大宮(大宮神社)
大阪市東淀川区大道南3-2-2

鳥居と拝殿


交通

地下鉄今里線だいどう豊里駅南200m its-mo



祭神
安閑天皇  合祀 天手力男命、大己貴命、事代主大神
摂社
聖徳太子社
日天社「天照大神」
八幡社「應神天皇」
楠稲荷社「宇賀御魂神」

拝殿

由緒(大阪府全志)
  大宮神社は西成郡豊里村大字天王寺庄長沢にあり、安閑天皇を祀れり。もと淀川堤の側なる字宮浦にありしが、淀川改良工事のため、昭和三十三年五月二十五日に当所に移転せり。
 境内に聖徳太子社あり、其の嘗て四天王寺を建立せんとし給ひし所なる故を以て、太子四十二歳のとき自らその像を描きて留め給ひし所なりといふ。
 明治五年村社に列し、同四十三年十月二十五日大字三番字上の島の村社豊国神社「大手力男大神」を合祀し、同四十四年五月神餞幣帛料供進社に指定せらる。
 境内は七百八十四坪にして、本殿、幣殿、拝殿、絵馬所、社務所、倉庫を存す。
 前記聖徳太子社の外に末社八幡神社あり。

 

本殿


お姿
 西向きの鳥居、拝殿、本殿と東に並ぶ。本殿後方に大きいマンションが建っており、あまりいい景色ではない。
 安閑天皇がしばしば行幸されたと伝わる。安閑天皇を祀る神社は元は蔵王権現を祀っていた故というのが多いが、その由緒を持たない神社は珍しいかも知れない。



お祭り

 
 10月 22日 秋季例大祭

摂社 承徳太子社

由緒 平成祭礼データから

豊里鎮守大宮略記

 本社は、第二十七代安閑天皇を主祭神として奉斎し、明治四十三年十月、村社豊国神社 御祭神天手力男命を、大正八年六月、村社橋多賀神社 御祭神大己貴命を夫々合祀し相殿に奉斎している。
 本社の起源は、安閑天皇しばしばこの地に行幸あそばされ、天皇即位の二年秋、勅して牛を放牧せしめられ土地の発展を計らしめ給うたのを、後にその御徳を慕って祭祀奉ったのであるが、その創立は詳かでない。しかし、この地は聖徳太子の伝承多く、主祭神御神体の御木像は聖徳太子直作と言われている。又、聖徳太子はこの地に四天王寺を建立せんとし給いしが洪水が多く、結局今の天王寺に建立されたが、一旦この地に定められし故から、御年四十二才の時自ら自画像を画き本殿に留め給いしを今に伝えて奉祀している。又、その旧跡であることから、大阪市へ編入される大正十四年まで西成郡天王寺庄と称していた。又この時、太子の別称豊聡耳皇子から豊里町と名付けたという。又、太子縁りの彩家跡(さいかし)の地名もこの時まで残っていた。現在の竹間の南西、堤防の下あたりといわれている。
 社殿はもと改修前の旧淀川北岸の堤に面してあり、千年に余る楠の大樹数本、杉松の大樹数本、二丁余の竹薮と共に千古を語る鬱蒼とした森厳なる境内であった。又、徳川末期に、京都東本願寺の棟木を献上したと伝わっている。
 当時、淀川を上る船は、この森を目標にして西風を帆一杯にはらませ逆航し、当宮の正面に到って帆を一旦降ろし舵を北に取って帆を逆に巻き揚げ北進し、辻堂の浜にかかって舵を東に帆を元に戻して江口・鳥飼へと東進し川を上って行ったもので、徳川時代の三十石船もこの森が灯台の役をして、大宮大明神・大宮大権現と親しみ崇められていた。古地図に逆巻の地名が見られる。明治三十三年五月、淀川改修工事施工にあたり境内は新淀川の河川敷となった為、老樹・竹薮を伐採して現在地に遷座し奉った。と同時に、氏地の中央に新淀川が掘削され、本流の曲りは緩やかになり川幅も広くなって、逆巻の難所も洪水の恐れも無くなったが、豊饒の耕地は河川敷となって埋没し氏地の大半は川底に沈んで、氏子の人々は南岸と北岸に夫々住み別れ氏地は真二つに分断された。従って、大正十四年、大阪市に編入された時、南岸となった地域も北岸と同じ東淀川区であった。後、昭和十七年に南岸は旭区となったが、町名区画は旧来のまま橋寺町・豊里町・豊里三番町と変わらなかったが、昭和四十六年に旭区の町名区画が変更され太子橋・大宮・中宮・生江の北部に連なることとなり、氏地の境は不鮮明となった。昭和四十五年に平田(へいだ)の渡し舟に代り豊里大橋が完成し、この地域は飛躍的に発展した。
以上

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