神奈備別荘 神奈備写真付き参詣掲示板 ログ

神奈備別荘

平成十八年 一〜十二月
 投稿者の敬称は略します

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散る桜 nick at 3/28(火)


午前中は青空が覗いていたのですが、昼過ぎから雨で、桜も散り始めました。
先週の土曜日満開になったばかりですが、、短命ですね。
旧高千穂の宮址碑
旧鹿児島神社址
その前は高千穂の宮とか

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1. 神奈備> 3/28 22:24
散る桜、残る桜も散る桜。

 大阪は今日28日に開化宣言が出ました。窓から見える桜も見る度に花が増えているように見えました。
 早速雨の洗礼ですし、明日から3日は最高気温が10度を切る冬への逆戻りです。

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大阪最南端-岬町小島の住吉神社 いこまかんなび at 3/22(水)

こんばんわ。桜の季節ももうすぐですね。とは言っても、春を迎えるには不順な雨と寒のもどりはつきもの。久しぶりの投稿です。
きょうは、またまた「住吉神社をゆく」シリーズです。
大阪府の最も南端、紀淡海峡に近い岬町(昔の和泉国日根郡)の小島という漁港にある住吉神社の紹介です。
日は、冷たく強い北西の風に、カメラを持つ手も震える一日でした。

ところで、小島の住吉神社は、漁港のすぐ北側に海に突き出た地図では明神崎、字名は住吉山という所に鎮座します。祭神はもちろん住吉三神と神功皇后です。
創建は不明、漁村だから「海上の守護神として摂津国住吉神社の祭神を勧請したもの」という程度。夜泣きする子どもに効くといって、紀州地方より参詣する人が多かったといいます。立派なうばめがしの社叢は天然記念物。
ここからすぐ南は和歌山県の住吉崎をまわれば淡島神社や釣りでよく知られた加太の港です。おいしい魚貝を食べさせてくれる店がいっぱいです。

小島の北側(多奈川=)谷川の字住吉山という所にも、産土神社に合祀された住吉神社があったといいます。漁業が盛んなこの地域に海神の住吉神がまつられた理由は分かるのですが、もっ〜と古い・・古代から祀られていたと考えたい心境なんです。なお写真の上左は、南方の住吉崎、上右は、小島漁港から、下は、住吉神社の上段社前です。

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1. 神奈備> 3/22 22:11
いこまかんなびさん、ご投稿ありがとうございます。
和泉名所図絵に小島山の絵がでていますね。
この辺りを南下して和歌山の大川八幡神社には参詣したのですが、この神社には立ち寄らずでした。
なかなかの神社ですね。
古くからの鎮座と思いたい気分はよくわかります。もし神社がなくても磐座があったとか、聖地であったとか思いたい気分ですね。瞬間的な愛郷心みたいなものだとか。

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2. いこまかんなび> 3/22 22:36
神奈備さま。早速、ありがとうございます。
和泉と紀州の間の海と紀泉の山々を鎮め、海峡を通過する悪霊祓いの目的で祀られたのか、考えすぎでしょうかね。
近々、続編の「和泉国の神社一覧」のページを発信の予定です。点々とある住吉神社と神功皇后伝承の痕跡、はたして和泉山地をとりまいていたのだろうか???。まだまだ考え中 !!。

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枚聞神社の御岳神社祭 nick at 3/19(日)


「海幸彦・山幸彦神話」で有名な鹿児島の枚聞神社(ひらきき)の ご神体である開聞岳山頂の「御岳神社祭」。
今年は4月1日に開催されるそうです。
午前中とのこと。
記念登山にはグッドタイミングです。
枚聞神社:0993-32-2007
開聞岳山頂:御岳神社

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1. 神奈備> 3/19 21:11 nickさん、ご投稿ありがとうございます。この美しい神奈備山は「開聞」と言う素晴らしい名前を持っています。胸襟を開いてお話を聞く、まさに人間のあるべき姿でしね。
鹿児島を漫遊できるのはどうやら4月24,25日辺りになりそうです。もう初夏ですね。

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2. nick> 3/20 09:59
大浪池の「まんさく」が開花しました。
「のかいどう」と「みつばつつじ」は連休。つつじは5月下旬からです。

