熊野神社
兵庫県尼崎市西難波町5-9-22 mapfan

鳥居

交通

阪神出屋敷駅北へ1km



祭神


伊弉冉尊
合祀 應神天皇、天兒屋根命、武雷命、經津主命、市杵嶋媛命



拝殿

由緒

 社頭掲示
 創立年月は不詳。
 第十五代応神天皇・第十六代仁徳天皇の御代に度々行幸あらせられて、御歌を詠まれたる梅林・当祝津宮跡社。
 天平年中に熊野大権現社と称し、後に熊野神社と称す。

 『摂陽群談』には「権現社。天平年中、行基僧正所祭之也 土俗難波権現と称す。

 熊野詣でで海路に依る場合、尼崎経由のルートが取られることがあり、その場合には当社は第一の王子社だったのかも知れない。紀伊水道の潮流に乗って北上してくると容易に尼崎に着岸できるとのこと。そういう意味でも尼崎の尼は海であり、海人族の拠点の一つとなったのであろう。



祝津宮跡の石碑

お姿

 時は2月下旬、境内の梅の木はほぼ満開と言う幸運な参詣となった。多くの方々が写真をとっておられた。 梅の木に埋もれるように石碑はあり、祝津宮古跡と刻印されていた。 昭和五〜十年に編集された『尼崎志』には祝津宮跡の件は出ていない。『摂津名所図会』には「祝津宮古蹟は欽明帝行宮の古蹟、今八幡宮にあり。」と記載されている。
 嘉永年間に別当寺と思われる明覚寺焼失のことがあり、古文書類すべて烏有になった。



摂津難波稲荷大社「大日留女命、豊受大明神、外四社」
 



梅、梅、梅




お祭り

 7月 27日  例祭   

『平成祭礼データ』から



 当熊野神社は天平年中行基僧正が聖武天皇の勅命により摂津の国内に数箇所の熊野神社を再興し其の第一の社とされ、其の本宮は和歌山県紀伊国本宮村鎮座熊野座神社(現在熊野本宮大社)と称せられ古来霊験最も著しとせられ皇室の崇敬参詣、又庶民これを做ひ争ふて参詣し所謂蟻の熊野詣の語を産んだ、往昔の熊野詣は四国より摂津の難波(尼崎大阪)を南に和泉国紀伊路、又は海路尼崎大阪より紀伊熊野川、音無川を上り山中の難路を遠く熊野奥山に達するのであった。その路々には高貴の人々にては凡そ一ケ月にも及ぶ程行程であった。その御道には要所要所に多くの熊野神社を祭ったこれが皆臨幸の際の御休所なりしと伝へられる。又吉野川、紀の川を下り難波の海に出で紀伊と四国の海峡より即ち三国川(神崎川)を河船にて淀川本流に出で遂に京都に入るを捷路とされたようである。この尼崎市難波の熊野神社は旅中の一休所の第一の社であったと伝へられる。
 平安朝延喜時代には元社務所の北方空地には且つて観音堂のありしところと伝へられ元明覚寺の鎮守社奥の院熊野大権現社であって往時は社僧が守りし或る時は修験者の住みしこともあると伝へられ、以後明覚寺の稱は廃佛葉釋と共に消滅した。
 熊野の神は妄語の罪を駛し、政禁の穢を糾すとて烏の舊稱を出すを、民間これに依って正邪を糾すと伝えられ今も烏の巣があり多くの烏がいる。尚、当社は大東亜戦争により戦災を被り社殿其の他全部破壊され、現在社殿及諸建造物は終戦後に御復興御造営されたものである。以て当神社の由来は相当古き時代より祭祀されたものと推知し得るものなり。明治六年八月村社に列せらる。
以上

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