神奈備別荘 神奈備写真付き参詣掲示板 ログ

神奈備別荘

平成十七年 一月
 投稿者の敬称は略します



題名:青蓮院の光のピラミッド: 12月 18日 投稿者:神奈備

 

ピラミッドキャンドルを仕上げていく天使達

ピラミッドの前で石笛を吹く横澤和也さん。
手前はプロカメラマン兼葦船プロジェクトの黒川さん。


題名: 社町の佐保神社(加東市社町社777): 12月 16日 投稿者:いこまかんなび

  

 広い加古川平野の奥まった所、川の東岸に位置する社町の小高い丘陵端に、式内社の坂合神社とも伝えられる「佐保神社」が鎮座しています。
 ここは加古川の支流=千鳥川へ三草川が合流する地点にあり、丹波篠山・東条方面ほか各地への交通の要衝にもなっています。社町の名は神社に由来しています。
 佐保神社は、天照大御神・天児屋根命・大己貴命をご祭神として祀っています。
『加西郡誌』には、北条酒見の「住吉神と佐保神とは共に鎌倉峰に下られそれから住吉神は當北条に、佐保神は加東郡へ遷られたことは間違ひないと見てよからう。」と言われています。さて、サカミのサカやサカイの名は浄め酒と境の神とつながるのでしょうか。
『加西郡誌』抜粋 http://www.kankou-yashiro.gr.jp/index1.htm
「鎌倉山」http://www.city.kasai.hyogo.jp/kanko/kamakurasan.htm

 では、佐保神社について、社前の掲示板からご紹介いたします。
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『佐保神社由緒』
 「当神社は、第11代垂仁天皇の御代に創建され、延喜式にも所載の古社であります。
初め坂合神社と呼ばれておりましたが、いつの頃からか佐保神社と称されるようになりました。
 鎌倉時代には、朝廷や幕府の崇敬を集め隆盛を誇り、八丁四方に、内の鳥居、一里四方に外の鳥居を造営し、その中の一基(西の内の鳥居)は、現在でも社町鳥居地区に地名となって残っております。
 室町期に入り、度々の騒乱により一時荒廃いたしましたが、江戸時代に到って姫路城主池田輝政公の祈願所として社領十石を寄せられ、さらに幕府より御朱印社領十石を賜るなど、ようやく復興いたしました。
 また明治時代になり、官国幣社に次ぐ近郷唯一の県社の社格を付与されました。なお、社町の名は、往古より「佐保社村」と呼ばれ、当神社の門前町として発展してきたことに由来し、北播磨の雄として栄えてまいりました。
 現在の本殿は、延享四年(1747)に再建されたもので、三間社流造り正面千鳥破風・軒唐破風付銅板葺で、弊殿・拝殿・瑞神門とともに、華麗な彫刻で飾られております。
 御祭神は、東殿(向かって右)天照大御神
      中殿(中央)   天児屋根命
      西殿(向かって左)大己貴命
 この他境内神社には、恵比須神社・諏訪神社・八幡神社・神明神社・愛宕神社神社・金比羅宮・稲荷神社・先宮社・天神社などがあります。 (佐保神社) 」
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○やしろ観光ガイド--社町観光協会「佐保神社の秋のまつり」より
http://www.kankou-yashiro.gr.jp/index1.htm
「北播磨三大祭りのひとつ、佐保神社の秋のまつりが毎年10月、盛大に行われます。
 養老6年(722年)創建。社町の町名は、当社の門前町として発展してきたことに由来する。毎年10月の第1日曜日の秋まつりは、御輿や化粧屋台が境内を練りまわる。」

○播州佐保秋祭り http://bansyu-saho.hp.infoseek.co.jp/ こちらが詳しいです。
○神奈備へようこそ-延喜式神名帳-播磨国- http://kamnavi.jp/en/harima.htm
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(中国自動車道-滝野社インターを出て国道175号を南へ--社合同庁舎前交差点を東折)


題名:青蓮院での奉納の古典フラダンス: 12月 16日 投稿者:神奈備

 

 熾盛光如来の曼茶羅は群青色を背景にお堂の中に浮かび上がっていました。
 写真は、舞を奉納するアロヒナニさん。
http://www.geocities.co.jp/HeartLand-Cosmos/3111/


題名: 播磨-加西市北条の磯部神社: 12月 14日 投稿者:いこまかんなび

  

こんばんわ。毎日寒過ぎますね。
写真掲示板2005/10月11日の「加西市北条町の住吉神社」と掲示板[6814]「播磨-北条坂合神社の資料」
http://www.geocities.jp/iko_kan3/kasai-sakai.html 
で紹介しました住吉神社の東側、酒見寺のすぐ東側の大信寺裏に鎮座する小さな祠の「磯部神社」を紹介いたします。
重複しますが、『加西郡誌』には次の説明があります。
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「礒部神社(無格社)北条町北条字江ノ木
祭紳 四王子命 五王子命  
祭日 4月2日・3日
勧請の年月は不詳である。由緒については、縣社住吉神社記録に「住吉神社に五柱の王子あり、共にこの地に来られしが、四王子五王子の二柱は故あって殊更に境外に祀る」との意味が記してある。即ち住吉神社の伝説に謂う所の、佐保神を追ふて得ず歸って勘気を蒙りし二王子を祀ったものらしい。『酒見寺記』には「駆逐する所の三神子、その一は在田磯部の祠、二神今本殿北に別斎す」とある。
社殿はいつできたのか知らぬが安政3年風雨の為破壊されたのを明治15年3月改築した。と云ふことだけは判明して居る。境内の坪数は百十五坪である。」
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境内は写真のようにそんなに広くはないようです。
拝殿に残された額には「礒部社 岩崎大明神」とありました。また本殿の側に江戸期の鳥居の?小さな社名を刻んだ石製扁額が残されています。
なお、町内に所在したという謎の「坂合町の坂合神社」はよう探せませんでした。
次は、坂合神社とも伝える社町の有名な「佐保神社」を紹介しますね。


