高崎神社
大阪市住之江区南加賀屋4-15-3 its-mo



鳥居


交通

地下鉄住之江公園駅 南南東 700m



祭神

天水分大神 配祀 天照皇大神 柿本人丸神
摂社
松ノ宮 松ノ木大神 昔から歯痛を治す神様と伝えられている。
五社宮 宇迦能魂大神 配祀 住吉大神、大國主大神、志那津比古大神、志那津比賣大神、瀬織津比賣大神
大多田稲荷神社 保食神
祖霊天柱殿 護國の英靈
平林高崎神社 天水分大神 配祀 大物主大神,久久能知大神

由緒(大阪府全志)

  宝暦五年(1751)加賀屋甚兵衛の産土神たる水分神を、河内國石川郡貴志村より勧請して大和川口に祀りしもの、当社の起原なり。後天保八年(1837)十一月現在の所に移転改築し、同時に天照大神及び柿本人麿を合祀せり。明治五年村社に列し、大正元年一月神餞幣帛料供進社に指定せらる。境内は参百六十坪にして、老樹鬱蒼し、本殿・神餞所を存す。末社に保食神社あり。



拝殿

 境内表示由緒
 当地一円の開発者初代加賀屋甚兵衛氏の埋立工事が洪水・高潮に度々阻害され其の加護を祈願して大和川河口に宝暦五年自身生国の産土神美具久留御魂神社天之水分大神の御分霊を勧請祭祀をされましたが天保十年(1839)三代目加賀屋(桜井)甚兵衛氏が現在地に移築し其の時天照皇大神柿本人丸大神を合祀して祀官松原若狭守により勧請祭祀し高崎宮と称す。以来埋立工事は着々と進み西成呪に接する嬰木町に至る宏大な土地が完成その守護神として、又五穀豊穣縁結びの神として尊崇される。
 明治に至り釜口政吉氏が釜口新田を平林甚助氏が平林新田を開発昭和十六年より南港が御威光益々光揮せり。
 毎年二月弐拾六日に例大祭が斉行される。



本殿


お姿

 狭い敷地に本殿や摂社がひしめき合って鎮座している。 下町風の町中に鎮座、何かあわてて鎮座したように感じた。
 境内の西側は公園になっており、ここに巨木が数本ある。


お祭り
 
 10月14日  秋季太例祭

大多田稲荷神社 保食神    天柱殿
 


五社宮                     楠社
 


松之宮




平成祭CD 高崎神社略記

 当社の御祭神は、天之水分大神と申上げ、御元官は富田林市宮町三丁目鎮座、美具久留御魂神社であり、大国主神の荒御魂神である、天照皇大神、柿本人丸大神を配祀する。
 創建の御由緒
 当地一円の開発者加賀屋甚兵衛氏の埋立工事が、洪水、高潮に度々阻害され其の加護を祈祷して自身生国の氏神水分社の御分霊を神官松原若狭守により勧請祭祀され、高崎宮と称す。
 当神社は、天保十亥年正月二十五日に鎮霊、以来埋立工事は着々と進み、西成区に接する嬰木町に至る宏大な土地が完成、其の守護神として、又五穀豊穣、縁結びの神として尊崇され、明治に至り、釜口政吉氏が釜口新田を、平林甚助氏が平林新田を開発、昭和十六年、軍の飛行場として、南港が造成され御神威益々光輝せりて、明治五年、村社に列せらる。大正元年、神饌幣帛料供進社に指定される。 文久三年六月、天火に依り御社殿凡て焼失、元治二丑三月、御社殿が改築されたのであるが当時、加賀屋新田は、綿作地帯にて数年に亘る千害に百姓困窮、当社に雨乞いをなしたる時、其の霊験滋雨となり、綿は豊作、此処に其の報謝として寄進されたものである。然しながら造営着手と共に物価急昇騰してままならず(記勧財帳)とあり、それかあらぬか、御本殿が祝詞殿に棚祭祀とされたのみである。
 明治四十五年、当時の合祀令に対し、一才湯を建設、その営業利益を以て一村一社を堅持した。
 昭和三年、御大典奉祝事業として、本社瑞垣、石玉垣、末社の稲荷社の改築、社務所新築等その面目を一新する。
 昭和二十一年十二月二日、占領軍指令により村社高崎神社は解散される。
 昭和二十二年、勅令が公布され、高崎神社設立。
 昭和二十七年、宗教法人法が制定され、仝年十二月、宗教法人高崎神社設立。
 昭和三十二年十二月、北島二丁目二十番地(平林南二丁目六番五十二号)行宮地三百坪設定。
 昭和三十四年十月二十六日、仝地に末社平林高崎神社を造営する。御祭神は、天之水分大神、大物主大神、久々能知大神。
 昭和四十三年十月三十日、明治改元百年、御鎮座百参拾年を記念して社務所を新築。
 昭和五十四年、御鎮座百五拾年を奉祝して御本殿造営と共に境内整備が行われ鎮守の御神威益々、光被四表たり。 以上
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