藤井寺市の歴史

津堂城山古墳から見た藤井寺市と二上山

太古

 大和川・石川の合流点にあり、旧石器時代の住居跡の出たはさみ山遺跡や国府(こう)遺跡が語るように大阪では最も早く文化が開けた地域である。

弥生中期


 九州北部の遠賀川沿いの物部氏が東遷し、生駒山の麓から大和に王朝を築いた。 しかし、藤井寺近辺は、既に先住民がある程度力をつけており、かつ葛城氏の影響もあって物部氏の深い浸透はなかったが、 古市の高屋神社や藤井寺の長野神社の祭神に饒速日命が見られるように新旧勢力が共存していたのである。

弥生末期


 物部王朝が神武天皇の葛城王朝に倒され、この地域には志紀郡として神武天皇の長男を祖とする志紀県主の一族が支配することとなった。

4世紀前半


 葛城王朝は崇神天皇の三輪王朝に引き継がれた。このころから古墳の造営が本格的に行われた。出雲の人、野見宿彌の献策で殉死を埴輪に切り替えたがこの功績で、野見宿彌はこの地を賜り、土師氏を名乗った。
百済の辰孫王が渡来しこの地に土着し、渡来人の第2のふるさととして発展した。王氏が葛井・船・津氏の祖となった。 またこの付近は河内飛鳥と呼ばれた。

4世紀半


 応神・仁徳天皇の河内王朝が畿内の王朝となった。王墓である古墳が多く築かれたのである。古市古墳群がV字型に並んでいるのは壮観である。 大和に大王の本拠地が置かれていたので大和川や竹内街道は大陸文化の通り道であり、この地も栄えた。

飛鳥時代>


 天武天皇没年、河内国志貴の知識衆、金剛場陀羅尼経を書写した。現存最古の写経である。

奈良時代


 聖武天皇の御代西暦725年 葛井寺千手観音が完成した。

平安・鎌倉時代


 平安遷都以後は、しだいに取り残されて、鄙びていき、農地に戻っていった。
 901年右大臣菅原道真太宰府に左遷さる。

室町時代


 14世紀の南北朝の争乱の地となる。1347年、楠木正行藤井寺に細川顕氏を破る。
 15世紀には畠山一族の内紛がやまず、地域の多くの文化財が焼失した。1455年 畠山政長、義就、道明寺・誉田で激戦。

安土桃山時代


1583年 豊臣秀吉 大坂城築城

江戸時代


1615年 大坂夏の陣
 封建支配の中、強訴をすることもあった。
1823年 摂河1007村 木綿売りさばきについて強訴
1823年 摂河泉 1307村 菜種自由売買要求し国訴
1854年 摂河の諸村、綿屋仲間加入の触に抗議し国訴
1854年 摂河1263村 菜種など売買をめぐり国訴

明治時代


1881年 河内、和泉 大和の3国は大阪府の管轄となる

昭和時代


1947年 第一回知事市町村長選挙
1966年 藤井寺市制


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地図と散歩コース