題名:コメント投稿 名前:神奈備 日時:12/15

いこまかんなびさん、おはようございます。あまりにも寒いので遠出をする気にならず、借りてきた猫状態です。
 昭和4年の 『加西郡誌』、興味津々で読ませて頂きました。
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 今の坂合神社は人家の裏手にあり極めて貧弱な小祠であるが、現在のその小祠は今までに改築もされたであらうしまた人家の改築や其他のため位置も昔とは多少變ったかも知れないが、往時社殿を他に新築して遷し祀った際、その舊祠のあった處に小祠を置き、それを舊神社號のまゝで祀って、その神社の舊趾なることを知らしめ、新に造った社殿の方の神社號を改称した例は往々にある。
−−−−−−
あの時代で、この状態とすれば、石碑の一つも残っていれば上出来かも知れませんね。それもないのかも。


題名:雪彦山: 12月 8日 投稿者:神奈備

 雪彦山は修験の山で、そのそそり立つ峰はそれこそ天に垂直に立っているように見えます。
 登り始めますと、何と雪が10cm程残っており、、アイゼンをつけての冬山行となりました。なんとか無事に915mの雪彦山へ登頂、2時間かかっていました。
 この写真は頂上から真下に鎮座の賀野神社を写しました。中央の四角い建物のようです。500m程の高低差があります。神様も高いところからの降臨、ご苦労さまと言いたい気分になりました。
 「酒でも飲ましてもらわな割りにあわんわい。」と言ったとか。


題名:生駒市北部-富雄川奥の高山八幡宮: 12月 1日 投稿者:いこまかんなび

 

こんばんわ、しつこくてすみません。
みなさんよくご存じかも知れませんが、生駒市北部、富雄川沿いの谷奥の里、茶筅でよく知られた高山にあります高山八幡宮をご紹介します。
説明は、境内の説明版から。
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重要文化財 高山八幡宮本殿 (生駒市教育委員会設置説明版より)

祭神は足仲彦命、誉田別命、息長帯比売命。
奈良時代、平城に宇佐八幡宮を移す際に仮にまつられたのが始まりとされる。
中世とくに鷹山氏の信仰を集め無足人座と呼ばれる宮座が結成された。
本殿は三間社流造。元亀3年(1572)銘がある。
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重要文化財 高山八幡宮縁起 (神社設置の説明版)

「八幡大神は欽明朝に筑紫宇佐に初めて顕われ、聖武天皇の奈良時代、中央に進出する。その委曲は国史「続日本紀」天平勝宝元年の條に明らかである。
同年十一月御入京の途次、ここに便殿の頓宮が設けられて暫しご駐輦、やがて奈良への進発公式鹵簿がここで整えられる。
この駐輦のご用に供された頓宮を高山八幡宮鎮座の濫觴とする。それは昭和54年を溯る1230年前のことである。
このお宮は関西地方の八幡宮の草分けに属し、古い由緒を誇る地方の著名社である。
応仁・文明の乱に兵火にかかり、現本殿は室町終期元亀3年(1572)の再建、兵燹に焼け残った鎌倉時代の古材の一部が現社殿に使用されている。
奈良県下には室町期の三間社流造り社殿は数少なく、その時代の貴重な遺構して、現本殿は国の重要文化財の指定を受ける。
ところで茶筌の里、里子の村などといわれるこの地高山は、古くは鷹山と書いた。
地名の発生は鷹飼の山部の里に由来する。これらの歴史的背景--次の一行はガムテープで隠されて不明--
 高山の八幡の宮の神主誌るす
高山八幡宮公式HP
http://www9.ocn.ne.jp/~takayama/frame.html
神社の由来が意味ありげですね。


題名:四條畷市飯盛山ろくの住吉平田神社: 11月 28日 投稿者:いこまかんなび

 

こんばんわ。今日は良いお天気で交野の不動滝・傍示の八葉蓮華寺・四條畷市の御机神社・龍尾寺・権現の滝などをまわってきました。
そこで生駒山の西ろく部、四條畷市の飯盛山(314m)の北西に鎮座する式内社の御机神社と四條畷神社との間にある「住吉平田神社」を社前の説明とあわせてご紹介しましょう。なお、社殿までは長い急な階段が待ってます。
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住吉平田神社

所在地 四條畷市南野2-18-27(四條畷神社北方200m飯盛山麓
祭神  住吉神社-底筒男尊・中筒男尊・表筒男尊
    平田神社-平田大神
付属社 八坂神社-素盞鳴尊 
    神明神社-天照大神
    八幡神社-神功皇后
    稲荷神社-倉稲魂・猿田彦尊・大宮女神
祭日  祈願祭 毎年2月17日 但新年度初頭の吉日とす
    夏祭 7月31日  式典 同日
    秋祭 10月17日 式典 10月16日
氏地  (旧称)畑・中津川・川崎・楠公・雁屋・二丁通
略記  神社由来記によると寛平・延喜(889〜901年)より、飯盛の麓に鎮座し給うとあ           るも、その往昔を知らずとある。したがって創建は詳らかではないが700〜1000年前の創建と推定せられる。南野村改邑鑑によると(文化12年「1815年」)住吉大明神の神主、京都吉田家より元和文甲中(1730年)*受領せるとあり、そのころ住吉神社と平田神社と合祀して改名せられたものと推定せられる。(住吉平田神社となる)  (
伝承では住吉神社は飯盛山麓--現在地より稍々西の方に、平田神社は楠公町の北側-現呼称南野平田に各々所在していたという。) 
[補足]---平成元年焼失、翌年復興。*年号等不可解


題名:コメント投稿 名前:神奈備 日時:11/29

四条畷神社の北側の長い石段を登った所ですね。一度参拝したことがあります。四条畷神社は南面していますので、この神社の方向を拝む形で、面白い所に鎮座しているなーと、諏訪上社の前宮と本宮との関係と似ています。