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鹿児島神宮の桜 nick at 3/8(水)

今日図書館へ「宇佐神宮史」全15巻の内5巻を借り帰路を八幡様の堤をとって さっき帰宅した。
今日は外気30度、昨日、父と公園散歩した時は25度。
この暑さで一気に開花した様子。
しかし大半はこれから月末にかけ。。
いい季節になった。

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1. 神奈備> 3/8 19:45
やはり南国ですね。もう咲きましたか。
写真には石体神社への矢印が写っています。
鹿児島は早々に行きたい所です。
開門岳も登っておきたい山です。

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2. nick> 3/19 17:21
北方100m先が「石体神社(旧鹿児島神社。旧高千穂宮跡)です。

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神代文字石 神奈備 at 3/12(日)

 久しぶりに”狂乱の神社巡り”をやりました。昨日は暖かく天気もよかったので、近江国高島郡へと。駅でレンタサイクルを借りていざ出発。
 最初は湖に鳥居が建っている白髭神社、観光でも有名な神社で、夫婦連れとか男一人とかの参詣客が来ていました。いずれの方々もカメラやビデオを持ってのカメラマン。小生が拝殿前から湖の鳥居の写真を撮っている時、道路から拝殿の写真を撮っている人もいて、お互いに撮りっこしている感じ。
 途中で、ホツマツタエが出たと云う田中神社、なかなか大きい神社、また北船木に鎮座の若宮神社、ここは本殿が重要文化財。写真を撮ったのが17社、はからずも大神様の御前を通りすぎたのが5社。
 安閑神社と云う小社があり、この前に神代文字が刻まれていると云う大きい石が置いてありました。説明では古墳の中で使われていた石かも知れないとありました。文字の意味は不明。 

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題名:磯野の多久虫玉神社 : 投稿日時: 2/27 投稿者:はーもにー

  

ひょっとしたら、ここが多久虫玉神社の元社じゃないでしょうか。
病院から南西の村中が気になったので行ってみました。
二つの鳥居が平行して在り、不思議な感じでした。

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1. 神奈備> 2/27 22:34
http://maps.google.co.jp/maps?f=q&hl=ja&q=%E9%AB%98%E7%94%B0%E5%B8%82&ll=34.508007,135.738165&spn=0.006825,0.015793

この地図の左側の多久虫玉神社の所でしょうか?

マドカさんによれば、病院の南側の(=外)路地に茂みがあり、そこだとのこと。
3月5日に同行してもいいとのことでした。

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2. はーもにー> 2/27 22:41
やっぱり病院のすぐ横にあるのですか。

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3. 神奈備> 2/28 07:43
南側の住宅地の中との印象です。
5日に同行いたしましょう。

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4. はーもにー> 2/28 09:02
はい。
写真は地図に出ている多久虫玉神社です。

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5. タイシ> 3/1 20:51
古代、礒野近辺は、「棗原」と呼ばれていたようですね。

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6. 神奈備> 3/2 08:57
病院の近くに棗の原があったとは、粋なもんですね。

題名:2/19:鹿児島神宮「初午踊り」 : 投稿日時: 2/19 投稿者:nick

 

別のコーナーでは「稲荷神社」が話題沸騰中ですが、今日は当地鹿児島神宮の 春の例大祭「初午祭り」でした。
今にも泣き出しそうな空模様で車椅子での見物は少々躊躇しましたが、 唯一の生きがいですから。。
おかげで混雑しなくて助かった。例年の半分以下の人出でした。
帰途、ぽつり〜〜と来ましたが冷たく感じる程ではなく助かった。
少々お疲れで。

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1. 神奈備> 2/20 16:32
nickさん、ありがとうございます。にぎやかそうですね。
鹿児島神宮のでしょうか、摂社の保食神社の初午でしょうか。

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2. nick> 2/20 19:15
管理人さんコンピューター大変ですね。お察しします。
保食神社は、223号線の交差点角に位置し、鹿児島神宮の参道入り口にあって、奉納舞・馬はここを起点にし参道を踊りながら奉納馬場へ向かいます。先ず、参道の奉納馬場で披露して次に坂道を登り境内へ。境内でも奉納舞を。
また、3・28は溝辺(鹿児島空港・高屋山の上の陵のある町)の 前玉(さちたま)神社でも初午踊りがあります。
こちらは昔の馬頭観音で奉納舞です。田植えの6月迄祭が続きます。

