広田神社
兵庫県西宮市大社町7-7 mapfan

交通

阪急西宮 北西2km



祭神

撞賢木嚴之御魂天疎向津媛命、底筒之男命、中筒之男命、上筒之男命、譽田別命、比大神、息長帶比賣命、建御名方富大神、高皇産靈大神

摂社
伊和志豆神社「彦坐命」
八坂神社「須佐之男命」
子安神社「磐長姫命」
春日神社「天兒屋根命、武甕槌命」
地神神社「大土御祖神」
稲荷神社「宇賀御魂命」
齋殿神社「主 葉山媛命、猿田彦命 合 須川大神、大將軍大神、大土御祖神、中殿大神、若宮大神、葉山媛命、猿田彦命、齋殿大神」
松尾神社「主 大山咋大神 配 酒彌豆男神、酒彌豆女神」
南宮神社「葉山媛命、豐玉姫命、市杵嶋姫命、大山咋命」
兒社「兒大神」
名次神社「水分大神」
稲荷神社「宇賀御魂大神」
岡田神社「天御中主命」
若宮神社「若宮大神」
須佐之男神社「須佐之男命」
愛宕神社「迦具土神」
武甕槌神社「武甕槌神」
風神社「志那都比古神、志那都比賣神」
塞神社「塞大神」
六甲山神社「菊理媛命」



拝殿風景

由緒

 神功皇后帰還の折り、住吉、長田、生田神社と共に武庫の湊に停泊して創祀したのもと伝わる。 これは『日本書紀』の記述に依るものである。『古事記』では天照大神と住吉神と言うことになっている。天照大神は『記紀』編纂時に加えられたようで、元の伝承には住吉神しかなかったものと思われる。 従って創建は不明としておく。
 式内の名神大社である。享保十二(1727)年、当地へ遷座した。室町時代には高隈ノ原」なる処に鎮座、御手洗川を隔てて北側の五月ヶ丘の事とされる。 地形から見ても、現在の神社の北側や西側には高い土地があり、立地としてはもう一つである。里宮だけが残ったのであろうか。

 安山岩層が風化浸食作用でピラミッド型になっている甲山を神体山としていると言われる。

本殿


由緒 平成祭礼データから

 当神社の御祭神は伊勢の神宮にまします天照皇大神の荒魂をお祀り申し上げて居ります。
神功皇后三韓征討御凱旋の際御神誨により御心広田の地に国土の安泰外難の護りとし て御祀りせられたのであります。御鎮座以来壱千七百九拾余年の間、歴朝をはじめ公 家、武将、万民に至るまで崇敬の篤かったことが記されております。
往古より御脇殿には御主神に由縁深き住吉大神、八幡大神、諏訪大神、高皇産霊神を 祀り古くより広田五社と称せられて居ります。
醍醐天皇延喜の制明神大社に列し、白河天皇の永保元年二十二社制度に際しては、そ の一社にに加えられ、明治四年五月十四日官幣大社に列せられて居ります。社殿沿革 に高倉天皇治承元年神祇伯仲資王が社殿を修理し装束を奉って遷宮を行ったことが日 記に見えて居り慶長九年豊臣秀頼により大規模の改築が行なはれ、享保九年には徳川 吉宗によって現在の地に御鎮座せられたのであります。現在の本殿は伊勢神宮荒祭宮 旧社殿の譲與を受け、昭和三十一年竣工、昭和三十七年には拝殿、翼殿、翼廊等新築 、昭和三十八年には御脇殿の新築(いずれも神明造)を見るに至っています。天照坐 皇大御神は日の大神と申し上げ、玉殻の種を田畑に植え、養蚕、織物等国民生活に必 要な道をお開きになりました高貴の大神であります。又中世には和歌の神として顕は れて大阪の住吉社と共に有名であります。高倉天皇承安二年には広田歌合が行なはれ ています。
以上



伊和志豆神社

 廣田神社本殿の西側に鎮座、古文書には「鰯津」と記してある。 祭神は「彦坐命」となっており、神功皇后の四世の孫である。

伊和志豆神社


名次神社

 創建の年代は不詳。 名次山は万葉集巻三の二七九番
高市連黒人が歌
 我妹子[わぎもこ]に猪名野[ゐなぬ]は見せつ名次[なすぎ]山角[つぬ]の松原いつか示さむ
葉集巻九の一七七八番
藤井連[ふぢゐのむらじ]が任を遷されて京に上る時、娘子が贈れる歌一首
 明日よりは吾[あれ]は恋ひむな名次山[なすきやま]岩踏み平し君が越えなば

名次神社



広田神社のたたずまい

 広い境内で都会地の中の社叢は地域の人々の心のよりどころになっているようだ。
社殿は神明造で、その直線美は簡素で鋭く、日本のよさを伝えているように感じる。


お祭り

 3月16日 1日間 例祭(廣田祭、萬燈篭)
 4月16日 1日間 春祭(太々神楽)
 7月16日 1日間 夏祭(湯立て、探湯神事)
10月16日 1日間 秋祭(太々神楽、萬燈篭)


日本の神々3(白水社)


公式広田神社
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