題名:コメント投稿 名前:いこまかんなび 日時:11/30

西方山ろく河内湖に面して弥生時代の雁屋遺跡があります。
中期の方形周溝墓や木棺人骨が多数発見されているほか、後期の円形周溝墓があり、葬送儀礼に使用された地元生駒西ろくの土器の中には、日本海地域それも鉄とガラスが豊富に発見される丹後・但馬地域の墳墓(京丹後市-左坂墳墓ほか)の土器と同じ形の土器が含まれていることから、両地域が深い関係にあったようです。
「第20回記念特別展-青い鳥が飛ぶ-雁屋の男がめざした日本海」四條畷市歴史民俗資料館 12月11日まで。


題名:信濃国風土記より、ははき木: 11月 26日 投稿者:言蛇

神樹シリーズとして信濃国風土記にいわれる「ははき木」を拝んできました。
「その原や伏屋に生ふるははき木のありとはみえてあはぬ君かな(坂上是則/新古今和歌集)」
「箒木の心を知らで園原の道にあやなく惑いぬるかな(源氏物語)」
桧の老木でその先が拡がって箒のように見えることから箒木ともいわれ、遠くから見るとよく見えるが近くに行くと分からなくなると言われていました。都から園原の炭焼吉次のもとへ嫁いできた在原の息女客女姫が、母恋しさに夕空をながめていると母の手招く姿がみえたので思わずかけよって見ると一本の木であったと伝えられているところから「母木木」といわれるようになったともいわれています。
この名木も昭和33年9月の台風に倒されて今は数メートルの残幹を残すのみなっていますが・・・・・五十猛が通るのなら、また桧を植樹するんじゃないかなと感じて、現状もったいない気がしました。


題名:東山道の神坂神社: 11月 26日 投稿者:言蛇

 

「ちはやふる神の御坂に幣まつり斎ふ命は母父がため(神人部子忍男) 万葉集4426」
祭神は表筒男命、中筒男命 底筒男命。江戸時代に日本武尊/誉田別尊/建御名方命/須佐之男命が合祀。
園原の里の最も奥まったところに鎮座する神坂神社は俗に住吉さまといわれています。この山中に航海の神がなぜ祀られたかについては、この神社の創建時期とともに明らかでないが、一説には安曇族が西方から信濃国に移住してきた遺跡の一つではないかとも言われている。相殿の神々は江戸時代中期以後の合祀である。社殿は一間社流れ造りで、明治22年木曽郡上松出身の坂田亀吉(通称基礎亀)の建造によるもので、障壁、虹粱等の透かし彫りの精巧さが見どころ。
境内にある大きな杉の木は、日本杉といわれ、もとはニ本あったものが明治25年九月の暴風雨のため一本は倒れてしまいました。その年輪は二千年以上もあったそうです。
また、富岡鉄斎揮毫による園原の由来を刻んだ園原碑、北原阿智之助揮毫の万葉集防人の歌碑、犬養孝筆による万葉集東歌の歌碑、黒坂周平筆による凌雲集の漢詩磨崖碑、日本武尊の腰掛け石とともに古代祭祀の磐座ともいわれる大石など、情緒に富んだ石造文化財も多い。


題名:和歌山 浦神付近 岩屋崎 その2: 11月 22日 投稿者: 565

  

連続投稿申し訳ありません^^;
入り口付近と少し奥の写真です。
全体的には花の窟に雰囲気が似ていました。


題名:コメント投稿 名前:神奈備 日時:11/23

565さん ありがとうございます。
花の窟に似ていましたか。
写真からも、神のたたずまれている雰囲気を感じますね。
古墳の感じより、もっと良い感じでは。


題名:和歌山 浦神付近 岩屋崎: 11月 22日 投稿者: 565

  

神奈備様、こんばんは。
件の写真をアップさせていただきます。
古墳?のような気がするのですが、いかがでしょう。
まずは道路側からの概観です。


題名:加古川-東条川最奥の住吉神社5 (篠山市今田町小野原): 11月 14日 投稿者: いこまかんなび

  

東条川の奥、丹波立杭焼で有名な立杭あたりは、四斗谷川と呼ばれていますが、立杭の北、社町と篠山を東西につなぐ国道372号の小野原交差点の東に古墳のように見える丘が神社の所在地です。この神社の由緒について、社前の掲示板から紹介します。
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住吉神社(別名「蛙の宮」)について
今田町は全域が古くから「小野原荘」とよばれ、現在の*堺市にある住吉神社の荘園でありました。
住吉神社は鎌倉時代末期の文保保年間(1317〜1319)、本社(*堺市の住吉神社)から分霊し今田町全域の氏神として創建されました。
その後、町内5社(黒石石・本荘・市原・木津・上立杭の各住吉神社)に分祀されましたが、その時期は定かではないとされています。
現在は上小野原・下小野原・四斗谷・辰巳・休場の5地区の氏神となっています。 本殿には、住吉三神・春日社・八幡社・稲荷社の四座が祀られており、現在の社殿は享保13年(1728)に再建されたものです。
また、本殿の左手裏には「かくれ杉」と呼ばれる樹高16m・幹まわり5.9mの巨木が残っており、言い伝えによると*堺市の本社からの分霊の際に神が隠れられた杉と言われております。
夏祭りは7月30日、秋祭りは10月5日に行なわれますます。秋祭りの前日(宵宮)には田楽「蛙おどり」が奉納されます。このおどりは、鶴・亀を白く染め抜いた紺色の大広そで(素袍)を身につけた8人が締太鼓とササラを持ち、ヘーツ・ヘーツ・カエロ・カエロと連呼しながら踊る極めて素朴なおどりです。また、締太鼓にあわせ扇子を手に一人で踊る「いずまい」があり、これは三礼・九拝し三角の形に飛んで踊るおどりで昔のままに伝えられております。
蛙の宮の名称は、この蛙おどりと神殿の丘が古墳式でその形態が大きなガマに似ている事から名付けられたといわれております。また「蛙おどり」は中世以降継承されてきた貴重な文化遺産として現在も「神舞保存会」により受け継がれ、昭和61年「兵庫県ともしび賞」を受賞いたしました。
(*堺市は大阪市住吉区の間違い?)