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3. いこまかんなび> 2/20 23:48
nickさま、
まだまだ寒いとはいえ、明るい春の祭りのはじまり、カラフルでいいですね。すごく楽しそうですね。
掲示板は、やはり素直で明るく春らしい気分の投稿がいいですね。続いての綺麗な写真のご紹介、また楽しみにしています。

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4. nick> 2/25 01:09
梅は半分以上散りましたが、菜の花や蓮華が満開です。
鶯も楽しそう。。
週末は、たんかんさ〜祭ですがお天気が。

題名:和泉国-襲の峯(再)と法道寺) : 投稿日時: 2/11 投稿者:いこまかんなび

  

國神社・襲峯の周辺の丘は、三輪?たすかぎり墓石が続く堺市の公園墓地となってます。
峯の最高所は、國神社の御祭神が降臨した霊跡で、低い円墳状の古墳の形をなし、上部には何やら小さな石祠がまつられています。

西側の谷間にある法道寺は、鉢峯山閑谷院といい、俗に鉢ケ峯寺と呼ばれます。
寺は、古くは長福寺といい、天武天皇の白鳳11年、法道仙人の開創と伝わります。

法道仙人は、6〜7世紀頃、中国・朝鮮を経て日本へ渡ってきたとされ、三木市の加耶院など播磨〜丹波一帯にかけた多数の山岳寺院(天台系が多い)を開創した伝説的な仙人で、空鉢ともいわれます。

法道寺は本堂・食堂・多宝塔・総門・大師堂など整然とした伽藍の寺院で、背後南方の一際丸く高い峯は、鉢ケ塚・鉢ケ峯といい、法道仙人が行なった飛鉢の法、あるいは黄金の鉢を埋めた所から、山を鉢ケ峯あるいは鉢塚山といわれます。

播磨から離れ、和泉の地で遭遇した謎の法道仙人開創伝承を残す珍しい寺といえます。

明日も何とか仕事ができそうでずっ。

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1. 神奈備> 2/12 09:40
曽、襲の「ソ」は天孫降臨の山でした。ここの襲峰は天照大神の降臨の山。
そうしますと、神社名の波牟許曽神社、阿麻美許曾神社、比売許曽神社、伊太祁曽神社などの「曽」も同じ様な意味があるのかも知れません。
何でしょうね、神とか神聖に近い意味があるのかも。

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2. 筑紫法師> 2/12 12:10
 最近気付いたのですが和泉も伊豆も出雲からきた言葉なんですね。
出雲の影響力はなぜ広範囲なのですかね。

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3. いこまかんなび> 2/12 21:59
神奈備さま
許・曾は、社(こそ)なんでしょ?、許曽は河内周辺、祁曽は紀州弁でなまり、そんな訳ないですね。すみません。

筑紫法師さま
>最近気付いたのですが和泉も伊豆も出雲からきた言葉なんですね。
>出雲の影響力はなぜ広範囲なのですかね。
弥生時代の前は縄文時代、のように、ヤマト建国の前からイズモの神があちこちに祀られていた地域だと書かれた本をよく?見かけます。
でも今の私にはまだ適切な答えはできません。どなたかよろしくお願いしますです。

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4. いこまかんなび> 2/12 23:07
すみません。説明漏れでした。
法道仙人は天竺、つまりインドから中国・朝鮮経由で飛来してきたインドの仙人だったということです。はるばるインドからなんて信じにくいような信じたいような。

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5. 神奈備> 2/13 09:07
天津神が祀られるのはある程度大和や河内の王権が確立されてからでしょう。それ以前の神々を国津神として大方を出雲神話に繰り入れて、総大将の大国主には従わせ、遠祖の素盞嗚尊を天照大神の弟として天孫族の神話に取り込んだのでしょう。神代編の大きい目的だったとか。

