吉志部神社
大阪府吹田市岸部北四 mapfan


交通

JR岸辺駅 北西1km(地下道をくぐる)



祭神

中央座  天照大神、豊受大神
左 座  八幡大神、素盞嗚大神、稲荷大神
右 座  春日大神、住吉大神、蛭子大神

摂社
大川神社 ほか



二の鳥居 一の鳥居は南東400m付近

由緒とお姿

 神社の創祀は社伝によれば応神天皇の時代に大和の瑞籬より奉遷してこの地に祀ったと言われている。
 当初は大神宮と称し、また七社明神、八社明神とも呼ばれてきた。
 明治三年の神仏分離に際して吉志部神社と改めた。
 当地は仁安二念(1167年)の『兵範記』と言う文書に「摂津国垂水東牧吉志部村云々」とあり。古くから吉志部と呼ばれていたようである。

 社殿は創祀以来たびたび火災にあったようで、特に応仁の乱ではことごとく焼失したと言う。今の社殿は慶長十五年(1610年)白羅の国から渡来した難波の吉志一族の子孫により再建された。 桃山風の造りを良く残した華麗なもので、平成五年に重要文化財に指定された。

本殿の説明板


本殿の形式は七間社流造と言うが、覆殿の中に収まっており、見ることが出来なかった。 また本殿の写真も掲示されていなかった。



拝殿


渡来氏族の吉士についてのコメント

 『新選姓氏録』には 吉志 難波忌寸同祖 大彦命之後也 となっている。大彦命は第八代孝元天皇の子であるから皇別氏族と言うことになるが、これを信じるわけにはいかない。大彦命のが蝦夷征伐のおり、大和兎田の墨坂で嬰児を得、これが難波忌寸の祖とある。血のつながりはない。大彦命は阿倍氏の祖でもある。
 吉士は海上交通の要路を管掌し、対外交渉に専従した船頭、水手集団であり、さらに屯倉(ミヤケ)の管理、史(フミヒト)をつとめている。この辺りの職掌は渡来氏族の独断場だったようだ。

吉士を名乗った氏族では難波吉士、草香部吉士、日鷹吉士、大国吉士など多くの名前が見える。
 『雄略紀十四年四月』に、大草香皇子(仁徳天皇の皇子)の名にちなみ、難波吉士日香香の子孫を大草香部吉士と言う姓を与えた記事がある。 日鷹吉士は紀の国日高郡に在住していた一族、大国吉士は河内国石川郡にいたようである。

 『雄略紀九年二月』に、胸方神(宗像大社の神)を祀る為に凡河内直香賜と采女を遣わしたが、壇所に至りてその采女を犯し、難波日鷹吉士を遣わして凡河内直香賜を殺そうとした記事が見える。難波吉士が吉士の頭領のように思える。

 余談だが、采女を犯そうと思えば、難波から九州までチャンスがあったろうにこともあろうに何故神域でそうなったか、これが不思議なことである。神祭りの際の巫女はおそらく一糸まとわぬ姿であったのだろうと推測できる。その気になったのだろう。天宇豆女命だけではなかったのだろう。
 応神天皇が武内宿禰の子供との説もあんがいこう言う所から来ているのかもしれない。


 三宅吉士について
 新撰姓氏録(山城国諸蕃、摂津国諸蕃)に 三宅連 新羅王子天日桙命之後也 とある。この三宅連は天武天皇十二年以前は三宅吉士であったが連のカバネ、更に天武天皇十三年には宿禰になっている。 難波吉士の忌寸までであるのと比べて高いカバネにのぼっているのである。この三宅吉士は難波吉士とはまた違った素性のようである。


お祭り



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