平成祭CD 神社本庁 皇大神宮由緒記
当宮は平安朝時代の末期(千年以前)今福村の開発された時にともに創祀された。
祭神は天照皇大神一柱である。今福及関目鶴見の一部の氏神である。
当宮の所蔵の棟札に文禄三午年木下興右衛門様御検地境内東西二十六間南北十七間面積一反四畝四歩を除地とある。又今福地開発百姓宮座として年積りたる者六人が六老と云い神社の掃除一式をとり行っていると記載されている。今福村の初期は難波戦記に書かれている今福堤である。旧大和川の北岸で東西に長く今俗に元町と云う。その元町に連なる小丘が今の境内地である。当宮北西百メートルばかりはなれて三郷樋がある。大正六年、この樋が改修された時に大独木船と五輪塔(慶長十七年子四月十二日新物故霊位松栄童女)在銘のものが樋の底から発掘されている。今福村は古い集落であった事が判る。
境内に今は枯死して無いが榎木の老大樹があった。樹齢千年以前のものなりと、大日本老樹名木誌、本多林学博士著に収録されている。又この地一帯は広く榎並と称して、当宮がその氏神と祭祀され、伊勢神宮の神税を納める斎蔵がこの小丘にあった、と古老等が言い伝えている。
所蔵の棟札が六枚ある。その内四枚に三十番神但し天照皇大神、両側に春日大神八幡宮と三行に記載されている。三十番神とは日蓮宗の守護神である。文禄三午年、宝永四年、享保十一年、寛保二年、延享四年、天保十三年に夫々修改築を成している。今の社殿は昭和七年の営繕なり,境内末社に小女郎稲荷社がある。大和の源九郎稲荷、和泉の葛葉稲荷、と共にこの河内の小女郎稲荷が近畿の三稲荷の一つとして特に沢山の信者がある。
明治五年皇大神宮と称して村社に列せられ、明治四十四年十一月十七日会計指定社となり又、大正元年十一月七日神饌幣帛供進社となり。終戦後昭和二十一年二月三日、国家神道廃止に依り、同年六月十六日、宗教法人皇大神宮として届出を為す。
以上 |