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6. 恋川亭> 2/19 00:29
いこま先生の写真は、いつ見てもいいな〜。広がりあるし、細やかさがある。その場に訪れて見ているような気になります。対象だけでなく写す地点・方向・時間(光の加減)がグッドなんでしょうね。観点の深さが写真に現れる好例だと思います。これからも魅せてくださいネ。玄松子さんの写真は芸術のレベルに入っちゃったし、席亭の写真は・・・ゴホッ、ゴホッ、ハックション!いや、あくまでオーソドックスを守っていらっしゃる、ということで。m(__)m

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7. 恋川亭> 2/19 00:43
播磨・摂津のヒーロー、法道仙人! 近所に多数のインド・パキスタン系の人々が居住する中で育った僕には、天竺渡来の伝説にまったく違和感を持ちませんでした。地球は案外狭いし世界はとても広い、と思っています。しかし(流行りの)『なんでもかんでも渡来人』という歴史認識には懐疑的ですナ。いつの時代でも「渡来する一人一人にドラマがある」とも思いますので、十把一絡げ的言説には反対中。(笑) -

------------------------------------------------------------------------------- 8. いこまかんなび> 2/19 20:41
恋川亭さまへ
ありがとうございます。
>>>>>これからも魅せてくださいネ
ほかはダメでもせめて写真だけでも?、ますます調子にのってしまいそう、なんちゃって。
訪問先の神社などがどんなところにあるか、分かりやすいように風景写真つけています。写真というのは光りの状態によってはどのようにも変化します。○人の心もよう似たもんですかいね。

そうそう1、先生だけはやめてくださいね。
そうそう2、「東播の住吉神社をゆく」まだまだとちゅうなんですよ。忘れない内にまた紹介させていただきますね。

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9. 恋川亭> 2/19 22:24
「かんなび」の語の後なので、つい“先生”と(笑)。
神奈備掲示板で席亭さんを『神奈備先生』と書きはじめたのは僕ですが、それは荒俣宏氏の『風水先生』や諸星大二郎氏の『五行先生』のノリでした。尊称というよりも(失礼)、愛称の念が強いのです。玄松子さんの子は先生の意味『子、のたまわく』の子ですしね。僕の『香具』に師をつけると「香具師」、語っていることが一挙にいかがわしくなります。(爆)

題名:和泉国の襲の峯と国神社(跡) : 投稿日時: 2/10 投稿者:いこまかんなび

  

こんばんわ。ちょっと風邪で辛いものがあります。
今宵は、石津川の支流法道寺川の南の丘にある襲の峯と式内の國神社跡をまず紹介しますね。 この辺りは鉢ケ峯寺村、古代は和泉国大鳥郡上神(にわ)郷。『和名抄』には「大鳥郡上神 加無都美和」つまり「かむつみわ」と呼ばれた所で、どうも大和の三輪との関係が濃厚であるようです。
山の写真は、襲の峯(おそいのみね)と呼ばれる山で、小倉峯または上野峯とも呼ばれたといいます。
明治43年に櫻井神社へ合祀された式内の國神社(跡)が鎮座する所です。

『大阪府全誌』には「縁起に依れば、垂仁天皇八年、天照大神鳳凰と化して、この襲峯に降り給ひしかば、皇子登臨して其の化迹を禮拝し給ひしを以て神郷(みわのさと)といひ、景行天皇二十四年神託に依り、武内宿彌に命じて社殿を営ましめ給ひ、同五十五年神鳳千種森に移る、今の大鳥の社是れなりと。」

さらに「當社はかく天照大神を祭神とせしも、その社名を國神社といへるに就て聰想するは、大巳貴命即ち大国主命なり。大国主命は天羽車大鷲に乗りて妻妾を覓め、茅淳縣に行きて大陶祇の女活玉依姫を娶りて妻となし給ひしこと見え、その大陶祇の居りし所は本地に近き陶器荘即ち古の陶邑なれば、此の地は同大国主命の天降りの所なるを以て、大和の三輪と同名なる神郷の稱起り、大国主命を祀りて國神社の名を為せしも、後天照大神を配祀するに及びて大国主命の祭神たりしことを忘れ、単に大国主命に因める此の社名のみを残せしものにはあらざるか。
泉州志にも此の鉢峯は陶邑に近ければ、大巳貴神の天羽車大鷲に乗りて天降りし地にして、後垂仁天皇の御宇天照大神を合祭せしものかと記して之を疑へり。暫く記して後賢の研究を俟つ。」とあります。 何かすごく不思議な地域です。(明日元気あればさらに襲峯・法道寺を)

