都島神社
都島区都島本通1-5-5 ゼンリン

交通

地下鉄谷町線都島駅 400m

鳥居




祭神

天照坐皇大御神
 配祀 廣田大神、住吉大神、熊野大神、三十川大神、白山大神、生野大神、小守大神、石上大神、春日大神、加茂大神、大原野大神、松尾大神、石清水八幡大神、稻荷大神

拝殿


由緒(平成祭データ)

 当社御創祀は人皇第七十八代二条天皇永暦元年(西暦一一六〇年)、源平両氏相争う兵乱中とて文献散失してこれを審かにする事得ずと雖、社伝によれば後白河法皇、当地母恩寺(御勅願寺)御行幸の砌り、「当村の外七ケ村の守護氏神として永く御奉斎せよ」との御勅により御鎮祭当時村民いたく感激、御聖旨を奉戴して「産土神の祭祀と維持は吾等の手で」を誓い合い且これを誇りとして敢て他に依存せず。基本財産の造成、四大祭を年々厳粛盛大に奉仕し永く崇敬の赤誠を捧ぐ。赫赫たる御神威は年と共に数多き奇蹟を顕現して神饌田(七反余現在貸地とす)石造三重塔(重美第七号美術品)等の献納さると爾云ふ。

十五社神社碑


旧名の十五社神社について
『都島神社平成大改修記念誌』「四天王寺十五社」と「都島神社」のご祭神について(足代健二郎氏記)を大いに参考にしました。


 明治五年に十五社神社が村社に列せられ、昭和十九年に都島神社と改称。後白河法皇が生母待賢門院の菩提に母恩寺を創建、その鎮護神となった。保元年中(1159年頃)のこと。
 十五社神社は四天王寺に鎮座しており、これが本宮だったと思われる。それを勧請したのだろう。四天王寺に鎮座していた十五社神社は明治時代に消滅した。祭神は都島神社と同じで、『摂津名所図絵』にも記されている。四天王寺 願成就宮(守屋祠)参照。四天王寺の十五社神社は嘉吉三年(1443)社殿が類焼している。十五社神社の祭神についての最も古い記録は、山科言継の四天王寺・住吉見物の記録である『言継郷記』に歌が採録されている。


 天文十三年(1544)
  布留のみや 大原 春日 稲荷 より 松尾(まつのを)かけて 賀茂 八幡山
 天照大神
  住吉や 広田 熊野の卅八所 白山 子守 生の松原

 別の資料 『四天王寺秘密記』慶長十八年(1613)
 十五社
  東 フルノミヤ 尾張 春日ニ イナリ山 松ノ尾 加茂ニ ヤワタ御神
 中 天照皇太神宮
  西 住吉ヤ 広田 三熊野 三十字川 白山 コモリ イクノ御神 

 足代氏は、『四天王寺・伽藍記』文政二年(1819)に「吉野」とあり、また「卅八所」の神名があることから、蔵王権現の眷属神である「吉野三十八所」と見なされている。
 しかし、三十八所神の中に、八幡、賀茂、春日、熊野などが入っており、神々が重複するのがいささか不審であるが、吉野の子守の若宮の兄弟でもあり、従ってコモリは吉野の子守と見ていい。

 後白河法皇の時代の記録が残っていないが、創建当時からの西大寺の鎮守である十五社神社の祭神も見ておく。
 天照大神、八幡大神、春日大神、賀茂大神、松尾大神、住吉大神、白山大神、生野大神、広田大神、大原大神、 熊野大神、小森大神、稲荷大神、布留大神、三十川大神。
 十五社の神々の中で判りにくい神々を考えておく必要がある。
 卅八所、三十字川、三十川大神 のグループ これは蔵王権現の三十八所神。
 子守、コモリ、小森大神 のグループ 吉野水分神社。
 生の松原、イクノ御神、生野大神 のグループ これが問題である。延喜式内社の生野神社は丹波国天田郡に鎮座しているが、対して著名でない神社の登場は唐突な気がする。和泉式部の娘の小式部内侍の有名な歌、「大江山生野の道の遠ければ、まだふみも見ず天の橋立」が後白河法皇の『梁塵秘抄』に記載があり、お気に入りだったこともあり、生野神社を十五社の中に入れると言う茶目っ気を出したのかも知れない。

本殿


お姿

 広くない境内に砂がひかれており、箒目がついており立入禁止となっていた。拝殿を正面から写真が撮れなかった。境内にはまばらに小さい木々がある。戦後の昭和24年に再建されている。60年以上経過している割りには大きい木がない不思議な神社である。
 境内に 嘉元二年の刻銘がある石造三重宝篋印塔がある。

お祭り
例祭 10月 19日



 八幡宮跡
都島区善源寺町1−11 mapfan

謂われ

渡辺綱・駒つなぎの樟がある。「都島区のおもな史跡・旧跡」の説明板に解説があるので、転記する。
 このあたりはかつて善源寺荘と呼ばれ、大江山の鬼対峙で有名な源頼光が支配する荘園でした。
 長徳年間(995〜998)頼光は源氏の八幡大神を祀り、この地に産土(うぶすな)神社を創建しましたが、そのとき頼光自らが、この樟(くす)を植えたといわれています。
 駒つなぎの呼び名は、頼光の四天王の一人で、この荘園の管理をまかされていた渡辺綱が、この神社に詣でるとき、いつも馬をこの樟につないだためであると伝えています。
 樹齢900年と推定される樟は、昭和のはじめに大阪府の天然記念物1号に指定されましたが、残念なことに戦災にあい現在は枯れ死状態になっています。

八幡神社跡


扁額






 淀川神社
都島区毛馬町1丁目2 ゼンリン

交通

市バス 毛馬橋


由緒

 「都島区のおもな史跡・旧跡」の説明板に解説があるので、転記する。
 かつて、毛馬村・友淵村ではそれぞれ八幡神社(現在毛馬4丁目善福寺北東側)・十五神社(現在地)を鎮守の社として祀っていましたが、明治40年、政府の命により八幡神社は櫻宮(当区)へ、十五神社は大宮神社(旭区)へ合祀されました。
 それ以来、氏神をなくした両地域の人々の間で神社復興の声が高く、昭和28年(1953)、当時の毛馬町・友淵町・大東町など付近の住民の熱心な総意により、同地域の総鎮守として当神社が創建されました。


淀川神社



祭神額


拝殿


拝殿と本殿



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