伊佐爾波神社 いさにわじんじゃ
伊予 温泉  松山市道後湯之町 mapfan

交通
道後温泉

祭神

足仲彦尊、気長足姫尊、譽田別尊、市杵嶋姫尊、湍津姫尊、田心姫命

摂社
高良玉垂社 武内宿禰命
素鵞社 素盞之男命、稻田姫命

135段の石段と楼門

楼門


由緒

 式内社。
 『風土記伊予国逸文』に伊社爾波の岡の条がある。
 湯の郡。天皇たちが温泉の行幸に降りなされたことは五度である。大帯日子の天皇(景行天皇)と大后八坂入姫命と二人でもって一度とし、帯中日子の天皇(仲哀天皇)と大后息長足姫命と二人でもって一度とし、 上宮の聖徳太子をもって一度とする。 お付きの者は高麗の僧恵慈・葛城臣たちである。湯の岡の側に碑文を立てた。その碑文を立てた処を伊社爾波の岡という。 伊社爾波と名づけたわけは、この土地のいろいろな人たちがその碑を見よう思っていざなって来た。それが伊社爾波ということのもとのおこりである。云々。
 岡本の天皇(舒明天皇)と皇后との二人でもって一度とする。当時、御殿の入口に椹(むく)と臣(おみ)の木とがあって、その木に鵤(いかるが)と此米鳥(しめどり)とが集まり止まっていた。 天皇はこの鳥のために、枝に稲の穂などをかけて飼われた。
 後の岡本の天皇(斉明天皇)と近江の大津の宮に天の下をお治めになった天皇(天智天皇)と淨御原の宮に天の下を治めになった天皇(天武天皇)の三人でもって一度とする。 これで行幸されたのは五度というのである。(『万葉集注釈』 風土記 吉野裕訳 平凡社ライブラリィ)

 『風土記伊予国逸文』には、大穴持命が宿奈毘古奈命を再生させた物語がある。宿奈毘古奈命は起きあがって四股を踏んだという。

 伊佐爾波の岡は道後公園内の岩崎付近と推定されているが、建武年間(1334−6)この地に豪族河野通盛りが本拠を移して湯月城を築城した時に、当社を現在地に遷したと言う。 *1

お姿


 伊佐爾波神社の社殿は寛文七(1667)年の再興の美しいものである。仏教建築の影響を受けて、和唐両様を加味している。
 鳥居をくぐると左側に湯神社の鳥居と石段がある。西に向かって楼門が聳える。

伊佐爾波神の本殿 隣は工事中

お祭り


  10月5日、6日 例大祭 秋祭

参考 *1 日本の神々2 白水社


公式伊佐爾波神社
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H13.7.28