東明八幡神社
神戸市東灘区御影塚町2-9-2 地図


鳥居

交通

阪神魚崎駅 石屋川駅南西200m



祭神


應神天皇



拝殿

由緒

 神功皇后が三韓を征伐すべく出航の時、武内宿禰大臣が皇后の健勝を祈って此の地に植えた若松は、枝葉も繁りまたたく間に大木に育った。後年この地を訪れた大臣はこの瑞兆を奇貨とし、応神天皇の御遺徳を称え、松の傍らに祠を建てて神霊を勧請して、「正八幡宮」と称し、遠目郷の鎮守とした。

 その後、貞観の代(859〜)に宇佐八幡宮の御神霊を石清水に御遷しに時、御鳳輦が当社で休息されたとも伝えられている。
 武内宿禰の遺績に対して高良宮に祀っている。



本殿

お姿

 武内大臣の植えた松は江戸時代には幹回り5mの巨木となり、「武内松」と呼ばれ、摂津名所となった。
 大中臣為村の歌 立ち寄りて いざ言問はむ この里の 社の松に 古き昔を
 明治始めに枯れてしまい、一部を祠に保存、二代目の松を植えている。

 摂社が東側に並んでいる。その中に武内松の遺跡がある。
 木々が多く、気持ちの良い神社であった。



摂社 高良神社   武内松の祠
 


お祭り

  9月 21〜22日  例祭


乙女塚古墳

 東灘区住吉宮町の東求女塚古墳、灘区都通の西求女塚古墳と合わせて古来より著名な古墳として万葉にも歌われている。全長70m、前方部32mの4世紀の古墳である。

 万葉集 巻九
 菟原処女(うなひをとめ)が墓を見てよめる歌一首、また短歌
 一八〇九 葦屋(あしのや)の 菟原処女の 八年子(やとせこ)の 片生ひの時よ 小放(をはなり)に 髪たくまでに 並び居(を)る 家にも見えず 虚木綿(うつゆふ)の 籠りて座(ま)せば 見てしかと 鬱(いふ)せむ時の 垣ほなす 人の問ふ時 茅渟壮士(ちぬをとこ) 菟原壮士(うなひをとこ)の 臥屋(ふせや)焚き すすし競ひ 相よばひ しける時に 焼太刀(やきたち)の 手(た)かみ押しねり 白真弓 靫(ゆき)取り負ひて 水に入り 火にも入らむと 立ち向ひ 競(きほ)へる時に 我妹子が 母に語らく 倭文手纏(しづたまき) 賤しき吾(あ)が故 ますらをの 争ふ見れば 生けりとも 逢ふべくあらめや 宍薬(ししくしろ) 黄泉に待たむと 隠沼(こもりぬ)の 下延(したば)へ置きて 打ち嘆き 妹がゆければ 茅渟壮士 その夜夢に見 取り続き 追ひ行きければ 後れたる 菟原壮士い 天仰ぎ 叫びおらび 地(つち)に伏し 牙(き)噛み猛(たけ)びて 如(もころ)男に 負けてはあらじと 懸佩(かきはき)の 小太刀取り佩き ところつら 尋ね行ければ 親族(やがら)どち い行き集ひ 永き代に 標(しるし)にせむと 遠き代に 語り継がむと 処女墓 中に造り置き 壮士墓 此方(こなた)彼方(かなた)に 造り置ける ゆゑよし聞きて 知らねども 新喪(にひも)のごとも 哭泣きつるかも
 反し歌
 一八一〇 葦屋の 菟原処女の 奥城を 行き来と見れば 哭のみし泣かゆ
 一八一一 墓の上の 木枝(このえ)靡けり 聞きしごと 茅渟壮士にし 寄りにけらしも

 要は、一人の乙女を二人の男が争ったので、乙女は自殺、男共もはかなんで自殺、それが乙女塚と東西の求女塚と云う。



摂社 乙女塚古墳   万葉歌碑
 



摂津名所図会から

 

 参考 『神戸の神社』、『平成祭礼CD』

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