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1. 神奈備> 2/12 09:44
所で、菅葺神社と同じ神社なのでしょうね。大鳥社の元社と云うことですね。(和泉名所図会)

題名:はじめまして: 投稿日時: 2/9 投稿者:まだまだ

はじめまして 私みたいな 神社に知識がないものが書きこみしていいのか・・迷いましたが お礼かたがた 書きこみさせていただきます 大阪サイクリング協会2005年度の会員に対しての行事が 大阪の神社巡りであります 指定された神社を巡る時に この神奈備様のHPがとても参考になり、基礎知識をお教えいただき とても楽しく巡ることができました ここにお礼申し上げます 先日は茨木の阿為神社に行ってました その時の画像です 新しい社殿になっていました

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1. 神奈備> 2/10 08:31
ご投稿ありがとうございます。
お役に立てて幸甚です。
私は駅から神社、神社から神社へ歩くことを健康法にしています。

題名:櫻井神社-堺市片蔵: 投稿日時: 2/7 投稿者:いこまかんなび

  

こんばんわ。先日、堺市泉北丘陵(旧和泉国大鳥郡)周辺の陶荒田神社〜多治速比賣神社〜櫻井神社〜國神社跡などを回ってきました。
今日は、泉北丘陵の北端の谷を大阪湾ヘと流れ込む石津川の北の支流、妙見川沿いの片蔵に鎮座する式内社櫻井神社を紹介します。
この神社は、推古天皇5年にこの地、上神郷(にわごう)に神が現れたため郷民は喜んで神祠を建てて祀ったところ、龜乙という老翁が忽然と現れて、三柱の神像を刻み終った後、また忽然と消えたと伝わっています。神社にある龜塚はその跡に土を盛ったものといいます。
詳しい由来は、神奈備さまの式内社一覧の神社由緒書にゆずり、神社は、上神谷(にわだに)八幡宮とも称し、応神天皇・仲哀天皇・神功皇后を祀っています。
 合祀社
菅原神社-片蔵村字江栗東鎮座(菅原道真)
神明神社-逆瀬川村字宮谷鎮座(天照大神)
玉柱屋神社-同字奥脇鎮座(不詳)
稲荷神社-富蔵村字妙見原鎮座(保食神)
市杵島神社-畑村字引の上鎮座(市杵島姫神)
八坂神社-豊田村字八坂鎮座(須佐之男命)
菅原神社-田中村字岡田鎮座(菅原道真)
八幡神社-畑村字勘田鎮座(誉田別命)
山の井神社[式内]-栂村字奥井戸鎮座(不詳)
國神社[式内]-鉢ケ峯寺村鎮座(天照大神)
 神社に残る国神社の石燈籠には「鉢峯山長福寺五所権現、応永十九年三月十七日勧進良秀」の銘文があるほか、同社の神像三躯は鎌倉初期のもの。
 南方の石津川本流は法道寺川と明正川に別れ、法道寺川の上手の鉢ケ峯には、何んと!!法道仙人開創の法道寺(古くは長福寺といった)・國神社跡・「襲の峯」と呼ばれる不思議な峯があります。(次回紹介予定)
 なお10月の第1日曜日の例祭には、古来鉢ヶ峯寺の氏子が国神社に奉納して来た神事舞踊で「ひめこ」を背負った赤黒の鬼神、三尺棒を持った赤黒の天狗4人が登場する国の無形民俗文化財「こおどり」が催されるようです。ぜひ一度見たいものです。
なお、風景写真中央の杜が神社の所在地です。(東から)

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1. 神奈備> 2/7 22:31
 桜井神社、泉北ニュータウンですね。数年間泉ヶ丘の公団に住んでいましたが、ここも、陶荒田神社もその頃には参詣いたしておりません。ありがとうございます。

ここは和泉国ですが、いこまかんなびさんの労作「河内国の神社一覧」が発信されています。
http://www.geocities.jp/iko_kan2/kawachi-jinjya-top.html
合祀社が記載されている貴重な資料ですね。

