琴浦神社
兵庫県尼崎市琴浦町21 mapfan

鳥居

交通

阪神尼崎プール前駅北へ400m



祭神


源融(嵯峨天皇の皇子)



拝殿

由緒

 源融の邸宅は京都六条の河原院にあり、ここに陸奥の塩釜の風景を模して庭園をつくり、毎日三十石の湖水を尼崎から運んで、塩を焼かせたと伝えられています。

 世阿弥の作になる融(とおる)と言う能がある。
 東国から京へ上った諸国一見の旅僧が六条河原の院を訪れて休んでいると、そこへ田子を担った老人がやって来る。旅僧は「ここは海辺でもないのに汐汲み姿をしているのはどうしてか?」と尋ねた。すると老人は、「ここは塩釜の浦を写した海辺」と答え、「その昔に左大臣源融が塩釜の浦を模して造園し、毎日難波の浦から海水を運ばせて、塩を焼かせるという風流を楽しんだが、今はすっかり荒れ果てている。」と語る。
 僧は来合わせたこの辺りの者に、老人は源融の霊だろうと教えられ、弔うよう勧められた。僧は、その夜は夢の出会いを期待しながら旅寝をします。すると貴人姿の融大臣が現れ、名月の下で舞をまい、夜明けと共に消えて行く。

 潮を汲んだこの難波の海岸の景色が、南に紀の国、和泉の浦々、阿波鳴門まで見えるので、他所より勝れているので、異浦とよばれたともいわれている。



本殿

お姿

 潮汲みの伝承は他にも残っているとのこと。
 平安時代には京の公家達は洛外に出ることは少なかったようだが、源融は幾度か足を運んだのかも知れない。普通は家来に洛外に行かし、彼から景色の様子などを聞いて、歌を詠んだと言う。熊野詣でなどは例外中の例外だったようだ。


お祭り

 10月 13日  例祭   

『平成祭礼データ』から



 この神社は、源融公が祭神としてまつられています。かれは嵯峨天皇の皇子で、その邸宅京都六条の河原院に陸奥の塩釜の風景を模して庭園をつくり、毎日三十石の湖水をここから運んで、塩を焼かせたと伝えられています。また海岸の景色が、他所より勝れているので、異浦とよばれたともいわれています。

 平安初期ごろ、京都の貴族との密接な関係が、これらの伝承からも推定できます。 当社に奉納されている絵馬「源融六条河原院の図」の図柄をもとに、大庄地区会館の緞帳が制作されました。また、湖汲みについては潮江地区にもまったく同じような伝承があり、興味深いものです。
以上

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