忌宮神社
山口県下関市長府宮ノ内町1-18 ゼンリン

鳥居

交通案内
長府駅より下関方面バス 鳥居前東へ5分


祭神
仲哀天皇、神功皇后、應神天皇

鬼石と数方庭祭の由来

拝殿

由緒
 長門国豊浦郡の式内小社。
 沖合に浮かぶ干珠・満珠の二島は国指定天然記念物で当社の飛び地境内社。当社と一直線に東西に並んでいるようだ。神功皇后が帰国後、霊験いやちこなる干珠・満珠を海に納めた所が島になったと言う。
 創建の謂われは古く、『記紀』に出ている。すなわち、熊襲の反乱を聞いて、平定するべく、仲哀天皇が瀬戸内海を穴門の豊浦に到着、神功皇后は敦賀に居たので遅れて到着、当地に豊浦の宮を建てた。

豊浦の宮跡の碑

 ここから筑紫へ渡り、天皇は急病で崩御、皇后は天皇の死を伏して武内宿禰に命じて密かに遺体を当宮に移して殯した。朝鮮から帰国後、皇后は天皇の遺体を収め、海路、都に戻り、河内国の長野の陵に葬ったと『記紀』にある。

 当社で民俗学的に興味をひく祭礼は数方庭(スホーテイ)である。由来は以下の通り。
 第十四代仲哀天皇は、九州の熊襲の叛乱を平定のためご西下、ここ穴門(長門)豊浦(長府)に仮の皇居を興されたが仲哀天皇七年旧暦の七月七日に朝鮮半島の新羅国の塵輪(じんりん)が熊襲を煽動し豊浦宮に攻め寄せた。皇軍は大いに奮戦したが宮内を守護する阿部高麿、助麿の兄弟まで相次いで討ち死にしたので、天皇は大いに憤らせ給い、遂に御自ら弓矢をとって塵輪を見事に射倒された、賊軍は色を失って退散し皇軍は歓喜のあまり矛をかざし旗を振りながら塵輪の屍のまわりを踊りまわったのが数方庭(八月七日より十三日まで毎夜行われる祭)の起源と伝えられ、塵輪の顔が鬼のようであったところからその首を埋めて覆った石を鬼石と呼んでいる。

数方庭の写真 神社由緒書きから


 スホーテイは朝鮮半島の習俗である鳥干(ソッテー あるいは スサルティ)の名で呼ばれている村の入口に立てられる竿の頂上に木製の鳥をつけたものに由来している。この祭の起源が新羅の鳥人塵輪に由来しているのがそれらを物語っている。長門一宮の住吉神社では、降雨がないとき、最後の手段としてスホーテイを奉納することがあった。他の神社でも稲作の豊穣を願って行われていた。

本殿


摂社 八坂神社 荒熊稲荷神社
 

お姿
 南向きに社殿が建っている。神門の前に鬼石がある。
 社殿の背後の森は大きいが、本殿までの社域やその東西には木々が少なく、さっぱりとしたたたずまいを見せる神社である。東側にも鳥居はある。昔はその近くまで海だったと言う。



お祭り
新暦  5月  15日 近い日曜日 1日間 春季大祭
新暦  8月   7日 7日間 数方庭
新暦  10月  15日 近い日曜日 1日間 秋季例大祭

『平成祭礼データ』から

 忌宮神社略記


 忌宮神社は、第十四代仲哀天皇が九州の熊襲(くまそ)ご平定のためご西下、穴門(長門)豊浦宮(とよらのみや)を興して七年間政務をとられた旧趾にある。
 天皇はさらに筑紫(福岡県)の香椎に進出せられたが、一年にして崩御(ほうぎょ)せられたので、神功皇后は喪を秘して重臣武内宿祢に御遺骸を奉じて豊浦宮に帰らしめ、現在の長府侍町土肥山に殯欽(ひんれん−仮埋葬)せられた。
 そして皇后はご懐妊中ながら男装せられ、熊襲を煽動していた新羅(しらぎ)征討をご決行、ご凱旋(がいせん)ののち、天皇の御神霊を豊浦宮に鎮祭せられた。これが当神社の起源である。そのあと、皇后は皇子(のちの応神天皇)をご安産になった。
 くだって聖武天皇の御代に神功皇后を奉斎して「忌宮」ととなえ、さらに応神天皇をおまつりして「豊明宮」 と称し、豊浦宮・忌宮・豊明宮と三殿別立の古社(延喜式内社)として栄えたが、その後中殿の忌宮に合祀したため次第に「忌宮」の名をもって呼ばれるようになった。
 古来、文武の神として歴朝の尊崇、武将の崇敬厚く、また安産の神として庶民の信仰を受けてきた。社殿は明治九年惜しくも炎上し、そのあと仮殿として造営されたものを改修し今日に至っている。
    以上

『忌宮神社 由緒』、『平成祭CD』、『日本の神々』

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