網野神社
京都府京丹後市網野町網野789 its-mo

鳥居

交通案内
北丹後鉄道 網野駅 北へ1.7km


祭神
日子坐王、住吉大神、浦嶋子神


摂社
蚕織神社(こおりじんじゃ)「天照大神、和久産巣日神、天棚機姫神、大宜津比賣神」
愛宕神社「火産靈神」
早尾神社「天湯河板擧命」
市杵島神社「市杵嶋比女命」
立脇神社「稚産靈神」

拝殿


由緒

 丹後国竹野郡の延喜式内社。
 『竹野郡誌』では、天湯河板挙命が但馬国から当地の水江に来て白鳥を捕ろうとし、松原村の遠津神に祈誓して水江に網を張ったので、この付近を水江網野と称するようになったという。
 現在の網野神社付近はかって墨江とよばれ、西に広がっていた浅茂川湖の水が日本海に入る河口であった。

 当地には全長200m弱の日本海岸最大の前方後円墳・銚子山古墳があり、旧社地の後方にあたる。網野神社はこの地に居住した者の祀る神社であった。現社地の東南800m。

 浦島伝説は日下部首族の祖神伝説として語り継がれてきた。この日下部族は近畿から九州に分布しているのであるが最古には南九州に上陸した隼人族と想定される。浦島伝説の要素を持つ神話は世界的に分布しており、『日本の歴史』(文春文庫の中で水野裕氏)では沖縄、朝鮮、中国、台湾原住民、インドネシア、インドシナ等に見られるようだ。共通項は漁労民であると言うことで、隼人系潜水漁労民が宗像を経由し、日本海側に分布したものの伝えた伝承であろう。日下部の一族も隼人の構成員であろう。丹後一宮の籠神社の祭神が彦火明命であり、火中誕生譚の火酢芹命とも見なされている。
 籠神社は元伊勢と言われるのは豊受大神を祭っていたが、雄略朝に伊勢に勧請されていったと伝わる。雄略朝に大和王権、丹後、伊勢との関連が深まり、浦嶋子が竜宮城に行ったのも雄略朝であると記されているのはそのあたりに関係があるのだろう。

 『竹野郡誌』は、住吉大神は往古、宮の奥に鎮座ありしを現今の社に遷座、水江浦子神は往古、浦島新宮山に鎮座、能野(よしの)神社と称せしを現今の社へ遷し奉ると記載されている。『式内社調査報告』では能野神社ではなく、熊野神社。

社殿


お姿
 参詣時には豪雨の最中で、さらに気の毒なことに祭礼の当日であった。

本殿

 


お祭り
  10月10日 例祭

『平成祭礼データ』

 延喜式神名帳に坐す式内社。
第九代開化天皇の御子神日子坐王を奉り、住吉大神は大阪住吉大社より分霊を受け(1600年頃)浦島子神と共に鎮祭されている。
元宮は銚子山古墳に近い宮山にあり、享徳元年9月(1452年)現在地に遷座される。 元の本社の社殿は現在の蚕織神社であるが、現在の本社は大正14年再建、昭和18年に府社に昇格。
蚕織神社には養蚕神を宮中より分神をうけ、織物神は京都今宮神社の分霊を奉祀している。
境内神社は蚕織神社、早尾神社、愛宕神社、立脇神社、市杵嶋神社がある。
以上
 

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