春日神社
兵庫県丹波市春日町野村字惣山1810-1 ゼンリン

鳥居

交通案内
JR黒井駅南東2km。


祭神
天兒屋根命 配祀 武甕槌命、姫大神、經津主命、天押雲根命、豊受姫命、菅原道真、誉田別命
摂社 福神神社 大國主命

社殿


由緒

 天正年間(1573〜)に明智光秀が、保月城の赤井直正を攻めたが、容易に落とすことができないために、当神社に祈って、丹波平定の功が奏することができたなら、そのお礼として七堂伽藍を建立し、報恩の誠を捧げようと、市島町の神池寺に霊代を預け、火を社殿に放った。そして後に神池れらに社殿を建てた。
 実際には明智光秀の黒井城攻めの時、兵火にかかり焼失したと言う。乱世がおさまった慶長(1596〜)もしくは寛永年間(1624〜)に再建されたと言う。再建は光秀ではないようだ。

 当地は大和の春日大社の荘園だったことで、春日四座を勧請したのが創祀とされる。
 当地を春日あるいは春日部と言ったのが現在の春日町の呼称につながった。春部との表現もあったようだ。

 1072年に即位した白河天皇の大嘗祭に春日町が献穀を行っており、これを大江匡房が歌にしています。
 
けふりたつ はるべの村の いにしへの 難波のみつの 気色こそすれ
 この歌を見ると、王仁が歌ったとされる次の歌。
 
なにはづに さくやこの花 冬ごもり 今は春べと さくやこの花
 が思い起こされる。丹波市春日町と難波の古代が突然結びついたような気分。

本殿


お姿
 500mほど離れた御旅所に大きい鳥居がある。この辺りに能舞台があったと言う。文亀時代(1501〜)には、周辺十一村の立合祭礼を行い、能楽の奉納興行を行っていたと伝わる。

 本殿は五間社流造で屋根を前方に流れを延長してそのまま向拝の屋根としている。昭和52年に県指定文化財となっている。


お祭り
  10月 10日 例祭 10日とは体育の日と言う意味かも知れない。

春日神社社殿 宮司さんご提供資料から


創建年代は不詳であるが、古くこの地方は大和の春日神社の荘園であったことから、春日四座ほかを勧請し春日部郷、船城郷(今の春日町のほぼ全域)の惣社として崇敬をあつめていたらしい。
 天正年間明智光秀の黒井城攻めの時兵火にかかり焼失したが、乱世のおさまった慶長もしくは寛永年間のいずれかに再建されたと思われる。(1630〜1650)
 社殿は正面五間、側面二間の五間社造、屋根は桧皮葺き、切妻造で前方の流れを延長してそのまま向拝の屋根とするいわゆる「五間社流造」である。五間社流造は全国的にも珍しく県下では2社をかぞえるのみである。

 母屋の円柱の上端に頭貫(かしらぬき)を通し、出三斗(でみつど)を組んで梁および桁を受け、それぞれ柱間には蟇股(かえるまた)を入れている。側面と背面は横板壁を張って長押(なげし)で締め、正面は引きちがいの格子戸をつけている。
 母屋内部は内陣、外陣に分かれ、さらに内陣は五室に区分し、相殿神(あいどのがみ)を祀る形式をとる。向拝部には6本の面取り角柱をたて、母屋柱とは2本の海老虹梁(えびこうりょう)でつながれている。角柱の上には三斗を組み、柱の裏面に4個の手挟(たばさみ)がみられる。
 側面は、2重の虹梁で三斗組、大瓶束、蟇股を併用し、懸魚(けぎょ)、鼻かくしをつけて妻飾り装飾には意を用いている。また、軒は二軒とし、母屋、向拝とも繁垂木(しげたるき)で屋根には千木、堅魚木(かつおぎ)をおく。なお、細部の装飾手法は向拝部の蟇股には「獅子」「鳳凰」など鳥獣の透かし彫り、母屋正面にの欄間および背面の蟇股にはウメ、ボタンなどの彫刻がみられる。なかでも側面妻飾りの蟇股は一番意匠をこらしている。

 春日庄内の総社であって、その一の鳥居は「松森」にあったと言われ、松森には「鳥居屋敷」と言う跡がある。境内には福神神社「大国主命、事代命」、八坂神社「スサノオノ命」、八柱神社「八柱命、大歳神」、水神神社「ネズハノ命」、竜神神社「ワダツミ命」、明治四十二年六月十日、木寺の八幡神社、コトカ谷稲荷神社を合祀した。天満神社「菅原道真」俗に「塩の宮」と称し、春の祭の日に村民が塩を持参して、身の「よごれ」を取り、身を清めていた。
 

 兵庫県神社誌 春日町史

神奈備神社一覧 兵庫県

神奈備にようこそ