由緒 平成祭礼データから
垂仁天皇三十二年(西紀三)、相撲の祖といわれる野見宿祢が、「はにわ」を造って 殉死に代えた功績で、「土師」の姓とこの辺り一帯を所領地として賜わって以来、遠
祖の天穂日命をお祀りしたのが土師神社のはじまりである。その後、用明天皇の時に 仏教の伝来とともに土師寺が建てられた。
道真公は、幼少の頃から和魂漢才の人といわれ、四十歳の四月より七月まで当地に御 滞在され、夏水井(げすいのいど)の水を汲み青白磁円硯(国宝)により、五部の大
乗経を写された。その経塚(現西の宮)から、胚芽が経巻の形をした木樓樹(もくげ んじ、府天然記念物)が生え、謡曲「道明寺」にも有名になった。また、宇多上皇大
和河内御巡幸(八九八)の際にも、当地にお供され、「雨中錦を着て故郷に帰る」と 、漢詩に詠まれたことからも、公はこの地を第二の故郷として慕われていた。やがて
五十七歳にして、従二位右大臣に進まれたが、無実の罪で九州太宰府権帥として淀川 を下られる船の中でも「世につれて浪速入江もにごるなり道明らけき寺ぞこひしき」
と詠まれるとともに、覚寿尼公との別れを惜しまれ、八葉鏡(現勅封)に御姿を映さ れて、犀角柄刀子(国宝)で自像を荒木に刻まれ(現御神像)「鳴けばこそ別れも憂
けれ鶏の音のなからん里の暁もがな」との御歌を残して西海に赴かれたのである。 任地に到着された翌年一月七日、悪魔祓の神事をされている時に、寒中だというのに
無数の蜂が襲来して参拝者を悩ませたが、一群の「鷽鳥」(うそどり)が飛来して、 蜂を喰い尽くした人々を救ったことから、当宮では毎年一月二十五日の初天神には、
身替災難除け、学業成就として「うそ替え祭り」を行ない、神職手彫りの「うそ鳥」 を授与している。
公は、無実の罪であってもひたすら謹慎のまことを尽くされ、醍醐天皇延喜三年(九 〇三)二月二十五日に五十九歳で亡くなられたが、毎年この日を公の御命日として「
例大祭(梅花祭)」を行ない、また新暦に合せて三月二十五日には、「菜種御供(な たねごくう)大祭」を斎行、河内の「春ごと」として今に受け継がれている。
公が亡くなられて四十五年、村上天皇天暦元年(九四七)、残し置かれた木像を北丘 におまつりし、土師寺を道明寺と改称、花園天皇延慶三年(一三一〇)、西淋寺の僧
鑁阿(ばんあ)に神託があり、八曜鏡に勅宝を賜った。 正親町天皇元亀三年(一五七二)、当国高屋城の兵乱に社殿等すべて焼失したが、幸
い御神像と宝物等は難を免れ、天正三年(一五七五)には織田信長より、天正十一年 と文禄三年には豊臣秀吉より、さらに徳川幕府よりも代々の寄進があり、享保年中、
霊元天皇、中御門天皇より女房奉書を賜ってから、明治初年まで毎年初穂料が下賜さ れてきた。
寛永十年(一六三三)、石川の氾濫により坊舎等は境内神社に移ったが、明治五年、 神仏分界により五坊の中・二之室が神職家になった。
明治十年二月、明治天皇大和行幸の行在所に、同十四年十一月、英国ジョージ五世皇 孫当時の府下巡遊の宿舎にもあてられた。同三十五年、菅公一千年祭に宝物館(国宝
六点、重文二点)、孔子廟を新築、昭和二十七年、宗教法人「道明寺天満宮」となり 、同四十三年、明治維新百年にあたり、総合結婚式場「天寿殿」を新築、文字通り人
生儀礼の殿堂として整備されるとともに、御神霊を御慰めするため、本殿裏丘をはじ め全境内地に九十種九百本の紅白梅を植樹(大阪府みどり百選に選ばれている)。学
問の神様としての御神徳を仰ぐ参詣者で、春夏秋冬の別なく賑っている。
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