周防國:10座 並小



熊毛郡[クマケ]:2座並小

熊毛神社[クマケ]
熊毛神社[くまげ]「三毛入沼命、玉依姫命」 山口県熊毛郡熊毛町大字呼坂字勝間1322 玄松子の記憶
賀茂神社「玉依姫命、別雷命、三毛入野命」山口県柳井市大字伊保庄近長538 玄松子の記憶

伊保庄 賀茂神社由緒
堀河天皇の寛治七年 万民安泰 五穀豊饒の為め、帝は京都の賀茂神社に宮中武徳殿 の競馬の行事を奉納して執行されることになりました。その御料として全国から二十 二ケ所の荘園を寄進されましたが伊保庄はその内の一荘であります。荘園の役人と共 に多くの社人たちが下って当社を奉斉し、伊保庄五ケ村の氏神として崇敬を聚めたの であります。以来京の御本社と変りなく一年三十三度の祭典も丁寧に執行されました 。京都に於ても五月五日の競馬の節会には、二十ケ荘の馬二十頭によって、二頭宛組 合わせて十番の競馬が行われて現在に続いて居ります。

京都の賀茂神社とゆかりの深い社は、中国筋では播州室津の賀茂神社とこの社が最も 都に知られているので、都人たちが附近通行の際は懐かしさによく参詣されました。 明応九年足利十代将軍義植が下向の途中柳井津に滞溜した節も、同行の三条左大臣公 頼、近衛中将二条良豊、持明院中納言基規の三卿が、足を運んで参詣された記録が伝 えられています。

この社には賀茂神の外に、神武天皇の御弟三毛入野命がお祭りしてあります。三毛入 野命は南に見える大座山の山上にあった、国弊を以て祭られる延喜式内社熊毛神社の 祭神であります。この社は鎮座以来二千年近くも経っているので、途中奉仕の氏人を 失って荒廃した為当社に合祭したものであります。

従って当社の祭神は
別  雷  命
          賀 茂 神
玉 依 姫 命
三毛入野 命    熊 毛 神
の三柱で、玉依姫命は別雷命の御母神に亘らせられます。この地の産土神として鎮ま りまして殆ど九百年、明治六年には郷社に列せられました。その御神徳としては、賀 茂神は代々の帝も国に大難ある毎に祈願を篭められた万民安康五穀豊饒の守り神であ り、熊毛神は神武天皇御東征の途中、大暴風に遭って船隊覆滅せんとする時、身を犠 牲にして海中に身を投じ、全軍の安泰を計られた交通の守護神であります。社殿は天 保十二年に拝殿が再建され、神殿は明治三十二年再建遷座が行われました。その結構 造作彫刻は近郷の名工と謳われた、大島郡の門井宗吉の主宰する処で、近世の名作と して識者の三嘆を惜しまぬものであります。


大歳神社「素盞嗚尊、稻田姫尊、大己貴命」山口県熊毛郡熊毛町大字樋ノ口931 玄松子の記憶
岩隈八幡宮[いわくま]「三毛入野命、譽田別命、帶中津彦命、息長帶比賣命、底筒之男命、中筒之男命、表筒之男命」当社は、周防風土記に、「古老傳云往昔三毛入野命祖生郷天降岩熊山故名之謂熊毛今熊毛宮是也」と記載されて熊毛神社と言われている。
山口県玖珂郡周東町大字祖生7183 玄松子の記憶

岩隈八幡宮
由緒
当社は、周防風土記に、「古老傳云往昔三毛入野命祖生郷天降岩熊山故名之謂熊毛今 熊毛宮是也」と記載されて熊毛神社と言われている。しかし勧請創建年月不詳、垂仁 天皇の御世勅願を以て兵器(槍)を納めたもう今御神体を木瓜形黒漆に封じ鎮奉と申 し伝う。その後祖生郷と瀬田郷の境に鎮座木(ちんざぎ)に八流の旗が天降り給うた 故に八幡の大神の影向を知り和銅7年(714年)8月宇佐神宮より八幡大神を勧請 したと伝える。室町時代になると、祖生地方は陶氏の知行するとこるとなり、当社も また陶氏らの庇護を受けることになった。室町時代の作事を棟札銘によってみると、 永正十年(1513年)陶興房を大檀那とし楼門が再興されいる。更に天文三年(1 534年)十一月宝殿造立又、天文十四年(1545年)四月八日から二十二日にか けて上棟が行われ天正二〜三年(1574〜75年)宝殿の上棟そして元禄四年九月 五日玖珂久重山に遷宮その後災害が多く宝永三年六月の台風にて破損村民恐れ旧地に 社殿再建願いを出し宝永五年(1708年)四月十九日に本殿建立ここに鎮奉る更に 宝永七年(1710年)祝詞殿を造営、ここまで何回も造営を繰返していることから 災害も頻繁に起きていたと思われる。現実にこの岩隈山山頂は落雷も多く近世になっ て慶応の年にも火災に見舞われて幾つかの物を消失している。このことから、玖珂久 重山遷宮は、災害より逃れる為であったとも考えられる。現在の本殿は明治二年に神 殿材料全部を吉川藩主の寄付により再建されて今日に至る。尚、永正十年に建立され た楼門の礎石と思われる石が現存しています。