題名:コメント投稿 名前:神奈備 日時:11/14

投稿ありがとうございます。
蛙おどりは
http://www.city.sasayama.hyogo.jp/evkn1004.html
に紹介されていますね。
中世の田楽の姿をよくとどめているそうです。


題名:コメント投稿 名前:いこまかんなび 日時:11/14

いつも慌ててキーを叩いて間違い入力してしまいます。すみません。
皆さんおわかりと思うのですけど、由緒年号の文保保は文保、黒石石は、黒石です。
東播〜丹波西部山間地域への住吉神勧請の時期は、予想外に中世以降の新しい所が多いですね。加古川本流沿いの中核住吉神社の創祀は、百済小国家と言われたりするように、相当古い時期だったかも。


題名:コメント投稿 名前:神奈備 日時:11/15

> 加古川本流沿いの中核住吉神社の創祀は、百済小国家と言われたりするように、相当古い時期だったかも。

この百済小国家と言うのはよくわかりません。何でしょうか?


題名:コメント投稿 名前:いこまかんなび 日時:11/15

ドキッ。引用と表現が悪かったようです。播磨国には特に多数の渡来氏族が住み着き「新羅系小国」「百済小国」が存在した地域といわれます。
新羅小国地域へは、後に百済系移住民(韓鍛冶すなわち伽羅系の冶金技術集団など)が進出していった(地域がある)といわれます。詳しくは宋潤奎著『古代日本の渡来勢力』2003。
住吉の神を崇拝し祀る行為が、なぜ海岸線から離れた内陸部の渡来氏族の多い地域に浸透し、なぜどのように広がっていくのか?、とても興味深く思いました。


題名:摂河国境堤(剱堤)上の菅公ゆかりの諏訪神社: 11月 8日 投稿者: いこまかんなび

 

加美新家天満宮に関連して、ついでに摂河国境堤(剱堤--南北に続く)上に鎮座(東向)します菅公ゆかりの諏訪神社を紹介します。

諏訪神社--大阪市城東区諏訪2丁目15番
一、御祭神本社 
  建御名方刀美命・八坂刀賣之命
摂社--大国神社
末社--談山神社・春宮神社・天満宮・玉長社・招魂社
となっています。
石は境内の菅公腰掛け石です。


題名:コメント投稿 名前:神奈備 日時:11/9

諏訪地方でも天神社と勝する神社の祭神が菅原道真公となっています。
大阪では少彦名命を祭神とする神社が目立つようです。
長野県ではとりあえず天神社で少彦名命は皆無、これは天神信仰がなかったに等しいことを物語っているのかも。


題名:コメント投稿 名前:いこまかんなび 日時:11/27

神社の創建は不明です。
大阪市城東区(名所・旧跡)より『諏訪神社』
http://www.city.osaka.jp/joto/shokai/06_30.html
「境内に現存する古い石灯籠に『承和3年(836)4月寄進』と刻まれているところから、今から1200年ほど前の平安時代に創建されたと考えられます」?
そんな古い燈籠なんかはないはず?。明和とか江戸期?。
大阪市教育委員会(指定文化財)より
『諏訪神社の獅子舞』
http://www.city.osaka.jp/kyouiku/sikumi/bunkazai/h15_15.html
近くの東大阪市諏訪神社(中新開)は、神奈備さまの神社一覧を参照。


題名:コメント投稿 名前:神奈備 日時:11/27

日本最古の石燈籠は當麻寺にあるようです。
645年の大化元年から710年平城遷都までの時代。
http://urano.org/kankou/taima/taima10.html
近年屋根が出来たとか。
???


題名:平野川沿いの加美新家天満宮 : 11月 8日 投稿者: いこまかんなび

 

昨日、八尾市〜平野近くまで、古代の旧大和川支流の龍華川筋から現在の平野川に沿った地域を自転車で回ってきました。街中は起動力がありますし。でも尻が痛いです。
堤上の渋川神社(龍華島荘)などは「神奈備」に詳しく紹介されていますので、物部氏の拠点の太子堂から〜西へ中央環状線の亀井の交差点から南の現平野川に沿って行くと、川べり(旧加美村新家)に菅原道真が立ち寄ったという由緒のある新家天満宮を社前の由緒書よりご紹介いたします。
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新家(加美)天満宮 由緒書

御祭神 菅原道真公(菅公・菅丞相・菅家)
    天照大神
例祭  十月十七日  夏祭 七月二十日頃の祝休日
由緒  当社の創建年月は不詳である。所伝によれば、この鎮座地は、御祭神の菅原道真公が左大臣藤原時平の陰謀讒言によって昌泰四年(901)、十六歳の醍醐天皇により右大臣・従二位の官位から太宰権師に左遷され[道真公没後二十年目の延喜二十三年(923年)、同じ醍醐天皇により右大臣に復され正二位を贈られた]、筑前(福岡県北西部)の太宰府に行かれる折。菅原家歴代の菩提寺道明寺の住職である叔母の覚寿尼に別れの挨拶に立ち寄られた帰りに平野川を船で下り休憩された所で、後年京都の北野天満宮の御分霊を勧請した場所とのことで、その社は「川べりの天神」と呼ばれて尊崇されていた。
 時が移り明治五年(1872)「村社」に列せられ、明治三十九年(1906)公布の政令「神社合祀令」に従い、同四十一年、加美村大字鞍作の村社、菅原神社に合祀された。社殿はその後ほどなく自然倒壊したが、大木や石の大鳥居、灯籠等の残る境内地は保存されていた。
 戦後の昭和二十四年(1949)四月に新しく造営された現社殿へ菅原神社から御祭神にお還りいただき、当時の所在地名。加美村新家町に因んで宗教法人「新家天満宮」という社名てで再建された。
 末社 稲荷神社(御神号 橘大明神)


