志紀県主(しきあがたぬし)神社

藤井寺市惣社1-6-23 its-mo


鳥居

由緒

 国府複合遺跡のある洪積層台地の北端に位置する。河内国志紀郡の大社、式内社、のち惣社となった。鳥居と拝殿はエンジ色で厳かである。
祭神は志貴県主の祖とされる「神八井耳命」を主神とし、天照大神、天児屋根命、比め大神、武甕槌命、経津主命、住吉三神、神功皇后の十神。
 大和川・石川の合流点から西方を志貴県と言い、戦略的な要の地であり、大和朝廷が直轄していたとされる。雄略天皇が生駒山日下越えの道から「志畿の大県主」の大邸宅の屋根上の飾り木を見て焼き払えと命令したと伝えられている。直線距離で10km以上、壮大な建物であったか、偵察隊の報告だったのか、いずれにしろ、勢力を持つ豪族であった様子を伝えている。

本殿



祭礼  7月25日 夏祭
   10月 9日 秋祭

交通 土師野里駅北へ170号線を300m、三叉路の林交差点を右折し300m、次の交差点を北へ100m

平成祭礼データCDから

延喜式内の古社であるが、創建の年月不詳、姓氏録河内国皇別に「志紀懸主多朝臣同祖神八井耳命之後也」とあり、同懸主等其の祖神を祀る。社は総社と称せられ、所在部落も総社といい「河内誌」に「国府属邑一」とあることから、国府を設置された時の創立であろうと考えられている。
社殿に依れば楠正成の祈願所で、当時は大いに隆昌を極めたが、楠氏衰亡と共に社壇も頽廃、中世以降も度々兵火に罹り、社地又変遷することもあった。
明治五年村社に列し、昭和二十一年宗教法人令により法人登記する。
以上

『大阪府の地名』角川 から

会賀

 餌香・恵賀・恵我・衛我とも書かれ、古代に河川名・広域地名などとし て「日本書紀」ほかに所見。同書雄略天皇一三年三月条に「天皇、歯田根 命をして、資財を露に餌香市辺の橘の本の土に置かしむ。遂に餌香の長野 邑を以て、物部目大連に賜ふ」、顛宗天皇即位前紀に「旨酒餌香の市に直 以て買はぬ」とみえ、崇峻天皇即位前紀は蘇我氏が物部守屋を攻めた時の 記事中に「餌香川原に、斬されたる人有り。計ふるに将に数首なり」と記 す。さらに天武天皇元年(六七二)七月条の壬申の乱の戦を記すなかに「 財等、高安城より降りて衛我河を渡りて、韓国と河の西に戦ふ」とある。 以上から餌香とよばれる地域のうちに長野邑があったこと、これが物部氏 に与えられたこと、餌香の名でよばれる市があったことなどが知られるが 、長野邑はのちの長野郷(和名抄)の地域(江戸時代の古室・沢田・岡・ 藤井寺の各村一帯に比定される)、餌香川は石川の下流の名称と考えられ ており、餌香市は餌香川左岸の国府にあったとされる。この市は律令制下 においても存続しており、「続日本紀」宝亀元年(七七〇)三月一〇日条 によれば由義宮(現八尾市)の造営に関連して会賀市司が任命されている 。「日本霊異記」下巻第五話にみえる「河内市」も餌香市のことであろう 。そのほか「続日本後紀」承和八年(八四一)三月二日条に恵賀河借橋の ことがみえる。会賀とよはれた地域の範囲は確かでないが、「延喜式」( 諸陵寮)に恵我長野西陵(仲哀天皇陵)・恵我藻伏崗陵(応神天皇陵)・ 恵我長野北陵(允恭天皇陵)が載り、仲哀天皇陵はミサンザイ古墳、允恭 天皇陵は市野山古墳、応神天皇陵は羽曳野市の誉田御廟山古墳に治定され ていること、松原市の東部から羽曳野市の北端にかけての地域を恵我と通 称したらしいことなどを考慮に入れると、石川下流左岸から前記古墳所在 地を含み、さらに西方の大塚山古墳(羽曳野市と松原市にまたがる)所在 地辺りまでをいったものと推定される。国府には河内国府が置かれており 、東西に大津道、南北に東高野街道が通る要所であった。


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