岩隈八幡宮[いわくま]「三毛入野命、磐余彦命、玉依姫命、譽田別尊、足仲彦尊、氣長足姫尊、表筒男神、中筒男神、底筒男神」 山口県玖珂郡玖珂町久重山903http://www.geocities.co.jp/HeartLand-Hanamizuki/9676/jisha/numakumahatimangu0.htm独立筆の木造扁額

岩隈八幡宮
由緒
当神社の創建は定かでないが、当初熊毛郡下の時代玖珂盆地下祖生にあって、御祭神 三毛入野・磐余彦命・玉依姫命を祀る熊毛神社と称し、「延喜式内熊毛神社」と言わ れている。和銅七年(714年)宇佐神宮より八幡大神を勧請し、その後八幡の守り 神として住吉大神を奉斎し、併せ主神九柱を祀っいる。神社名もいつの頃よりか岩熊 神社となり岩熊八幡宮・巌隈八幡宮を経て、今日の岩隈八幡宮と改称されてきた。三 毛入野命は熊毛の大神といわれ、この地域で米づくりを教え指導され豊かな里にされ た。里人挙って感謝の意を表し産土の神として岩隈山へ祀ったものである。三毛入野 命のミケは米を、イリヌは親しむを意味してお、り、又、熊毛の地名のクマケは古語 でクマもケも米のことであり、祀られている。岩隈山と三毛入野命から米のよくでき る里即ち熊毛と呼ばれるようになったと言われている。元禄四年(1691年)萩藩 朱毛利氏の要請に応え、岩国四代藩主吉川広紀氏が現在地(玖珂町久重山)に遷座さ れたものである。因みに神殿は室町時代天文三年(1534年)当時の守護大名大内 義隆氏の造営にかかるもので現存している。



石城神社[イハキ]
石城神社[いわき]「大山祇神 配 雷神、高神」」境内に神籠石あり。山口県熊毛郡大和町大字塩田字石城山2233 玄松子の記憶


佐波郡[サハ]:6座並小

玉祖神社二座[タマノオヤ]
玉祖神社[たまのおや]「玉祖命、祭神不詳」山口県防府市大字大崎1690 玄松子の記憶

式内社、周防国一宮、旧国幣中社 玉祖神社略記

社名
古書には玉祖をタマオヤノとかタマノオヤノと訓じているが、古来周防一ノ宮であっ たところから、中世には「一の宮」の呼称が行なわれ、江戸時代では「一宮玉祖社」 (いちのみやたまのおやしゃ)という名称が一般的であった。明治四年(一八七一) 国幣社に列格以来玉祖神社(たまのおやじんじゃ)の呼称に統一され今日に至ってい る。

祭神
延喜式神名帳には玉祖神社二座とあって神名は明示されていないが、主神は玉祖命で 今一座は不詳である。
玉祖命は玉造連(たますりのむらじ)の祖神で三種の神器の一つ、八坂瓊曲玉(やさ かにのまがたま)を造られた神で別名櫛明玉命(くしあかるたまのみこと)、羽明玉 命(はあかるたまのみこと)、豊玉命(とよたまのみこと)、玉屋命(たまのやのみ こと)とも称す。
不詳の一座は神主土屋家文書や防長風土注進案では、天鏡尊(あめのかがみのみこと )、天日神尊(あまのかかみのみこと)とし、鏡を御霊代として日神と仰奉る天照大 神ではないかとしているが、その天照大神を御祖神として、浜宮御祖神社(はまみや みおやじんじゃ)を当てた時代もあり、氏子中には女子の初宮詣には必ず浜宮御祖神 社へも参る古習があるので、祭神を女神とするものや、玉祖命の母神とする説などが あるが未だ定説はない。しかし、祭典に当っては常に二座分の御供物を献奉る仕来に なっている。