題名:コメント投稿 名前:神奈備 日時:11/8

摂社の稲荷神社の祭神が橘大明神、これは旭神社に同居する若宮八幡宮
http://kamnavi.jp/ny/hiranoasahi.htm
の橘の花がとどまったと言う伝承を共有しているのかも知れませんね。
ご紹介ありがとうございます。


題名:コメント投稿 名前:いこまかんなび 日時:11/8

橘の流れ着いた伝承、古い河道など、すごく興味深いですね。
菅原道真はあまり興味ないのですがも摂河国境堤上の諏訪神社も道真伝承が残っています。
[諏訪神社の菅公腰掛石]=大阪市城東区諏訪
菅原道真が伯母にお別れの時に、当社の前の堤道(剣道=剣街道)を通られ参拝された、この時境内の石に腰掛けて休憩され、諏訪大明神が先を助け導く神と聞き、神号額1面を奉納された、村人は御身上を同情し、地名を「左遷道」のちに「左専道」と改めた、という言い伝えが残っています。


題名:大山: 11月 4日 投稿者:神奈備

和歌山県海南市の国主神社から西方を眺めますと三角形の形の山が見えます。
どうやら、海南市黒江の大山のようです。
ご一緒しましたタイシさんも同じ意見です。
http://blog.goo.ne.jp/taisi_i/
この山の付近に神社は見えませんが観音堂のようなものがありました。
氏は大山と呼ばれている山は信仰の山だったのではと推測されています。
このように大きくはない山でも大山と言うのはそれなりの意味があったのでしょう。
JR海南市はら東を向いてもまた別の三角形の山が見えますし、小野田の方から多田の方を眺めてもまた三角形の山が見えます。
多くの神奈備山がこの地にはあるようです。


題名:コメント投稿 名前:タイシ 日時:11/4

神奈備さん、大山と黒江駅の間には地図では、「室山」と付く建物がありました。(団地・集会所・浄水場・保育園?皆「室山」が付きます。
昔は、このあたりは「室山」と呼ばれていたのでしょうか?

「室」で思い出したのが、奈良の御所市の三室や宮山古墳の「室」です。
「室」の地名起源は色々あるようですが、元々三室も御室であって、室の付く地名は、人が群がる(タムロ)か?神の在する所の意味?と考えています。熊野地方も「ムロ」でしたね。

和歌山の国主神社の神奈備山、大山や周辺の神奈備山には、多くの神さまが・・・


題名:コメント投稿 名前:神奈備 日時:11/5

室山古墳と言う古墳が中言神社の鎮座する船尾山にあるようです。
http://kamnavi.jp/ki/city/nakakn.htm
室山と大山とは違うようですね。


題名:加古川-東条川最奥の住吉神社4 (篠山市今田町黒石) : 11月 3日 投稿者: いこまかんなび

  

「もう十分やで!」といわず、今日は『丹波篠山の住吉神をゆく』です。
 小野市から丹波方面に続く加古川の支流=東条川は、北は丹波の国=篠山市にはいっていきますが、川=谷は大川瀬(住吉神社)の奥で東西二つの谷に分かれ、東は丹波立杭焼で有名な立杭の谷を遡り、今田(こんだ)町東庄〜上小野原(ここにも住吉神社がある)〜白髪山(722m)の山ろくに続く四斗谷川へと続きます。
 一方、西側の谷は今田町市原〜今田町本荘〜やがて川は黒石川と名を変えて、谷奥で西脇市の畑谷川沿いに続いてきた山越えの篠山道に合流することになります。
 その谷あいの途中、播磨と丹波の国境となる西光寺山の嶺の東山ろくの今田町黒石にここに紹介する(黒石)住吉神社があります。
 この住吉神社は、南北に通じる県道の東側にあり、新しい鳥居をくぐり石段をあがった境内には、本殿が西を向いて鎮座していますが、石段の南側には大きな巨石があって驚きました。
 これは黒石なんかいな?。周辺の山では黒い鉱石から?何かが採れたのでしょうかね。場所は西光寺山の東側の谷に位置します。
 何ら説明らしいものが無く、神社の由緒は持ち合わせがありませんので『篠山市史』等をお持ちの方がありましたらご教示くださいませ。
 中途半端で失礼いたしました。


題名:コメント投稿 名前:神奈備  日時:11/4

今田町には住吉神社が6社。
こうなれば海とはあまり関係しない氏神的な存在になっていったのでしょうね。
まさか和歌の神様としてでは・・・


題名:コメント投稿 名前:いこまかんなび  日時:11/4

そうですね。国家的に重要であった古代住吉大神の神領時代とはちがって、渡来文化的要素が薄れ、中世以降は、杣人たちなど山間奥地の人達はかえって平和で自由な地域の中で、和歌や舞踊が盛んとなっていったのかもしれませんね。どんどん神の船を作って大陸・半島へ進出する時代は過去り、大神も山の神のような存在になっていったのカモ?。


題名:菊花展: 10月 28日 投稿者:言蛇

穂高神社の菊花展です。
この季節、穂高神社だけでなく各神社で菊花展を迎える季節ですね。
稲の収穫は終わってもリンゴをはじめまだ農作業は抱えているので、これを作っている方々はどういう人なのか不思議ですが、仕事の合間に菊の花の匂いがただようと穏やかな気分になるのも確かです・・・ありがとう^^

#堀金村の住吉神社に出かけてきたのですが、資料が必要なので後日掲載させていただきます。蚕影神社が合祀されていたりすのでここは興味深いところ


題名:観音崎・権現洞窟: 10月 27日 投稿者: みうち

 

