由緒 平成祭礼データから
由緒記
当社の創建は定かではありませんが、元禄十一年(西暦一六九八年)に京都の人、横井源左衛門、金屋源兵衛が、津守新田の開発に当たり、工事の成就とこの地の五穀豊穣を祈願し創祀されたものと考えられます。
当初は稲荷大明神小社として、津守新田の最北端(剣先状の所「小字宮屋敷」)に奉斎されたものですが、その後風津浪等により、新田は幾度も大災害を受け、その開発の難事業も、常に大神の守護を賜り、隧次開拓されたものです。その間、開拓者も、湊屋九兵衛、袴屋弥右衛門と変わり、天明四年に、炭屋善五郎(現白山殖産株式会社々長白山宣太郎氏祖先)の代となり、その基礎も固まり、当社も津守新田のほぼ中央の現在の地に社殿を造営し、五社の大神を奉斎して、五社神社と称え、或いは五社大明神と称え奉り、津守在住のすべての方々よりの崇敬を受けてまいったもので、明治四年に津守神社と改称されました。
明治五年に村社に列せられ、同四十年六月には神饌幣帛料供進神社に指定され、例祭(十月二十一日)には、大阪市より供進使が参向して、公の祭祀が執行されておりました。文久元年と明治二十七年には社殿の改修屋根替工事が行われております。昭和九年九月二十一日に関西地方を襲った室戸台風により、神殿をはじめ、その他の建造物が大損障を受けたため、大阪府、大阪市の特別供進金と、氏子崇敬者の寄金とにより、同十一年、本殿・弊殿・神饌所・祭器所・拝殿・手水舎・神器庫・絵馬殿・社務所等を復興造営し、境内末社の秋葉社、稲荷社、産土社等三棟の改築、境内地に樹木を植込み、石玉垣、参道敷石、高塀等を設置して、境内整備を完成致しました。
太平洋戦争の戦渦は免れましたが、昭和二十一年の法制により、国家神道制度が廃止され、宗教法人法の制定によつて新神社規則を作り、昭和二十七年十二月十日、「宗教法人津守神社」として、大阪府知事の認証を得て、神社庁所属の神社となり現在に至っております。
境内地
社地は白山善五郎氏の寄進されたもので、その後再度の増加により、現在二三四六平方米(七百十一坪)あります。
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