由緒・沿革
天照大神の天岩戸隠の神事で玉祖命は八坂瓊曲玉を造られ、その後天孫瓊々杵尊(に にぎのみこと)が日向国に降臨の時供奉した五伴緒神(いつとものおのかみ)の一柱 として国土統治の御創業を補佐されたことは記紀に載るところであるが、社伝には、 後にこの大前(おおさき・大崎)の地に座して中国地方を平定し、ついにこの地で神 避りました後、御祖(みそ・江良)の地(玉の岩屋)に葬り、その威霊を祀たのが当 社の起源とし創建年月は不詳であるが、以後、玉造連玉祖氏が祭祀を司ったと思われ 、史料にも天平十年(七三八)の周防国正税帳に祢奇(祢宜)玉造部五百背の名が、 更に長徳四年(九九八)今昔物語巻十七に宮司玉祖惟高の名が見える。
社記には景行天皇十二年(八二)筑紫行幸の砌、周防裟婆(さば)に行在所を設けら れたのが玉祖神社北方の宮城の森であると伝え、その節剣を奉納されたが、今御殿奥 深くに宝剣として奉安されている。また、仲哀天皇・神功皇后西征の折も寄江(より え・神社の西南)という浜に着船、高田の土を以て沢田長(佐野焼陶工の始祖)に三 足の土鼎(なべ)とHIRAKA(はち)を作らせ、神供を備えて軍の吉凶を卜された。こ れが今も伝わる占手神事の起源である。

確実な史料で沿革をたどると、
天平八年(七三六)より十年までの三年間、玉祖神社領の田租穀三十九石二斗八升を 奉免翌年周防国の正税より頴稲三千八百三十四束を以て神税として奉納された。神命 に依て祢奇玉作部五百背にも二百束が給される。
大同元年(八〇六)には従来の封戸十戸のほかに五戸を賜わる。
貞観九年(八六七)三月十日、神階従四位下より従三位に昇る。
延長五年(九二七)延喜式神名帳に玉祖神社二座と載る。
康保元年(九六四)四月二日、神階正二位から従一位を授る。
平安時代には田島庄、小俣庄、高墓庄の三荘園が寄進される。
長徳四年(九九八)今昔物語中に周防国一宮玉祖大神と全国一ノ宮の初見となる。
天治二年(一一二五)安芸權介藤原實明によって荘園並びに神社敷地ともども鳥羽天 皇中宮の待賢門院に寄進される。
保延三年(一一三七)實明の寄進状及び公験に基づいて京都花園の法金剛院に寄進。
永萬元年(一一六五)神祇官から名神諸社に進物が下された際、大榑(材木)三百寸 が給される。
建久六年(一一九五)八月五日、俊乗坊重源周防に下向、東大寺再興の功を偏に玉祖 大明神の加護によるところとし、当社造替の工を起し、神宝を調進し、九月二十八日 遷宮の儀を終える。日別供料の料田として十町歩の田地を奉免する。同日、造替目録 を作成し改築の趣旨を述べる。
建武二年(一三三五)九月、大内弘幸が社殿・神宝を造営。
正平十一年(一三五六)僧命俊、九曜巴文双雀鏡を奉納。
長禄元年(一四五七)八月、田島(防府市中関)の氏子分離し岡庄(中関南山手)に 玉祖神社を祀る。
文明十一年(一四七九)十二月八日、大内政弘に差出した一宮玉祖社御神用米在所注 文は大前(崎)村、宇野令、湯田保、黒河保、千代丸、下松出作、富海保、西仁井令 、佐波令平井の十個所に及ぶ。
明応六年(一四九七)四月十六日、大内義興参詣し神馬を寄進。
天正十七年(一五八九)十一月二日、毛利輝元、社領二百石を寄進。この年より文禄 五年(一五九六慶長元年)四月二十三日までの打渡坪付に法金剛院、得楽坊、菊楽坊 、正満坊善得坊、正法院、宝持院、藏満坊、行泉坊の名が見える。
慶長三年(一五九八)九月、社殿、社坊、社人の屋敷等も悉く焼亡す。
慶長十四年(一六○九)九月、毛利秀就社殿再興。
寛永二十一年(一六四四正保元年)八月、鳥居建立。
明暦三年(一六五七)八月、毛利就信(右田毛利)馬場に大鳥居建立。
寛保元年(一七四一)九月十九日、往昔供僧十二口ありしが、十一ケ寺はことごとく 断絶寺屋敷も不明となり、別当得楽坊のみが残存す。
寛延三年(一七五○)七月、毛利宗広により社殿造替。同時、滝長ANI が玉祖神祠記 他三巻を納む。文中に「源義経平家追討の時、吉包の太刀を御社に奉りて必勝を祈ら る。尊氏将軍筑紫より進発の時、猛房の太刀を奉りて大功の成就せんことを祈らる。 二振の太刀今に伝へて神器とす」とあり、宝暦九年(一七五九)三月二十三日付一宮 御宝物入日記に二振の太刀が記載されている。
嘉永七年(一八五四安政元年)社殿大修繕。
明治四年(一八七一)大政官布告により国幣小社に列す。
明治六年(一八七三)佐野若宮社が玉祖神社摂社に列格。
明治十年(一八七七)浜宮御祖神社も玉祖神社摂社に列格。
明治十一年(一八七八)官費により大修繕。
大正四年(一九一五)国幣中社に昇格。
戦後は社格制度が廃止され、旧官国幣社は別表にかかげる神社として一般の神社と区 別され、別表神社となる。
昭和五十年(一九七五)御神庫(宝物殿)新築。
昭和五十二年(一九七七)九月御神殿、拝殿、神門等屋根総葺替。        
  昭和五十七年(一九八二)四月八日、山陽自動車道建設に伴い浜宮御祖神社を旧 社地北方約百五十メ−トルの地に遷す。この年本社参道も短縮される。