昔、行基がこの奥に住む悪い大蛇を退治して、そこに十一面観音を祀ったと言われている洞窟。
弟橘媛はこの洞窟の正面の沖合で死んだとか。
誰が見たんや、そんなん、と思わずつっこみを入れたくなりますが、たしかにこの辺りの海は、穏やかなたたら浜と違い、波が荒いようで、嵐になったらかなり荒れるのでは…と思いました。
海で溺れた人がこの辺りに集まってくるのでは?
だとすると、弟橘媛と侍女たちの死体もここに集まった可能性も…。


題名:コメント投稿 名前:言蛇  日時:10/28

はじめましてこんにちわ。
伝承をそのまま丸飲みされている気配があるので助け舟を一つ。

走水の弟橘媛伝承は、ヤマトタケルが東京湾の制海権を握る為に弟橘媛( &侍女?)を三浦半島の豪族達に下賜した事情を言い換えたものであると いう説は御存じでしょうか?
この説に従うのであれば、弟橘媛は入水後に三浦半島のどこかに流れ着 き天寿をまっとうしたと考えることができます。


題名:観音崎公園: 10月 27日 投稿者: みうち

 

走水神社近くの観音崎公園。
目の前に拡がる海辺がたたら浜。
この浜で砂鉄が採れたそうです。

観音崎たたら浜


題名:走水神社・山頂三つの神社: 10月 27日 投稿者: みうち

昭和の大霊能者・出口王仁三郎が啓示を受けたといわれている場所。霊的に敏感な人は気分が悪くなったりするそうで、以前ここへ来たわたしの友人は、具合が悪くなって一日働けず、使いものならなかった、と言っていました。
ある霊能者はここは霊界につながっているので、あまり勧められないとか。
ですが、実際に来てみると明るいパワーがあって、ちゃんとお祀りすれば御神霊の大きなエネルギーが立つのではないか、という気がしました。ただ海難で亡くなられた方々の御魂も周りに集まっているような気がして、そういう方々の供養も必要な気はしましたが。

社は、向かって右から

    右     須賀 社
    中     神明 社
    左     諏訪 社

中央が天照さまを祀る神明社で、その両脇が出雲系で…。
なんとなく征服された場所という気がするのですが。


題名:走水神社: 10月 27日 投稿者: みうち

   


1,2 境内にあった弟橘媛のレリーフです。
3 社殿
4 弟橘媛の侍女祭る社

社殿右脇にある、弟橘媛と一緒に入水した侍女たち(50名という話も)の御魂を祀る社。
ある霊能者の話によると、泣き叫ぶ侍女たちを、船の中から次々と嵐の海に突き落とす様子が見えたとか…。
昔は侍女や従者がお仕えしている方と運命を共にする、ということがあったとか。考えてみれば、お仕えしている媛が主君をお守りするため、嵐の海に入水したのに、侍女たちだけが生きて残る、ということはありえないかもしれませんね。

5 境内地からの海の景色
山頂へ向かう境内地からの海の景色。
心なしか、熊野の荒坂津神社からの景色に似ている気がします。まあ、海沿いの景色はどこもこんなもんでしょうけど。


題名:加古川-畑谷川支流の住吉神社3 (西脇市住吉町): 10月 26日 投稿者: いこまかんなび

気分をよくしてまたまた「東播の住吉神社をゆく」の連発です。
中畑町からさらに奥へ進むと、住吉町-いい名前ついてますね。道路際から神社は見えず、県道に開いた鋪装道を北西へ上がるとすぐに右手に石標があり、急な石段を数十段登った尾根の上部に住吉神社が南面して鎮座しています。木製の鳥居・土俵の奥に拝殿とつながる流造りの本殿があります。
この神社の沿革資料も持ち合わせがありませんが、拝殿内には古い本殿の木組みの一部が保存されています。その前に墨書の由緒書が掲示されていて次のように書かれています。
「西暦千百年、開拓の祖先は高山(別名しころ山)の麓に山の神(別名大山祇神)を祭り「切らすの森」と命名、奥畑村と号す。 千四百年、堺の住吉明神を勧請、この地に祈り所を創建す。千七百年に至り、本殿・舞殿・長床を再建、神社の風○?を完成したが、後年舞殿を廃し、権現造りとして今日に至る。創建以来信仰は生活の中に深く根づき「家内安全・無病息災・諸願成就」の祈りをなすも明治・昭和の戦役では軍人の「武運長久」の祈願に打暮れた暮れた・・・平成十年」とあります。
高山は、南の西光寺山とは反対側、神社の背後北側に連なる山並みの一峯、標高659.9m を測る三角形の峯です。
別名しころ山のしころの字は「錏」「錣」、屋根の様に横からみれば尖った三角形、古い高山の意味は神山だったのでしょう。つまり古代住吉大社の神領「椅鹿山」領内だったんですもんね。

参考『浮雲流水の記--平成16年初山は干支の山〜高山・猿藪』より
http://www5a.biglobe.ne.jp/~unsui/html/2004/takayama.html


題名:加古川-畑谷川支流の住吉神社2 (西脇市中畑所在): 10月 24日 投稿者: いこまかんなび

こんばんわ。またまた「播磨住吉神社をゆく」です。
9月28日に紹介しました畑谷川沿いの上比延-住吉神社の所からさらに篠山方面に、川沿いの県道を約3kmほど行った中畑の道路沿いに鎮座しています。
谷の南側には播磨・丹波国境になる標高713mの西光寺山の峯々が続きます。
ここからさらに4km上流には住吉町の住吉神社が鎮座しています。

