鴉宮
大阪市此花区伝法2-10-18

鳥居

交通

阪神本線伝法駅 東へ橋を渡るとすぐ mapfan



祭神
天照大神 配祀 住吉大神、蛭子大神
摂社
稲荷神社「宇賀魂大神」
船玉神社「船玉大神」
猿田彦神社「猿田彦大神」

拝殿

由緒
 地域に残る古い伝記から。
 第八十四代順徳天皇の御代、建保三年(1215年)四月、村と港の繁栄を祈念し、伝法村の中心に傳母頭神社として御鎮座されたが、文禄元年(1592年)二月豊臣秀吉瀬戸内より日本海へ渡航に際し御神前に祈願せしとこと御社殿奥の森より三足の鴉が出現、渡海の安全守護他瑞兆を示さんとの神告があり、お告げ通り無事平安に帰国を果たした。秀吉この事大いに感激し神社名を以後「鴉宮」に改めよとの命名、自ら鴉の巣を成しているところ、すなわち森地に御遷宮したと伝う。

お姿
 森巣橋近くに鎮座、若干の木々があるものの、かっての森は姿を消している。 逆に社域からは殺伐とした雰囲気を感じる。石物の汚れもきつい。

本殿


お祭り
 
 11月 3日 例祭

由緒 平成祭礼データから

鴉之宮御祭の御神徳及び沿革

 由緒 人皇八十四代順徳天皇の御代、建保二年三月十七日、傳母町開拓の始めに至りて人家僅か二十戸内外の時に際し、当時の船問屋たりし大和屋勘兵衛・大鹿屋惣兵衛・其他五左衛門・弥右衛門と言ふ人々は上荷船三十二艘船頭三十五人余を有し、熾んに営業の発展を企劃し進んで港を築き海運の便交通の利を謀れり。去れども人家稀薄なりし為、充分の目的を達し難きを遺憾となし、建保三年四月二十五日、村の中央に傳母頭神社を建立し、本殿に天照皇大神、相殿に住吉大神、恵美須大神を奉祭し旃めて地方の隆盛を祈り、克く敬神の行事を厳粛にせり。伝ふる処に掾れば、神社の境外西側に当たり約八軒の女廊屋ありしと。今の傳法町字八軒町は其旧称ならん。而して開墾当時十三軒より成り称して十三軒町と言う。次に上之町中之町網屋町の人家も日々増殖し、梢や地方の毀賑を極め交通も追々隆盛ならんとする頃、文禄元年二月十九日、豊臣秀吉公は朝鮮征伐の為海陸の大軍を挙げるに臻れり。然に其軍港を傳母村川口ノ港と定められ出征の時に際して傳母頭神社奉紀神主、田中八太夫に令し海路の平穏武運長久戦捷の祈願を為さしめたり。

 亦最も奇しき事には、神主偶々夢む夢中神の御告には、社頭の森中より三足の鴉を飛ばして軍船に駕せしめ、海路の方向を示し且つ守護なさしめんと。神主深く感佩して、翌朝秀吉公に謁を請い恭しく之を言上せしに、公は殊の外満足せられ、即刻神主八太夫をして此遠征に於ける水先奉行たらしむ。神主謹て大命を拝し、直に斎戒沐浴、烏帽子直垂を着し一片の赤誠以て神前に祝詞を奏し、同月二十日己の上刻、軍船全部綱を解き傳母村川口の港を出帆せしに、果たせる哉千里の鵬程風静かに波平らかなり、神夢の如く三ツ足の鴉は軍船の前後に翔して飛去さらず、真に守護の任を全うせり。此に於いてか海上無事彼の地に上陸し、百戦百勝、遂に城下の盟を為さしめ、文禄二年正月十六日未の下刻に、全軍凱旋したり。以之翌十七日午の上刻、秀吉公は傳母頭神社に参拝し、自ら凱旋の報告祭典を執行せられ、此時傳母頭神社を改め鴉之宮し称え神領を入津料とし碇泊船より納米せしむる権利を得。

 本社の位置を、現在社殿の東隅に当たる森林鬱そうたる鴉の巣を成したる所を選定して遷宮を為し奉り、茲に於て三柱の大神等を木像に彫刻せらる此御祭神の中に住吉大神は渡鮮に際し殊に海上の御加護奇しかりして記念として御木像の右手に杖を携え、其上には壱羽の守護鴉を止まらせ彫刻せらるる如きは、他に其類例を見る能はず。而して鴉の宮改称せしは三ツ足の鴉に因みしもの傳法町と四貫嶋町に架せる橋を森巣橋と名称したるも元の傳母頭神社名を不朽に保存せしこと明らかなり。其後慶長十九年十二月、徳川将軍の時に及して神領入津料は没収せられ、為に多大なる神社の経営上に困難を感ぜしと雖も、当時の神主田中筑前正宗行知の熱心に據りて四貫嶋町・住吉神社、福村・住吉神社、木屋新田恩貴嶋町・産土神社、灯秀野町・住吉神社、南新田酉嶋町・皇大神宮、申村・住吉神社、出来島村・住吉神社、大和田村・住吉神社、初島村・住吉神社、稗島村・姫嶋神社、川北・五社神社等ね各社の兼務を執り御初穂に因り当社の維持を為し来たり。

 降て明治四十二年七月、内務省令に基き従前の兼務を解かれ、更に右神社の内酉島町・住吉神社、秀野町・住吉神社の合祀し奉り茲に本職に至る迄幾十数代継承奉紀致すものなり。
 以上

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