祭事暦
一月一日   歳旦祭
二月十一日  建国記念祭
二月十七日  祈年祭
三月十日   若宮社例祭                          
  三月中    厄除祭
大崎・佐野地区の氏子の中で厄年に当る三十三歳の女、三十七、四十二、六十一、七 十歳の男女が協議し吉日をトして執行す。
同      勧学祭
四月十日   玉の祭
八坂瓊曲玉をおつくりになられた御祭神の御神徳を仰ぎ奉り、眼鏡・時計カメラ・宝 石等を業とする者、玉作御祖大神の総本宮と崇め、全国各地より参詣し御神恩に感謝 し、併せて斯業発展と家内安全を祈願する。眼鏡焼上神事、占手神事も執行される。
四月二十九日 天長祭 
五月上辰の日 玉の岩屋祭
玉祖命の御墓所と伝える玉の岩屋にて執り行なわれる。
六月三十日  大祓式
七月中    御回在祭(田道御幸)
九月二十五日に近い日曜日 
例大祭  
前日に釣垂神事(つりたれのしんじ)が、前夜祭では占手神事が執り行なわれ、大祭 当日早朝、三足の土鼎で白飯・黒飯を炊いてIRAKAに盛合せ神饌に献供する。日没後 浜宮御祖神社へ御神幸。いずれも古来よりの特殊神事である。太陽暦になる以前は八 月十四・十五日が大祭であった。
十一月十五日 七・五・三祭
十一月二十三日新嘗祭
十二月三十一日除夜祭

特殊神事
斎竹祭(おはけ)
例祭前に新しく注連縄をつくり忌竹と共に飾りつける神事である。
宝暦三年(一七五三)、神主土屋家の記録に「八月朔日斎竹祭、御祭礼折・・・・大 鳥居切餝相済、祖社之両神之注連、内鳥居注連祭り相調申候。是朔日之社役筋ニテ御 座候・・・・」とあり、古来大崎居合の宮付(みやつき)と称する家十八戸が注連縄 をつくり、鳥居には忌竹を飾付け、終れば一の鳥居の下に案を据え、神酒と塩水桶を 献備し、神職が大祓詞を読み、塩水桶をとって修祓する。その後宮付の者神酒を拝載 してこの神事を終了したが、現今は大崎・佐野地区の自治会単位で順送りに注連縄づ くりと忌竹飾りをつとめている。

