赤間神宮
山口県下関市阿弥陀寺町4-1 ゼンリン

鳥居

交通案内
下関駅よりバス


祭神
安徳天皇

阿弥陀寺陵

水天門(神門)
 

由緒
 壇ノ浦の戦いで弱冠八才の安徳天皇は二位の尼(平時子)に抱かれて入水された。遺骸は下関と彦島を隔てる小瀬戸に漂着、漁師中島家の漁網によって引き上げられたと伝えられている。阿弥陀寺境内に葬ったと伝わっている。平家の落人伝説が各地にあるように、安徳天皇も戦乱を脱出し落ちのびたとする伝説が各地に残っている。貴種流離譚である。北は岩手県三陸海岸、南は奄美大島、四国の剣山山頂、など。宮内庁指定の「安徳天皇墓陵参考地」も対馬など五箇所。厳原町の八幡宮神社内に天神神社があり、祭神として祀られている。

 水天門の由緒は安徳天皇を水天皇大神と称へて、徳富蘇峯翁は「玉体を水底に鎮め給ひしも、御霊は天上にお在しまさば、此の神門を『水天門』と申し奉る所以なり」としたと言う。龍神として昇天ということ。
 戦前のこのあたりの漁師は正座して漁をしていたと言う。

神宮の前の二位の尼に抱かれた安徳天皇像

内拝殿

 

本殿

お姿
 遠方からでも朱の神殿が見える。竜宮をイメージしていると言う。
 明治期にも社殿を造営しているが、大東亜大戦の空襲で神殿以下全てが焼失、昭和四〇年に再建された。

神宮とその左側が日清講和の場。

日本西門鎮守八幡宮
祭神 八幡大神、神功皇后
宇佐から京都へ分霊勧請の際、当地に祀ったと言う。



お祭り
新暦   5月  2日〜4日  先帝祭
新暦  10月  7日      秋大祭

『平成祭礼データ』から

 赤間神宮略記


 今を去る800年の昔、源平最後の合戦に安徳天皇は御歳僅か8才をもって平家一門と共に壇之浦に崩じ給うや 赤間関紅石山麓阿弥陀寺境内に奉葬し 建久2年 朝廷は長門国に勅して御陵上に御影堂を建立せしめ給い 建礼門院御乳母の女 少将の局命阿尼をして奉侍の上、勅願寺として永く天皇の御冥福を祈らしめ給う、朝廷の尊崇きわめて篤く文人墨客の参拝亦枚挙にいとまなし
 明治維新に至るや阿弥陀寺を廃し 御影堂を改めて天皇社と称せられ 明治8年10月7日勅命をもって官幣中社に列し、地名に依り社号を赤間宮と定め給い、社殿を造営せしめらる。昭和15年8月1日天皇陛下には勅使を差し遣わされ官幣大社に御列格宮号を改めて赤間神宮と宣下あらせられ、社殿又改造し輪奐の美整いしが 惜しむべし大東亜大戦の空襲を蒙り 神殿以下悉く焼失加ふるに未曾有の敗戦に依り 復興造営は至難を極めしも本殿祝詞殿以下御復興に邁進、苦節苦闘20年にして完工、昭和40年4月御祭神780年大祭を迎え関門の風光に和する社殿の壮麗は昔日に倍し陸の龍宮と称えらるるに至れり
    以上

『平家物語』から


 
祇園精舎の事
 祇園精舎の鐘の声 諸行無常の響きあり
 沙羅双樹の花の色 盛者必衰の理をあらはす
 おごれる人も久しからず ただ春の夜の夢のごとし
 たけき者もつひには滅びぬ ひとへに風の前の塵に同じ

 先帝御入水の事
 「尼ぜ、われをばいづちへ具してゆかむとするぞ」と仰せければ、いとけなき君にむかひ奉り、涙をおさへて申されけるは、「君はいまだしろしめされさぶらはずや。先世の十善戒行の御力によって、いま万乗の主と生れさせ給へども、悪縁にひかれて、御運すでにつきさせ給ひぬ。
 まづ東にむかはせ給ひて、伊勢大神宮に御暇申させ給ひ、其後西方浄土の来迎のあづからむとおぼしめし、西にむかはせ給ひて御念仏さぶらふべし。
 この国は粟散辺地とて心憂きさかひにてさぶらへば、極楽浄土とてめでたき処へ具し参らせさぶらふぞ」と泣くゝ申させ給ひければ、山鳩色の御衣にびんづら結はせ給ひて御涙におぼれ、ちいさくうつくしき御手をあはせ、まづ東をふしをがみ、伊勢大神宮に御暇申させ給ひ、其後西にむかはせ給ひて、御念仏ありしかば、二位殿やがていだき奉り、「浪の下にも都のさぶらふぞ」となぐさめ奉って、千尋の底へぞ入り給ふ。

『平成祭CD』

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