世孫、猪子臣之後也、云々私曰、武内宿祢仕応神帝有勲功、故石清水祭之、号上 高良、称八幡者、有其故乎」といへり
嘉吉元年(一四四一年)、寛正二年(一四六一年)十一月、天文元年(一五三二年) 九月、永禄八年(一五六五年)五月、慶長八年(一六〇三年)十一月等に改造あり。 寛永11年(一六三四年) 正月山下大和守氏勝修理を加へ天和三年(一六八三年) 九月藩守光義(瑞龍院)修覆せられし以来城南の鎮護として崇敬せられ絶えず修造料 を賜はる。元禄十一年(一六九八年)五月、宝永六年(一七〇九年)十二月、享保七 年(一七二二年)四月、寛保元年(一七四一年)寛延三年(一七五〇年)九月、宝歴 八年(一七五八年)天明六年(一七八六年)八月、弘化四年(一八四七年)二月に各 修造御遷宮がありました。
明治初年式内に治定され、同五年五月御社に列せらる。大正十三年四月社務所火災に て焼失す。同年七月本殿、祭文殿、渡殿、楽舎、神饌所内外玉垣等を改築東し、神楽 殿、宝庫、社務所を新築大正十五年十月十三日竣工遷宮祭を行った。 昭和十五年県社昇格事業として御本殿(五坪)斎館(三十坪)の新築及御拝殿改増築 を行ふ。 昭和十九年県社昇格内定される。



川原神社[カハラ]
川原神社「埴山姫命、罔象女神」神社名鑑(昭和39年)には「日神」が筆頭祭神。愛知県名古屋市昭和区川名本町4-4-11 さんぽみち

針名神社[ハリナ]
針名神社[はりな]「尾治針名根連命、大己貴命、大國主命、少彦名命、應神天皇」愛知県名古屋市天白区天白町大字平針字大根ヶ越175 えーなも探偵団

式内 針名神社由緒記
(本殿)
一、御祭神は本社に尾張針名根連命を主神とし、大己貴命、大国主命、少彦名命 の 三神と、別に八幡社を合祀せらる。
(末社)
一、神明社に天照皇大神を始め、山神社に大山祇神、御鍬社に豊受毘売神、知立社に 鵜茅葺不合神、金刀比羅に大物主神の五神を合祀す。
一、天王社=建速須佐之男命
一、針名稲荷社=宇賀能美多麻神
一、針名天神社=菅原道真命
がお祀りしてある。
針名神社は慶長年間に部落と共に約八百米北の元郷より現在地に移ったとされている。
創建については延喜年間作成の国内神明帳に従三位針名神社と記載されていることに より約千三百年以前から鎮座されているものである。
以後今日に至まで氏子の手厚い崇敬を受けている。
現在の建物は昭和四九年春より増改築をなして昭和五十一年十一月六日に竣工遷座し たものである。



伊副神社[イフ] 所在不明

成海神社[ナルミ]
成海神社[なるみ]「日本武尊 配 宮簀媛命、建稻種命」天武天皇の朱鳥元年(六八六年)熱田神宮神劍飛鳥の都より御遷座。愛知県名古屋市緑区鳴海町乙子山85 阜嵐健

成海神社由緒
 成海神社は、天武天皇の朱鳥元年(六八六年)熱田神宮神劍飛鳥の都より御遷座の 時の創祀と伝えられています。
是は社伝「成海神社古実聞書」(元禄十四年〜延享四年)神主 牧野播磨守英治筆録 のみでなく、奈良朝末期 天応元年(七八一年)に書かれた「熱田大神宮御鎮座次第 本記」に成海神社は天武の朝、日本武尊御東征の縁に依る祭神と見えることでも肯け ます。
ナルミの地は日本武尊の御縁故地として特筆すべき所でその東征のとき尾張国の長官 であった、建稲種命はヒタカ(火高、今の大高)の丘に館を構えてここにお迎えし、 妹の宮簀媛命は尊の妃に成られました
寛平二年(八九〇年)の記録である「熱田大神縁起」の中には鳴海に関する日本武尊 の御歌が四首ありますが、その一に「奈留美らを見やれば遠し火高地にこの夕潮に渡 らへむかも」と武尊が古の鳴海潟の岸辺で詠まれたもので成海神社は是を縁起として その故地に創祀された。
その場所は現今「城」と呼ぶ鳴海駅北の高台で、太古は波打ち際で鳴海潟が干拓と成 って室町初期、応永の時代(約五九六年前)今川義元の家臣で安原備中守が築城に当 って、今の乙子山の地にご遷座したもので現在では当社の御旅所として、礼祭日には 神輿渡御で巡幸しその折り尊の御東征の縁に依る扇川の畔にて御船流・御井の神事を 齋行する。
当社は古来、東宮大明神・東宮様と俗称するは蓋し、熱田の東宮の意として別称に依 る縁由で旧社格に於いては、延喜式内小社に列せられ尾張国の神名帳に所載せられ、 国幣の供進に與かる神社として、登録せられたのである。



物部神社[モノゝヘ]
物部神社「宇麻志麻遲命」愛知県名古屋市東区筒井3-31-21 えーなも探偵団

由緒書き
延喜式神名帳愛知郡の部に物部神社あり、国内神名帳に建て従三位物部天神とあり、 垂仁天皇の御代始めて社殿を造営すという。明治初年式内に治定し尋いで村社に列せ られしが今は無格社なり。



日割御子神社[ヒサキノミコ](名神大)
熱田神宮境内摂社日割御子神社[ひさきみこ]「天忍穗耳尊」愛知県名古屋市熱田区神宮1丁目1-1 玄松子の記憶

孫若御子神社[ヒコワカミコ](名神大)
熱田神宮境内摂社孫若御子神社[ひこわかみこ]「天火明命」愛知県名古屋市熱田区神宮1丁目1-1 玄松子の記憶

高座結御子神社[タカクラノムスヒミコ](名神大)
熱田神宮境外摂社の高座結御子神社[たかくらむすびみこ]「高倉下命」愛知県名古屋市熱田区高蔵町9-9 玄松子の記憶

八劔神社[ヤツルキ]
熱田神宮境内別宮八劔宮[はっけんぐう]「熱田大神」愛知県名古屋市熱田区神宮1丁目1-1 阜嵐健

火上姉子神社[ホノカミアネコ]
熱田神宮境外別宮の氷上姉子神社[ひかみあねご]「宮簀媛命」愛知県名古屋市緑区大高町火上山1 阜嵐健

青衾神社[アヲフスマ]
熱田神宮境外摂社青衾神社[あおぶすま]「天道日女命」愛知県名古屋市熱田区白鳥2丁目 玄松子の記憶


知多郡[チタ]:3座並小

入見神社[イルミ]
入見神社[いるみ]「五男三女神」初めは此森山に鎮座。愛知県知多郡南知多町大字内海字中之郷22 玄松子の記憶

阿久比神社[アクヒ]
阿久比神社[あぐい]「開囓神」愛知県知多郡阿久比町大字阿久比北下川49 玄松子の記憶

羽豆神社[ハツ]
羽豆神社[はづ]「建稻種命」白鳳年中創建。知多半島の先端に鎮座、周辺はウバメガシの林。愛知県知多郡南知多町大字師崎字明神山2 玄松子の記憶


H24.1.26

延喜式神名帳目次
H16.11.27
神奈備にようこそへ戻る