釣垂神事(つりたれのしんじ)
大祭の前日、神職が田島浦(防府市中浦)へ出向し、海辺に神籬を差立て、神饌のほ かに釣具などを供え、中浦漁業組合の人等が参列して、神事の由ならびに豊漁海上安 全の祈願祭典を執行する。後に組合員が出漁して獲た魚を、大祭当日本社へ持参し神 饌として奉献する。
当社の古記録に「八月御祭礼、往古は十五日 月之出YORI於御祖神社(浜宮御祖神社 )舞楽始り 亦釣垂之遊有り 釣舟田島浦より船三艘を奉例なり 社官鮮魚を釣て奉 供 是当社釣垂之神OTOと申伝候。右比釣舟いつとなく中絶 其船之代りに田島より 御祭礼之時に加輿丁相勤来り候・・・・」とあり、往昔の神事の様子を知ることが出 来る。
現在の釣垂神事は昭和十五年紀元二千六百年を記念に再興し、戦後の混乱期も中絶す ることなく引続き執行されている。

占手神事(うらてのしんじ)
山口県指定無形民俗文化財である。
例祭の前夜祭で神門前に注連縄を張り廻らし、庭燎をたいて執行する。 社伝に神功皇后三韓征伐の砌、当社へ戦勝の御祈願遊ばされ、この神事を御執行、出 帥の吉凶を手により占ひ給いし、茲来当社の特殊神事として今日に及ぶ。
周防地誌提要案に「仲哀天皇神功皇后もまた詣せ給へり・・・・・・・この時軍の吉 凶を神前にトはしめ給へる由にて、今にト手小相撲(らうてのこずもう)といふ式な ど残れり」と、また天保十三年(一八四二)の防長風土注進案にもト手小相撲として 「宵殿祭之式也」と附加している。この古式は丑の刻(午前一時〜三時)に執行され たことから夜相撲ともいう。宝暦三年(一七五三)の当社の記録に、夜子ノ刻(午後 十一時〜午前一時)に御神楽をすませ、玉垣の外に出てうら手の相撲を行なったとあ り、その形が相撲に似ていることから占手相撲ともいう。
神事は、宮司・祭員が神門前に着座した後はじまる。裃を着用した首座(しゅざ)が 判士をつとめ、軍士と呼ばれる行事所役二人が裸体に白の褌をしめ、東西に分れて着 座、相撲の蹲踞に似た姿勢で両手を腰の上部につけ、右左右、左右左と両脚をくの字 型に折り曲げながら進み出て、行き合うと各人の手のひらを見せ、己の腰を叩く。三 回くりかえして一回の行事が終り、これを都合三度行なう。最後の段階で軍士は掌を 組みあい、東と西が入れかわって地上を叩く。平年はその数十二、閏年は十三回叩き 、叩き終ると神前に向って両手を上げ鬨の声を上げると神事が終了する。鬨の声以外 は全く無音の敬虔な神事である。

例祭特殊御供
例祭当日の早朝、三足の土鼎(どてい・なべ)二個を以って、白飯(白米)黒飯(玄 米)を炊き、これをHIRAKAに半分ずつ盛合せて神饌に献供する。
これは神功皇后御祈願の時より始るといい、沢田長(さわたのおさ)(佐野焼陶工の 始祖といい、防府市大字佐野の中に沢田の地名を残す)の子孫が代々この祭器を毎年 調進する古例があり、昭和三十年頃まで続いたが(直系)が中絶したため古器にて炊いていたが 、昭和五十七年九月、佐野焼保存会の願意により毎年の調進が行なわれるようになっ た。
風土注進案に「昔仲哀天皇 神功皇后 筑紫を征伐し給ふ時、当所に御船を寄せられ 、澤田の長(澤田中頃土田と称し今ハ内田と申候、当時弥三郎家なり)に命じて高田 の土(高田は姫山の麓なり)を以て三足の土鍋を作り御供を炊き、大HIRAKAに盛り  玉屋の明神に備へて軍の吉凶をトひ祭り給ふ例にて当天保十二年丑年迄千六百四拾壱 年之間闕如なく毎年八月一ノ宮大祭会之節澤田家筋より鍋を備奉候・・・・・」とあ る。
この土鍋は素焼製で、往古当地方の日常品であったと推測できる。これらの破片が弥 生式土器、瓮等の破片と共に等地方一帯から出土する。即ち玉祖神社特殊の祭器では なく、神功皇后は祈願のため、得に新調を命じられたのである。
尚、社伝では佐野若宮に鎮座する若宮社は、沢田の長の子孫が玉祖命の御分霊を祀り 、壺神様として崇め奉り、焼物業の加護を祈念したという。

