椋橋総社
大阪府豊中市庄本町1

交通

阪急 庄内駅西1500mmapfan

鳥居をくぐり、舗装の参道を100m歩いた所から神社を見る。



祭神
素盞嗚尊 配 神功皇后
摂社
出世亀菊天満宮「菅原道眞、事代主尊」
稲荷社「宇賀御魂神」
三社神社「住吉大神、春日大神、愛宕山大權現」

由緒
 椋橋荘神前松原の社との称する。
 素盞嗚尊が高天原より鯉に乗って神前(神崎)の水門を経て、当荘に降臨、これにより崇神天皇七年、椋橋部連の祖、伊香我色乎が齋い定め祀ったと伝えられている。

 また当神社は神功皇后が新羅へ出発の際、神々をこの神崎に集め、幸をお祈りになったと言う霊験著しい古社である。

 『新撰姓氏録』未定雑姓に 椋椅部連 伊香我色雄命之後也 とある。
 『摂津国風土記』逸文に、昔、息長帯比売の天皇が筑紫の国へおいでになった時、もろもろの神祇を川辺の郡のうち神前の松原に集めて幸いあらんことを語祈願なされた。 当神社は摂津国豊嶋郡に属しており、川辺郡の神前は尼崎の神前に比定されているが、神崎川、猪名川の流れの変化はあっただろうし、 当社の位置でないとも言えない。

拝殿


お姿
 阪急神戸線の園田と神前川の間の南側にこんもりとした森が見える。 神門を入ると乗用車がぎっしり駐車していた。例祭日だったのだろうが、誰もいなかった。

 素盞嗚尊を乗せてきた鯉塚がある。力尽き亡くなったので埋葬した跡と言う。

 『大阪府神社史料』昔、行基板橋を猪名川に架けようとせんとするも、河水急激にして果たすを得ず。 当社に参籠祈願して更に着手したるに、鯉魚群集して魚橋をなし、ために其の工を成就せり。 より、鯉を食するを禁ず。また鯉を氏神の御遣いと称す。

鯉塚


お祭り

 
 10月13日 例祭

由緒 平成祭礼データから

鯉の宮 椋橋総社略記

 当神社は古来より東西椋橋莊の中央である莊本(庄本)に鎮座し、同莊の総産土神で、椋橋総社又は椋橋莊神前松原の社とも称する。遠き神代の御時、素盞嗚之尊が高天原より鯉に乗り、神前(神崎)の水門を経て当莊に御降臨なされたことにより、崇神七年、椋橋部連の祖、伊香我色平命が斎い定め祀ったと伝えられている。椋橋莊は正史にも明らかな地で、椋橋部連とその部曲民の住む土地であった。(東寺古文書、新撰姓氏録)

 この莊の区域は猪名川を境にして東西に別れ、東椋橋莊が石蓮寺、寺内、浜、長嶋、三津屋、野田、牛立、菰江、上津島、嶋田、今在家、洲到止、莊本(庄本)島江、以上四ヵ村(正しくは十四)と、西椋橋莊が高田、神崎、戸の内、推堂、穴太、富田、額田、高畑、善法寺、法界寺、以上十ヵ村と、東西合せて二十四ヵ村からなっていた。(地理志料)

 また、当社は昔、神功皇后が新羅へご出発の時、神々をこの神庭に集め幸をお祈りになったという霊験著しい古社である。(摂津風土記、南郷春日旧記、豊島郡誌、神社明細帳)

 かくして朝廷の御崇敬も一方ならず、天文八年四月、後奈良天皇の勅願所と定められ、東椋橋莊を社領として加えられた。(大阪府全誌、大阪府史蹟名勝天然記念物)

 又、武門の崇敬もとり分けて深く、明徳二年七月、藤原秀安は金鼓を寄進し、天正年間、池田筑後守は嫡子多聞丸誕生のため、武運長久を祈り獅子頭を寄進した。獅子頭は社宝となっている。尚、その他の社宝には元和六年九月の天下一長久作の神鏡がある。神庭には鯉池がある。往時には社家が多く、社家町をなし、今も付近にその遺跡を存する。世の推移に従い、氏地の中には、別の祠を建て産土神として祀るところも出て来て、加えて戦国時代には付近一帯に兵乱が続き、社前も次第に衰退し、天正六年、織田信長の荒木村重討伐の折の兵火により、社殿、宝物、古文書等、ほとんどを焼失した。同九年、仮殿にて神霊を鎮座し、慶長四年六月十四日、社殿を再建したが、旧時の如くに復することが出来ず、天正の頃まで氏地であった東長嶋も別に祠を建て、氏地は庄本、戸の内、高田、神崎の四ヵ村となり、その後、又、高田、神崎、戸の内も一村限りの祠を建て氏地は今の如くになった。大正五年八月、常夜灯の倒壊によって火災を起こし、本殿、拝殿が焼失した。現在の社殿は、その後大正六年四月に再建されたものである。
 以上

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