八劔神社
大阪市城東区鴫野東3-31-8 ゼンリン

東の鳥居


交通

JR、地下鉄、市バス鴫野駅 東北東400m



祭神
 中御座 八劔大明神
 北御座 武速須佐雄大神 相殿 奇稻田姫大神 八頭太神
 南御座 罔象女大神 相殿 天照皇大神 春日大神
 摂社 戎神社 事代主命、大国主命。 幸神社 産霊神、狭田毘古大神、奧津比古大神・奧津比売大神。辨天社 辨財天女、大楠稲生大神、楠春稲生大明神。野神社 宮地神、鹿屋野比売命

西の鳥居

由緒

 恵心僧都勧請の社地と伝わる。尾張の熱田神宮に祀る天叢雲劔を以て八劔大明神と号している。
 応永三年(1396)のこと、当地の住民の夢に一老翁が現れ、「吾は熱田の神、跡をこの地に垂れんと思う。明朝吾を淀川の辺に迎えよ。」と告げた。翌朝、里人を集めて之を語ると、「我も同じ夢を見た。」と数十人の声があがった。一同奇異の想いをなし、衣服を改めて川辺に向かえば、果たして一小蛇の陸にあがり行く。姿悠々としており、一同之に従い行けば、当宮地に入る。留まる所に小祠を建てて之を祀ったのが、当社の起源。
 大正二年に近隣の八坂神社と水神社を合祀し、それぞれ北と南の御座に祀られている。

 天叢雲剣(草薙剣)について
 記紀の出雲神話の八岐大蛇退治伝説は『出雲国風土記』には記載がなく、出雲国の伝承ではない。ギリシア神話のペルセウス・アンドロメダ形神話であり、世界の広い範囲に分布している伝承の日本版と見るべき。
 何故、天叢雲剣(草薙剣)は熱田神宮にあったのでしょうか?。草薙剣の元の名は天村雲剣。天火明命の御子が天香語山命(尾張連祖)、その御子が天村雲命亦名天五多底命。この剣が尾張にあったのはこういう事情。
 剣を人格神とした天村雲命は度会神主(伊勢外宮)の祖でもあり、その昔には伊勢にあった剣かも知れない。それが何らかのことで尾張に運ばれたと言うことがあったのかも。日本武尊の伝承がこれを指し示している。
 天村雲命亦名の天五多底の名は素盞嗚尊の御子神の五十猛の出雲での伊太と同じ発音、ここで素盞嗚尊が天村雲剣を大蛇から取り出したと言う伝承が加えられた。
 後に天村雲剣は尾張の神であって、熱田神宮の御神体の剣。日本武尊が伊吹山に登る際、尾張の宮簀姫の手元に残していったのがその裏付け。
 天智七年668年、新羅僧沙門が天村雲剣を盗み出したが、新羅に逃げる途中で風雨強くなり、難波の放出(はなてん)で剣を放出。後に、確保されて阿遅速雄神社に納め祀られ、皇居に持ち込まれてから天武天皇に祟った。記紀の作成には天武天皇が大いにからんだのだが、後の編集者は三神の神器の一つのこの剣を天武天皇に祟らせて、彼はまっとうな皇統ではないと言いたかったのかも。

拝殿

お姿
 拝殿はサンルームのように大きいガラスが使用されている。周辺を小さい庭園風にしており、気持ちのいい雰囲気。
 楠木を始め、木々も豊である。

本殿


お祭り
  10月 21、22日 例祭

平成祭りCD 八劒神社
八劒神社創祀縁起
応永の始め、鴫野村の住民某がある夜夢を見た。その夢枕に一人の老翁が現れ「吾はこれ熱田の神なり。跡をこの地に、垂れんと欲す。明日汝等出でて吾を淀川の河辺に迎うべし」と告げたので、翌日村人十数人を呼んでことの次第を語ったところ、自分も同じ夢を見たと云う者が十人余に及んだ。そこで一同は各々衣服を改めて河辺に出迎えると、果たして一ぴきの小蛇が河中に現れ、   まっすぐこちらに向かって来て、やがて岸に上がった。その様の悠々泰然たるを見て、村人は畏敬にうたれ、一同相従って行くと、小蛇は川を越え、堤を経て鴫野村に入った。そして、小蛇がとどまった所を見て、村人たちはそこに小さな祠を建ててこれを祀った。時に応永三年(一三九六年)九月二十二日のことである。以来、今日に至る。

  以上

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