玉祖神社ゆかりの地

宮城森
ミヤキノモリともいう。神社北方三百メ−トルの田中にある。
景行天皇十二年に九州の熊襲部族が反乱。西征の途中周防国裟麼(佐波)に神夏磯媛 と名乗る女酋が勢力を張っていた。天皇至るときくや、神夏磯媛は磯津山(しずやま )から賢木(さかき)を採り、八握剣・八咫鏡・八尺瓊(玉)を上中下の枝にそれぞ れに掛け、白旗を船の舳先に立て天皇を奉迎し恭順の意を示していることが日本書紀 に載っているが、天皇は玉祖神社へ戦勝祈願され、その時の行在所の跡が宮城の森と いう。玉祖神社附属地。

八籠山
当社の北々西約六百メ−トルにある。通称霞山。糘山(すくもやま)。
景行天皇宮城の森に行宮を設けられた際、この山に八神(神皇産霊神・高皇産霊神= 天地萬物・人類はことごとくこの二神の力によって鎔造化育された。生産霊神=生成 活動の神足産霊神=充足完備の神。魂留産霊神=霊魂を身体中に鎮め留むる神。大宮 売神=和平を図る神。御膳都神=食物を主宰する神。事代主神=国土経営の神)を祭 られ、その時の祭器を埋められたところからこの名があるという。

玉の岩屋(たまのいわや)
「玉屋命、大崎の閭(村里のこと)に隠れさせたまひ 御神体を納め奉るを玉の岩屋 といふ。当社の後三町餘隔てる江良に有之 天正のころまでは歴然たり、今は其形少 残れり、依て近歳石の小祠を立て験とす、四月上辰日祭・・・・・」と風土注進案に 見えるが、現在の玉の岩屋は明治六年修築したもので、祭典は五月上辰日に執行され る。神社北方約五百メ−トルにある。玉祖神社附属地。

主な宝物
重要文化財 周防国一宮造替神殿宝物等目録 一巻 建久六年(一一九五)三月、十年の歳月をかけて東大寺大仏殿の再建をなしとげた重 源が玉祖大明神の加護に感謝するため、同年八月五日に周防国に下向し、同月七日か ら九月二十八日までの間に玉祖神社の造替えを行なった社殿以下の建物及び御帳台・ 神輿・御束帯など宝物類の目録である。 末尾に趣旨を述べ、裏書で日別供料の料田として十町歩の田地を奉免する。    

  附     周防国一宮玉祖神社神祠重建目録 一巻
重源の造替から一四○年目に行われた造替の目録で、社殿の規模をはじめ社領、神事 祭礼神官、供僧の数まで記載されている。大内弘幸加判の建武二年(一三三五)九月 のものである。

附     周防国一宮玉祖神社御神用米在所注文  一巻
文明十一年(一四七九)十二月に大内政弘に差出した玉祖神社の御神用米の社領の所 在と面積を書き上げたもので、前記目録とともに玉祖神社が重源以後も東大寺領周防 国の一宮として、その規模を保持していた様子を伝える貴重な資料である。

重要美術品 銅製 九曜巴紋双雀鏡   一面
正平十一年(一三五六)僧命俊が奉納して伝えられたもので、慶長三年(一五九八) 社殿が火災にあった時火中し、鏡面の肌が傷んではいるが、文様は原形をよくとどめ ている。市指定文化財  太刀  銘吉包  一口
古備前最後の刀工の一人といわれる吉包(よしかね)の作で、長さ八○.五センチ、 反り二センチ、鎬造り、庵棟(いすりむね)、直刀でである。社伝では源義経が平家 追討の際戦勝祈願し奉納したという。市指定文化財  太刀  伝信国  一口
南北朝時代の著名な刀工信国の作と伝えられ、長さ七三.四センチ、反り二.二セン チ、鎬造り、庵棟、直刀で茎(なかご)は摺り上げ茎である。「信国 正真長サ弍尺 四寸壱分半無銘表裏樋有之 代金子拾枚延宝七年未 五月三日 本阿(花押)」と書 かれた阿弥の折紙が添えられている。近藤清石の奉納である。
その他古鏡、文書等多数。

天然記念物  日本鶏 黒柏(くろかしわ)                  
  山口県と島根県の一帯にわずかに飼育されている貴重な日本鶏。昭和二十六年六 月九日文化財保護委員会より天然記念物の指定を受けた。羽毛は金属光沢を持つ緑紫 黒色。小国系統の長尾鶏、長鳴鶏。
社伝では天照大神の天の岩戸隠の時、常世長鳴鶏を集めて鳴かせたのがこの黒柏で、 その後玉祖命がこの鶏をつれて、ここ大崎の地に留まられたという。黒柏発祥の地と して神社境内でも飼育されている。