中畑の住吉神社の由緒は詳しくありませんが、境内にある由緒を記した石碑には
 當住吉神社沿革(棟札に據る)
創建 天長年間(830年頃)
   応永年中失火焼失
   応永23年(1426)本殿再建
    同 年   大般若経1巻奉納(現存)
   永祿3年 (1560)造補
   寛永16年(1639)修理
   元文3年 (1738)本殿改築(現存)
      正遷宮導師恵啄法印 
      大工飛田倭兵衛(?)
大正11年本殿修理幣殿増築
と記されています。

「多紀通信」http://www.eonet.ne.jp/~tadao/takituusin-mokuji.html
を参照しますと
「平安時代、多紀郡の中央部及び西部(東光寺、西光寺)は、天台密教の聖地となっていた。保安5年(1125)-西光寺へ大般若経写経600巻が奉納される。願主は僧快尊、僧行子(天台宗修験僧)藤原氏である。結女に高向氏、清原氏で、都の貴族達の信仰を集めていたようである。西光寺滅亡のとき、大般若経600巻は、(篠山市)今田町本荘住吉神社に201〜400巻、(社町)鴨川住吉神社に1〜200巻、(西脇市)中畑住吉神社に401〜600巻を均等に配分した。現在今田町本荘住吉神社に201〜400巻が現存している。」
ということです。( )は補足
 中畑住吉神社の境内には立派な木造の長堂があり「正面4間、奥行3間の雄大な紅梁かで組立られ、屋根は風格あるかや葺。天保12年(1841)に造営され現在に至る。」と記されています。
「浮雲流水の記」西光寺山
http://www5a.biglobe.ne.jp/~unsui/html/saikoji.html には、
「西光寺山は別名「金鶏山」。金といい、日の出といい、まばゆいものに関係する山だ。「兵庫丹波の山々」の著者慶佐次氏によれば、鶏はその赤い鶏冠から「丹」が連想されるといい、昔、山頂に存在したという西光寺は法道仙人が開基であるとの伝承を合わせ考えると、金属に関係する山だったのではないかという。」とあります。


題名:コメント投稿 名前:神奈備  日時:10/25

掲載ありがとうございます。
鶏冠と丹、これは面白い着眼ですね。
鶏冠山と言う山はけっこう多いように思いますが、丹と関係あり山もあるのかも。


題名:コメント投稿 名前:恋川亭  日時:10/25

いこま先生。ずっーと、見てます、読んでます。大和とも摂津とも吉備とも、微妙にことなる『ふしぎな穏やかさ』をもつ東播の景観。ご公開ありがとうございます、さらには流域でまとめて頂き県民として大感激です。人情味溢れる法道仙人は播磨のスーパーマン!


題名:三上山: 10月 20日 投稿者: 神奈備

御上神社から真東を見た場合の三上山


題名:加西市北条町の住吉神社: 10月 11日 投稿者: いこまかんなび

今回は、兵庫県加西市の中心、中国道の少し南の北条という所に、真言宗酒見寺と隣合わせに鎮座する住吉神社の写真です。
 ここは、加古川本流の西岸の支流、万願寺川・下里川流域の奥、北条に位置します。 神社の立派な拝殿と本殿三棟、東側に続く酒見寺と一体となった広い境内は、古代の寺社の姿を想いおこさせます。
 北条鉄道「北条町」下車、徒歩北へ10分ほどかかります。中国道では加西ICでおります。

境内の『由緒書』説明版より-----

本社(三殿) 御祭神
 酒見神 (当地住民の祖先神)
 住吉四神 (底筒男神、中筒男神、表筒男神、神功皇后)
 大歳神 (明治42年7月黒駒大歳神社を合祀)
 八幡神 (同年9月西上野八幡神社を合祀)

年中の主な祭
 1. 節句祭(例祭) 4月第1土曜日・日曜日
   神事 鶏合わせ 本宮 保安3年(1122年)に始まる
   神事 竜王舞  本宮 始まりは鶏合わせと余り時代に差がないと思われる
   神輿二基・化粧屋台14基が出る 両日共

 2. 夏祭 7月29日・30日
    大祓 (茅の輪くぐり) 7月29日・30日・31日

 3. 厄除祭 (厄祓い) 八幡神 2月19日

 4. 節分祭 (厄祓い) 酒見神・住吉神 2月初め節分の日

 5. 祈念祭 (生産事業繁栄祈願祭) 2月23日

 6. 七五三 (幼児3才・5才・7才の成長を感謝し無事を祈る) 11月15日

 7. 新嘗祭 (生産事業の実りを感謝する祭) 11月23日

 8. 月嘗祭 毎月1日午前7時より

 「社伝によると、三重里(北条町)に住んでいた山酒人(やまのさかひと)が、養老元年(717)、住吉大神に宿を貸したところ、一夜にして田に植えた稲苗が大松に化してしまったので、驚いてこの松林に神殿を造り大神をまつったと伝えられています。
この神社には、神功皇后の命を受けた酒看都子(さかみつこ)が酒造りを始めたと言い伝える泉が今も残っています。 
 なお「住吉神社」はその昔、酒見(さがみ)明神とも呼ばれ、式内社で播磨三の宮として名高い神社です。また、4月2・3日には播州三大祭りの一つで「北条の節句まつり」と呼ばれる例祭が行われます。
 隣接する「酒見寺」は、天平17年(745)に行基の開基と伝えます。仁平3年(1153)に大日照りが続いたとき、近衛天皇の勅願で播磨六山の僧がここに集まり、大般若経を転読して雨乞いをしたところ、読経半ばにしてたちまち大雨が降り、万物すべて蘇ったという言い伝えがあります。この行事は近世末まで続きました。」ということです。
 『兵庫のふるさと散歩』発行-21世紀ひょうご創造協会 参照

 また、住吉神社の東側には、式内社の坂合神社とも考えられている礒部神社(北条1254)があり「四王子命、五王子命」を祭神としています。この神は住吉神社の第4・5王子が祀られているといわれ、住吉神社の神々が鎌倉山から降臨された時に、佐保神が神宝を奪って逃げ、第2王子を追いかけたが川の増水で逃がしてしまい、その責を問われたことから住吉神社内に祀られず、離れて祀られているといいます。
 また、東北方に位置する周辺地域の神体山=鎌倉山との間にある上野町の山ろくには、式内社の石部神社(いそべ)があり、市杵嶋姫命、田心姫命、湍津姫命を祀っています(ともに未調査です)。


