八坂神社・上之宮
大阪市大正区三軒家東2-7-18 mapfan

鳥居

交通

市バス 永楽橋筋下車 43号を東へ5分北側に見える。



祭神
素盞嗚尊、天之日穗命、應神天皇
摂社 姫島竜神社「天之一根命(弁財天の一神)」、天満宮「菅原道真」



拝殿

由緒
 正保四年(1647)中村勘助の勧請と伝わる。
 天正一四年(1586)から万治三年和(1660)に生きた土木技術者で、木津勘助と呼ばれた。木津川を開削し、勘助島(浪速区大国町)や、三軒家(大正区)の開発を行った。
 大阪天満宮付近の住人の引っ越し先として姫島(大正区三軒家)で受け入れた。当初、三軒だったと云う。

 豊臣秀吉から土地を安堵され、徳川時代にも引き継がれた。
 寛永一八年(1641)に、幕府の米蔵を無断で開け、その米を飢饉に苦しむ人々に施した。その罪で島流し(一説には死罪とも伝わる)になったという人生を歩んだと伝わる。

 中村勘助が京都祇園から勧請したが、宝永四 年(1707)の大津波で被害を被り、正徳年間(17111〜1716)に富が岡と云う小高い地に遷した。ここには姫島の地主神が祭られていた。これが姫島竜神である。

 明治末期に、難波島町八坂神社、千島町天神社を合祀した。

平成祭CD 神社本庁 八坂神社
由緒


八坂神社は、三軒家新田の開祖中村勘助なる者、正保四年(1647)九月朔日、京都八坂神社御分霊を勧請し、当町丸島(三軒家東二丁目ほぼ中央に当る)に御神殿を造営し産土大神として奉斎せらる。
 宝永四年十月四日、大地震と大海嘯起こりし際、三軒家浦新開泉尾新田の堤防決壊し田面浸水せしを以て将来の水害を慮り、正徳年間、字室ケ岡(現在の社地)と号する景勝の高地に御遷座し奉り、明治四十一年七月、難波島町八坂神社(慶安四年鎮座)を合祀し、昭和に至るも、昭和二十年の戦災により御社殿焼失いたしましたが、昭和三十二年、復興せられ現在に至りおります
  以上


『古事記』国生みの段の後半に、「女島を生みき。亦の名を天一根と謂う。」とある。これは国東半島の先にある姫島とされている。
 『日本書紀』垂仁紀に、都怒我阿羅斯等が白い石から生まれた娘が、難波に至って比売語曽社の神となり、また豊国国前郡の比売語曽社の神となったとある。『古事記』にも、難波の比売碁曽の社に坐す阿加流比売神と謂うとある。天比矛が追いかけて来たが、渡しの神は塞へて入れなかったとある。
 難波の比売語曽社とは、往古、姫島と呼ばれており、姫島竜神社の当社のことであると、宮司さんは考えておられるようだ。龍神とされたのは、仏教が入ってからだろうとのこと。

 しかし乍八坂神社の記事がある『大阪府全志』や、八阪神社にふれていない『摂津国名所図会』にも、姫島竜神の記事は見えない。江戸時代にあったのかどうか不明な所。ただし、当社の北側に姫島山専称寺が鎮座、寛永五年(1625)の創建で、お東さんの系統。この頃には姫島と呼ばれていたのは事実のようだ。


本殿


専称寺の表札

お姿
 西向きに鎮座、中村勘助の碑が立てられている。
 本殿の南側に姫島竜神と天満宮が鎮座しており、姫島天神の人気が高いのだろう、多くののぼり旗がなびいている。

 宮司さんは安達さんと言い、当社と姫島竜神について多くのお話をしていただいた。独特の歴史観をお持ちのようだ。
 元禄一四年(宝永元年 1701)から数年間は、関東に大震災、関西での大津波、富士山の噴火などが続いたようだ。ちょうど、阪神大震災から東北の大地震・大津波が続いて於呂、よく似た時期になっているようだ。
 姫島と言う名の島は、壱岐にもあり、福岡湾にもある。比較的丸い島がそう呼ばれている気がする。
 八十島祭りは、九州から持ち込まれた祭り。ルーツは筥崎宮だろう。あらたえ、にぎたえの着物を柳行李に入れて振るが、行李と筥とが関連するか。

 姫島と言う島について大阪以西で。
 福岡県糸島市の西
 北九州市小倉北区
 長崎県五島市知訶島
 山口県阿武町
 石川県珠洲市珠洲岬
 大分県国東半島沖
 など

 大阪には、比売語曽神や阿加流比売神にゆかりの土地が幾つか見える。住吉大社は、一つは天日矛を遮った渡しの神と考えられる(安達宮司)、また比売神として、神功皇后を第四殿に祭っているが、比売神は阿加流比売のことではないか(同宮司)との見解である。比売神については同感。
 敏達紀十二年に、日羅を殺した百済人をを殺し捨てた弥売島を姫嶋とも言うとある。大隅島の近くとされている。


姫島竜神 社殿に「竜神祝詞」が貼られている。


お祭り
 7月 16日 夏季大祭   10月 17日 例大祭(秋季例大祭)


浪速の姫島・比売語曽神・阿加流比売  赤印

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