(注一)一の宮
国中第一の神社をいい、原則として一国に一社ある。恐らく最初から全国的に定まっ たものではなく、神位・信仰・勢力等の最も著しい神社をその国の一宮として尊崇し たのが起りで、それが漸次全国的に普及すると共に、準公的な権威・社格をもつに至 ったと考えられる。
平安中期に現われ、鎌倉時代には全国的になっていた。今昔物語の中に周防一ノ宮玉 祖大明神と書かれているのが全国一宮の最初の記録である。

(注二)国幣社
明治四年(一八七一)太政官布告による社格の一つ。この布告で国家自らが経営する 神社を官社、それ以外の神社を諸社と称することに定められた。 官社には官幣大社・官幣中社・官幣小社・国幣大社・国幣中社・国幣小社の六つ、諸 社には府社・藩社・県社・郷社・村社の六つが設けられた。明治六年(一八七三)に 官社のうちに新たに別格官幣社が加えられた。別格官幣社は歴史上の功臣で神に祭ら れた神社で、官幣社には例祭に際して皇室から、国幣社には同じく国庫から幣帛料が 供進された。  この社格制度は戦後廃止され、旧官社は現在別表神社として一般の 神社と区別さていれる(注三)式内社
醍醐天皇の詔命によって延喜七年(九○七)編纂に着手し、二十年を要して延長五年 (九二七)に完成した延喜式(五十巻)の第九・十巻〔神名帳〕にその名を登載され た神社を式内社という。
玉祖神社二座と載る。当時の制で、毎年二月祈年祭にあたり、神祇官或は国司より奉 幣に預るものを官舎といい、他の一般神社と別の待遇を得た。
以上
(注)文中のHIRAKAは「皿」偏に央です。YORIは古文書の「より」、KOTOは「こと」 です



出雲神社2座[イツモ]
出雲神社「大己貴命、事代主命」元正天皇霊亀三年鎮座。山口県佐波郡徳地町大字堀字中久保3572 玄松子の記憶

御坂神社[ミサカ]
三坂神社[みさか]「大國主大神、事代主大神 配 速玉之男神、道反大神」山口県佐波郡徳地町大字岸見字樋ノ口557 玄松子の記憶
八幡宮「道反大神 配 八幡大神、羽明玉命」山口県佐波郡徳地町船路2617 玄松子の記憶

劔神社[ツルキ]
劔神社[つるぎ]「素盞嗚尊 配 武甕槌神、日本武尊」 山口県防府市大字高井1154-1 玄松子の記憶

剱神社由緒 樫の老木が立ち並ぶ、静かな鎮守の森に建てられている剱神社は、もと勝坂の地にあ りました。今から、およそ400年前の山火事で社が焼け、現代の土地に移されたと いわれています。
社伝によれば、4世紀頃、九州の熊襲という豪族が、大和にあった朝廷にそむきまし た。仲哀天皇は、これを治めるために九州へくだられる途中、この右田の地に立ち寄 られ、「八握の剣」という立派な剣を神の霊として、八岐大蛇を退治された武勇の神 と敬まわれている「すさのうのみこと」を祀り、戦いに勝つようにお祈りされたと伝 えられています。今から、およそ、1060年前、醍醐天皇の命令によって、藤原時 平がつくりあげた「廷喜式」という書物の中に、全国各地の名高い神社を調べた「神 名帳」があります。その名帳には、山口県から15座が選ばれていますが、剱神社も その中に入っています。
この神社には、源平合戦で手柄をたてた源 義経がお参りして、弓矢・鎧・鉾などを 納め、大内氏代々の崇敬も厚く、たくさんの土地を寄進しています。また、朝鮮半島 へ出兵した豊臣秀吉も九州の名護屋に行く途中、剱神社へ参拝し、九州から帰りには 、唐の太鼓を寄進したといわれています。すべて、戦いに勝つようにお祈りしたので す。
このように、剱神社はいくさの神として有名ですが、また、右田地域、に悪い病気が 流行したり、風水害や火災がおきたりしないで、作物がよく実り、地域が発展するよ うに見守ってくださる霊験あらたかな神でもあります。
なお、神功皇后は、兵士を勇気づけ、戦いに勝利をおさめるために、神社の「かたわらの坂」に登られ、家臣といいっしょになって、海上にむかって、雄叫をあげられた といわれています。それから、この坂は「勝獲坂」と呼ばれていました。それが、現 在の勝坂の地名になったといわれています。