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2. いこまかんなび> 2/7 23:00
私も若い頃、泉州信太の森?にいっとき住んでおりました。そこから瓢箪山稲荷神社の山手までかよっていました。そんなころまだ泉北ニュータウンの造成が始まったばかりで、あちこちで須恵器の窯跡が発掘されはじめたころ。
今回の目的は、河内長野の住吉神社の場所は、西は和泉國がすぐの所、神社の由来などから神功皇后がらみのヒントがないかと思いまして。地図では両地は近くなのに、中々移動のルートがない所です。 気を良くして、和泉國版も挑戦してみたいです。いつになるやら。

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3. タイシ> 2/8 21:59
いこまかんなびさん、合祀社の貴重な紹介ありがとうございます。
次の投稿楽しみにしています。
神奈備さん、泉ヶ丘懐かしいです。仕事が泉北担当でしたので、泉ヶ丘もあっちこっち行きました。泉北考古資料館はあまり知られていませんね。
光明池の鴨谷は、いつも前を通るたびに何故鴨?と思っていました。 今も謎ですが・・・
でも、不思議です。仕事が泉北でしたので、公休日にわざわざ泉北に行くのも何だしと思いあまり行きませんでした。
担当が、泉北から外れたので、今では自然と公休日に泉北に行くようになりました。

題名:秋葉山本宮秋葉神社: 投稿日時: 2/2 投稿者:PONTA

秋葉山本宮秋葉神社へ行って来ました。
↓レポート
http://www2.wbs.ne.jp/~ponta/yama/aki.htm
調べれば調べるほど謎の多い神社です。


題名:コメント投稿 名前:神奈備  日時:2/2

拝見いたしました。力作です。

PONTAさん、お久しぶり。 山姥は老婆の印象ですが、お産をするところを見ると、若いようです。 機織りの女であってもいいんですね。

題名:野沢温泉道祖神祭(2006): 投稿日時: 1/29 投稿者:言蛇

  

神奈備さま、こんばんわ。
今年の道祖神祭は快晴に恵まれて賑やかにおこなわれました。
今回は火が運ばれる裏道の方を重点的に撮影したので掲載させていただきます。

(1)火祭の火元になる宿の様子です。厄年の男衆達がお酒を酌み交わしていて、火を運ぶ前に出来上がっています(^^;)

(2)今年一番のベストショット、日本人女性を肩車している外国人さんです。反応を観察していたのですが、もっぱらお酒を飲みながら祭り終盤の喧嘩シーンに反応をしていました。まだ賑やかなところしか伝わっていないようですが・・・おかげで来年の仕込みにひらめきを得られました。

(3)祭翌朝の残り火のシーンです。恰幅のいい小学校の先生に子供がなついていて、わたしもおもわずにっこりです(^^)。外国人の取材記者が見かけられなかったのが心残りで、ここまで立ち会わせられれば「祭りの意味」を伝える手は尽くしたと思います。水平線の先まで畑が拡がる国と箱庭農村の国の違い、受け取ってもらえるでしょうか(祈り)

題名:河内長野市の高向神社 (旧河内国錦部郡): 投稿日時: 1/26 投稿者:いこまかんなび

 

神奈備さま 先日はご案内の所、失礼しました。
今日も、続いて河内長野市の神社を紹介させていただきます。

高向神社(河内長野市高向)

前に紹介いたしました小山田、住吉神社の東南側、高向玄理をはじめとする高向氏のゆかりの地といわれる石川沿いの谷あい、高向(たこう)という所に神社が鎮座(なぜか東面)します。
祭神-素盞鳴命・蛭子神・天児屋根命・保食神・白山姫命・菅原道真
本殿-慶長13年(1608)建立[棟札による]、三間社切妻造 末社-厳島神社

創建の年月は不詳、古くから周辺七郷の神社で、社格は高く、村に氏子座と呼ばれる組織があり、祭礼の日には、新旧の順に座席が決められていましたが、300年ほど前に町井伴吾という代官の養子が、席次が低いことを不満として、座や神社の社記・村の記録のすべてを焼き捨てたため、詳しい由緒などは残されていないということです。
合祀社- 日野村字坊垣外の春日神社  
    日野村字溝の側の春日神社
例祭---10月10日(古くは11月11日) なお、神社の北に小さな古墳があり、塚の上に五輪塔と十三重石塔があって、地元では高向王の墓であったと伝えているようです。(以上『大阪府全誌』参照)
但し、現地にある河内長野市教委の説明板では、日野の春日神社と八坂神社(大巳貴命)を合祀、としています。
風景写真は、境内から南方、石川上流方向の滝畑〜和泉山地方面です。社が南向いたらいいのになぜか東を?。


