薩摩國:2座 並小




穎娃郡[エイ]:1座小

枚聞神社[ヒラキゝ]
枚聞神社[ひらきき]「大日貴命 配 五男三女神」

薩摩一宮枚聞神社由緒記
祭神 大日・貴命(天照大御神)を正祀とし、他に皇祖神八柱神を併せ祀るとあり。

神社の沿革
御鎮座年代を詳らかにせずといえども、社伝には遠く神代の創祀なりと伝う。既に貞 観二年三月、薩摩国従五位下開聞神加従四位下と三代実録に載せられて居るのを始め として、同書には数度の神位昇叙の事を記され、殊に貞観十六年七月には開聞神山の 大噴火の状態を太宰府より言上、神意を和むる為勅命により封戸二千を奉られたこと を記載している。
延喜式には薩摩国頴娃郡枚聞神社と枚聞の文字を用いられている。古来薩摩国の一宮 として代々朝廷の尊崇厚く度々奉幣あり、殊に島津氏入国の後はその崇敬絶大にし、 正治二年社殿再興以来、歴代藩主の修理、改造、再建等十余度に及び、元亀二年頴娃 領主家の内乱により千九百余町の神領を失ったのを、天正二十年九月には島津家より 改めて田畑合計二十四町歩を寄進され、旧藩時代は別当寺瑞応院と共に祭祀を営んで 来たもので、明治御治定の折同四年五月国幣小社に列格仰出され、現在薩摩の国一宮 として、又神社本庁所属別表社として地方の崇敬を集めている。

 一般の信仰
南薩地方一帯の総氏神として又地方開拓の祖神として厚い崇敬が寄せられて居るが、 特に交通安全、航海安全、漁業守護の神として附近航行の舟人等から厚く信仰されて 居る。往年島津家に入貢していた琉球人等は特に航海中開聞岳の雄姿を遥かに拝する や神酒を奉って無事を祈ったものの由、現に神社には琉球王の名に依って航海安全の 神徳を奉謝して献納された額面等が数面保存されて居る。その他旧二十三日には他国 に出稼ぎに出かけて居る肉親の人達の無事安泰を祈ってお参りする風習が今でもなほ 氏子崇敬者の間に盛んに続けられて居る。
 開聞岳を神体山とする。祭神は古典ではこの地にゆかりを持たない。豊玉彦夫妻・玉依姫などワタツミ海神説、猿田彦・塩土老翁など海人先住民祖神説などがある。
鹿児島県揖宿郡開聞町十町1366 枚聞(ひらきき)神社 枚聞神社と竜宮伝説 玄松子


出水郡[イツミ]:1座小

加紫久利神社[カシクリ]
加紫久利神社[かしくり]「天照皇大神 配 多紀理毘賣命、表筒男命、中筒男命、底筒男命、譽田別命、息長帶比賣命 合 伊弉那岐命、伊邪那美命」
由緒
当社は出水市下鯖町に鎮座しており、(主神)天照皇大神、(相殿)多紀理毘賣命・ 表筒男命・中筒男命・底筒男命・譽田別命(応神天皇)・息長帯比賣命(神功皇后) ・伊邪那岐・伊邪那美命、(末社)神門神社・(南)豊磐窓神・(北)櫛磐窓神をお 祀りしている。
御鎮座年代は詳らかではないが、遠く奈良朝の頃の創建といわれる。既に貞観二年( 八六○)三月、薩摩国従五位下加柴久利神加五位上と三代実録に載せられて居る。延 喜式には、薩摩国穎娃郡枚開神社(薩摩一の宮)薩摩国出水郡加柴久利神社と薩摩国 では二社記載されて居り、古来薩摩に二の宮として代々朝廷の尊崇厚く信仰の中心で あつた。
島津氏の治世になってからも特に薩摩の総社として尊ばれ、二十二代島津吉貴公は社 殿を改築して六十石を與えている。
社殿は歴代藩主の修理、改造、再建等十余度に及び、明治六年県社として再興された のちは神域広大にして神厳この上なく深く官民の尊崇するところであったが明治十年 六月三日西南の役の兵火にかかり門守社以外の社殿、山神、神宝、古文書等灰燼に歸 した。其の後、明治十三年社殿は再興されたが地租改正又農地改革に依って境内地は 縮小された。
そして戦後社殿は老朽し、老樹は虫害をうけて神域はとみに荒廃するに至つた。氏子 一同神域の荒廃を座視するに忍びず、社殿の改築を計り、昭和三十六年三月、現在の 社殿が創建されたのである。
 頂上に磐座のある矢筈嶽を神体山とした社である。鹿児島県出水市鯖渕字賀紫久利山5109 薩摩二の宮 加紫久利神社 玄松子


H16.12.12

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