(主要祭事)
祈年祭(4月10日)
五穀豊穣・家内安全祈願祭(7月20日)
例祭(9月28日に最も近い日曜日、神幸祭)
新嘗祭(12月5日)
式年祭(50年ごと)




吉敷郡[ヨシキ]:1座小

仁壁神社[ニカヘ]
仁壁神社[にかべ]「表筒男命、中筒男命、底筒男命、下照姫命、味耜高彦根命」崇神天皇の御代。山口県山口市大字宮野下2136 玄松子の記憶

仁壁神社
由緒
仁壁神社の創建は崇神天皇の御代七年(前九一)天地地神戸を定められた時に、当社 にも『御封を寄せ給い宮野庄もなべて当社の御封なり』と記されている。また、『文 徳実録』に嘉祥三年(八五一)正月二十七日の条に天皇即位にあたり従五位の神階を 授かり、貞観九年(八六七)従四位下に昇叙されている。『延喜式神名帳』(九二七 )にも周防国吉敷郡の小一社として記載され、祈年祭二は国幣に領り式内社に列せら れる。その後度々増階され建久六年(一一九五)に正三位となる。
『周防国宮荘立券文』上司家文書建久六年(一一九五)宮野庄仁戸の社(仁壁)の旧 祉、神領の田畝数々と記載され大内矢田に仁戸田の地名があり、当社の神田神戸であ った事を伺うことができる。
古来三の宮様と呼ばれているのは大内義興公が明応六年(一四九四)に一の宮右田玉 祖神社・二の宮徳地出雲神社・三の宮宮野仁壁神社・四の宮吉敷赤田神社・五の宮朝 田神社へ戦勝報告に五社詣された故事による。
神社の鎮座されている地番は「山口市大字宮野神織機」であり古くから農業や養蚕・ 織物が盛んであり交易も頻繁に行なわれていたのではと御祭神様からも伺う事が出来る。




都濃郡[ツノ]:1座小

二俣神社[フタマタ]
二俣神社[ふたまた]「大物主神、八千矛神、稻田姫神」山口県徳山市大字大向1648 玄松子の記憶

式内二俣神社の由来
式内二俣神社は、今から壱千八百年前の成務天皇時代の成務五十九年(西暦一八九年 )に創建され、大物主大神・八千矛大神・櫛稲田姫命の三柱を御祭神とし、爾来地区 の氏神様として崇拝今日に至っている。
当神社は、平安時代の延長五年十二月(西暦九二七年)延喜格式の選上により、旧都 濃郡管内で一社のみ延喜式内社として登載されており、格式の高い神社と云える。 またこの間、神社の主たる造営を防長寺社由来記に見れば、室町時代、延徳元年四月 (西暦一四八九年)に多々良弘武が、織豊時代の慶長三年十一月(西暦一五九八年) 毛利輝元が造営したとされており、現存のお宮の形態が保たれているのではないかと 思考される。したがって、一に三ツ星の毛利の紋所は、この時代に附されたものと推 測できる。
社殿後背の面積約八百平方米の社叢は、樹齢約三百年の自然林の様相が保たれ、山頂 には目通りの周囲三.七米、樹高約二十米、自生の檜が一本見られる。主な大木はツ クバネガシ、ウラジロガシ、アカガシ、アラカシ、アカシデが混生し、特徴ある天然 の樹立はきわめて少なく、珍らしい社叢とされ、尊厳な鎮守の森である。


周方神社[すわ]「建御名方命、大物主神、八千矛神」山口県徳山市大字長穂1303 玄松子の記憶
二所山田神社「天照大神、豐受毘賣神、大國主神、八千矛神」山口県都濃郡鹿野町大字鹿野上2894 玄松子の記憶

二所山田神社の由緒
当神社は明治40年(1907)8月、二所大明神と山田権前社を合せ祀り、社号を 二所山田神社と改称したお社で、旧郷社であります。二所大明神は、昌泰2年(89 9)に鎮座され、旧毛利藩時代は、御祈祷所の格に列せられていました。山田権前社 は、天治2年(1125)伊勢国(三重県)山田郷より御勧進申しあげ建立されたお 社であります。従って二所山田神社は伊勢の内宮、外宮の大神様と出雲大社の神様が 合わせ祀ってあるわけです。



H16.12.11

延喜式神名帳目次

神奈備にようこそへ戻る