題名:コメント投稿 名前:神奈備  日時:10/12

ありがとうございます。式内社ですね。
住吉大社から大和へ行く東への道は磯歯津路と呼ばれています。道の途中で新羅客の入朝の際賜う神酒を醸造した住道社があり、それが神須牟地神社や中臣須牟地神社とされ、比売許曽神社で御酒を頂く仕組みがあったようです。「須牟地の神酒を賜うて穢を祓はない者は日本人ではない。」要は「俺の酒が飲めねえのか?」と仲間入りの儀式があったのでしょう。ヤクザの世界に残っている風習でしょうね。

 酒見の神は酒看都子(さかみつこ)とあるように、酒殿の神や酒彌豆男神(酒彌豆賣神)と同じ神とされているようですね。各地の杜氏の腕前を称えたのかも。


題名:コメント投稿 名前:玄松子  日時:10/12

> また、住吉神社の東側には、式内社の坂合神社とも考えられている礒部神社(北条1254)があり

 この出典を教えて下さい。


題名:コメント投稿 名前:いこまかんなび  日時:10/12

>玄松子さま >「式内社の坂合神社とも考えられている」のことですか。
出典の持ち合わせはありません。神奈備さまの式内社一覧の内容を参考にさせていただいただけです。間違っていたのでしょうか。勝手な解釈ならば訂正しなければ。ご教示を。
また、礒部神社の伝承記事のこと(ではないでしょうが)であれば、加西市観光協会発行のマップ記載の説明文からです。

 >神奈備さま  
磯歯津道ぞいの須牟地の神々・赤留比売神など、旧住吉の国の隅々に祀られた神々や、中臣が大きな役割を果たした神酒づくりや神酒による穢れ祓いの神事などの記事にすごく感心を持ってます。6世紀にどんどん受け入れた渡来人や外疫から聖なる国土を護り、清め祓うための神々が配置されいろいろな神事が行なわれていたのでしょうかね。播磨の賀毛郡でも同じようだったのでしょうかね。


題名:水内坐一元神社: 10月 4日 投稿者: 言蛇

長野市大字小島に鎮座する水内坐一元神社の景色です。
秋の恵みの季節と、善光寺平の集落の違いを感じて頂く為に併せて投稿させていただきます。

千曲川のほとりにある小島・柳原遺跡群のまん中に鎮座。弥生時代の二重環濠集落の遺跡が発掘されており、弥生人どうし善光寺平で反目しあっているようすがよくわかるのですが、現在は田圃と林檎畑のなか・・・

写真に映っている丘陵地が善光寺平浅川扇状地です。

祭神は建御名方神で、境内の伊勢社には天照皇大神、猿田彦大神、太宰府天満宮がまつられています


題名: 美和神社: 10月 1日 投稿者: 言蛇

長野市大字三輪字相木東514番地に鎮座する美和神社です。
主神は大物主命、相殿に國業比賣神/神部神。

長野で三輪鳥居をみかけたときはちょっと驚きました。
貞観8年(866)2月、信濃国水内郡三和・神部の両神が怒り、兵乱や病気を流行らせるというので、朝廷が国司らに命じてお経を読ませて鎮まらせたということで有名になったとのこと(汗)。『延喜式』神名帳の水内郡九座の筆頭に記載されている式内社でもあります。善光寺平浅川扇状地遺跡群のほぼ中央に鎮座していて善光寺7社に加わっているのですが鳥居は北面していて、建御名方神社の鎮座する城山の方は拝んでいません。

「古代日本列島の謎(著/関裕ニ・講談社文庫)」の記述ですと、三輪時丸なる人物が大和の大神神社からご神体をもってきてしまったので大神神社に「三輪の神」はいないとのことです(・・・え〜???)が出典元は不明です。

境内に奥州に本社のある青麻神社が鎮座しています。明治時代、中風を患った商人が勧誘したとのこと。


題名: 大和日向神社: 10月 1日 投稿者: X

奈良の春日大社の背後にある御蓋山は聖山ですが、以前ハイキングで迷い込んだところがちょうど御蓋山(みかさやま)の山頂へと。
大和国添上郡37社中の春日祭神四座、春日神社一座、鳴雷神社一座、大和日向神社一座は、奈良春日神社に関わり深い神々とされますが、写真は、御蓋山頂=浮雲峯上に、西方の平城京〜生駒山(ひょっとして饒速日山?)を向いて鎮座まします摂社の「本宮神社」で「浮雲神社」とも言われ、大和日向神社と考えられているようです。
武甕槌命・経津主命・天児屋根命を祀り、東から昇る太陽信仰と深い関係があると言われます。祠のまわりには磐座は見当たりませんでしたが、祠の後ろには五輪塔形を刻んだ石塔婆などが遺存しています。神仏混淆の証し。


題名: アレレッ!: 10月 1日 投稿者:泊瀬女

岐阜県垂井町の伊富岐神社の鳥居がこんなになっちゃってました。
台風の被害でしょうか。
唖然としました。


題名:コメント投稿 名前:神奈備  日時:10/ 1

http://www.genbu.net/data/mino/ibuki_title.htm
一の鳥居でしょうか二の鳥居でしょうか。
二の鳥居かな?


題名:コメント投稿 名前:泊瀬女 日時:10/ 1

神奈備さんの収録神社一覧や玄松子さんの神社記憶を拝見すると、これは二の鳥居でしょう。
笠木の部分だけが境内に置かれていました。
二の鳥居があったと思われる場所には社号碑があって、彼岸花がいっぱい咲いていました。

「神奈備にようこそ」