茨住吉神社
大阪市西区九条1-1-17

鳥居

交通

市バス九条新道すぐ 大阪ドーム北600mmapfan



祭神
底筒男命、中筒男命、表筒男命、息長足媛命
摂社
市杵島姫神社、玉照稲荷神社、楠木の一部(昔多数の巳様が住んでいたと言う)

社殿と楠木

由緒
 寛永元年(1624)、香西哲雲、九条島開発の際、勧請せし所にて、其の折り、蔓延せる荊棘を芟除して、社殿を建設せしにより、名に荊の字を冠すと云う。一説には、菟原郡(兵庫県)の住吉神社を分祀せしものにて、菟原と茨が同音なるをもって茨となしたるなりと、然れども前者を正しとすべきか。
 社の境域古くは極めて広く、四隣賈人の居宅は、悉く神地にして巨樹鬱蒼たりしが、漸次縮小せらるると共に樹木も切り取られ、今は殆ど舊観を失ふにいたれり。(大阪府史蹟名勝天然記念物から)

 

本殿


お姿
 大阪ドームの北側の大通りに面して鎮座。さほど広い境内ではない。コンクリート製の朱色の社殿の神社。

  足神さんらしく藁ぞうりが多く奉納されている。

『大阪府神社史料』社域甚だ広からざれども樹木蒼鬱として社頭を蔽ひ、一見して其の古社たるを知る。
 賽者常に集し殊に男女芸人の崇敬頗る深く、地高燥にして水清きが故に近年夏候に至れば脚気患者の来りて保養するもの甚だ多し。

楠木と市杵島姫神社


お祭り

 
 10月 

由緒 神社配布資料から

由緒書

 御祭神は住吉四座の神である。
 つまり、本社と同じく底中表の筒男三神と神功皇后を合せて築港の地に祭る。
 天保13年3月18日、大阪城代酒井雅楽頭が幕命を受けて摂津国一宮の住吉大社より分霊を戴き、住吉社神人橋本光忠により天保山(目印山)に創祀されることとなった。
 以来、本社より社掌を派遣し本末の関係を以て祭祀が継続されることとなった。
 元治元年に天保町に遷祀された。
 明治5年に村社に列することとなり、同36年には築港の工事進展に伴い利用開始と相成りその際には本社から盛大な神輿渡御も行われた。 そうして同39年9月19日には再び官幣大社住吉神社の末社管轄となり、また翌40年12月には西区靭中通2丁目にあった無格社の永代浜住吉神社が合祀された(現靭公園内の楠永神社西隣に碑が残る。)
 このようにして本社と本末の関係の上に築港一円の氏神社となった。
 やがて天保山運河掘削工事のため、西区四条通2丁目の築港遊園地内に社地を受けて、大正6年7月8日、天保町から築港工事によって新たに出来た現在地に奉遷することとなったのである。
 これらはまさに港湾の整備発展にともない常に最前線にて奉斎せられて、築港成就の祈願を着々と実らせていったことを物語っているともいえよう。
 昭和に入って築港一円は益々繁栄を極めつつあったが、同9年の室戸台風により甚大なる被害を受けた。
 よって社殿も修築の必要があったため同16年24日に仮遷座、7月9日に正遷座祭が行われた。
 しかし、昭和20年6月1日、港住吉神社はもとより築港一円もすべてが空襲により罹災炎上した。
 神霊は本社に仮遷座として避難することとなった。
 しかし、戦後は、焼け野原となった築港の精神的中心として篤い総代等の尽力により復旧され、大阪港復興発展の一大拠点となるほどであった。
 昭和25年のジェーン台風では神社孤立するほどに高潮の被害が出たりもしたが、その度ごとに築港一円の氏子総代により復興を遂げ、こうして今に至るまでなお海運業関係や漁師の方々から深い信仰を受けている。
 大阪の西に広がる海原は、漸次、江戸後期より現代に至るまで埋め立てて都市が膨張することとなった。
 そべて住吉大神の治ろしめす処であるが
以上

23日 例祭

由緒 平成祭礼データから

茨住吉神社 由緒書

 淀川や大和川の河口に形成された砂堆は大小の島々となつて、古代から難波八十島と呼ばれていたが、わが九条島もその一つであった。それらの島々は自然と人為とが作用し合って次第に陸化し、やがて江戸時代になると河口周辺部の新田開発が急速に進んで、九条島でも寛永元年ごろからその干拓工事が始められるようになった。これに伴って当社は東西二十五間(四十五メートル余)、南北七十五間(百三十六メートル余)の境域が区画され社殿が造営されて、神社としての規模が漸く整い、新田・河川の守護神として住吉の神が祀られた。
それ以前の創祀は不明だが、おそらく高潮や洪水で忽ち浸水する居住には不適当だった九条島の小高い所に楠があり、その傍に祀られていた小祠ではなかったかと思われる。その楠は戦前(昭和初期)樹齢約七百年といわれていたが、空襲の火炎に焼け細ったままの姿で御神木として今なお保存されている。
さて時代の推移と共に、九条新田の田畑は人家となり村は町となり、大正・昭和初期にかけては西大阪の中心街・歓楽街として繁栄し、神社境内も昼夜参拝者の絶えることなく賑わい、氏子も四区にまたがつて四萬戸を越えるようになつたが、昭和二十年三月十三日、第二次世界大戦中の空襲によつて神輿庫一棟を残してことごとく焼失し、環境のすべては烏有に帰した。以来神職・氏子崇敬者共に協力して復興に専念、昭和四十年に漸く現在の鉄筋コンクリート造二階建の社殿を竣工、つづいて参集殿・渡廊・鳥居門・手水舎・石玉垣などを昭和四十六年にそれぞれ完成した。
なお当神社の故事については、江戸末期以降の地誌・紀行文などに種々記載はあるけれども傍証できる記録文書に乏しく、茨住吉神社の「茨」についても、摂津菟原郡(茨郡)の住吉神社から分祀したので「うばら」住吉神社と云い、後に「いばら」住吉神社に転訛したとも云われるが、当神社の創祀などと同様に特定できる資料はない。末社には現在、市杵島姫神社と玉照稲荷神社とがある。
以上

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