題名:コメント投稿 名前:神奈備  日時:1/27

ありがとうございます。
 この神社の前をバスに乗ったまま通り過ぎたような記憶があります。
 渡来系のことについて、金達寿さんの朝鮮文化の本などを読んでいますと、妙に説得力がある反面こんちくしょうと言う気持ちもあり、いささか複雑な気分です。多分平均的日本人の想いかも知れません。
 御歳神社の由緒の牛の肉などもそう言う感じがしますね。素直に受け取らねばいけないことだと理性では思います。


題名:コメント投稿 名前:いこまかんなび  日時:1/27

神奈備さま、ありがとうございます。河内長野や堺など泉州を車で走ると方角が分からないようになります。それで方違いの神がいるのかな?。
私なんか、1500年前の先祖は知りませんが、端からトライ?、ではなくって、渡来人のつもりで・・あまり気になりません。
牛肉の輸入は一体どうなりますのんやろか。大阪弁?。

ちょっと大阪弁ま違いました?。
どおーなりまんねんやろか?。どおーなるんやろか?・・でしょうか?。

ところで、生駒山〜葛城山西ろくにかけた数千基の群集墳(古墳時代後期6〜7世紀初め-横穴式石室など)は、すべて渡来人の墓と言われる程です。
私もそう思ってます。葛城山の大和側、葛城〜御所の群集墳もしかり。


題名:コメント投稿 名前: ローズマリー  日時:1/28

河内弁で、「どないなるんやろ」で「どうでっしゃろ」?!

理性だけでは面白さが半減かも?
感性の発想に結構真実があったりして。
それを理性で組み上げるのが、謎解きの面白さでしょうか。

日本は古代から様々な異文化や渡来人を受け入れて形成されてきました。
その時々に既存の文化が排斥される事無く、融合しながら独自の文化ができてきたのが凄いところですよね。
そうして根底に今も縄文の記憶もしっかり留めているこの奇跡。
根本が揺るがないからこそ、おおらかに受け入れられるのかもしれませんね。

題名:河内長野市の加賀田神社(旧河内国錦部郡) : 投稿日時: 1/20 投稿者:いこまかんなび

  

毎日厳しい寒さですね。
先日紹介しました河内長野市の住吉神社と川上神社参拝の際に合わせて参拝してきました加賀田神社(加賀田所在)をご紹介しますね。

この神社は、小山田住吉神社のある丘陵((旧河内国錦部郡山田郷)の東南側、滝畑〜高向(たこう)方面から流れ下る石川本流に、岩湧山(寺)方面から流れ下る支流の加賀田川が合流する付近の丘陵突端に鎮座しています。(河内長野の街あたりは百済郷、西方は山田郷、神社は東南部の餘部郷にあたっていたようです)、社殿は、ちょうど東を向き、正面には素晴らしい金剛山頂が眺められます。

加賀田神社は、配付の神社由来書によれば、いつの時代か不明ながら11月卯日に宇佐八幡を勧請したこと(大阪府全志)「当山社地縁起由来書記録並座衆由緒調書之事」(1859年)には「それ当氏神鎮守八幡宮は、往古宇佐八幡宮を勧請奉り」「文明11年(1480)社殿を再建せり」とあるので、少なくとも520年以上の歴史があって当時は境内に泉福寺という宮寺があったと言われています。

本殿には、誉田別命・足仲彦命・息長足姫命・素盞鳴命・高おかみ神を、右側の小宮には恵比寿神と大歳神(穀物の神)、左側の小宮には天神(菅原道真)が祀られています。
明治41年に唐久谷村の和佐神社(素盞鳴命・高おかみ神)が合祀され、更に石仏村の上山八幡宮社(誉田別命)と天神さん(菅原道真)が合祀されています。なお、元禄16年(1703)氏子で堺に住んでいた谷善右衛門が私財を投じて社殿を改修したのが現存の本殿。綺麗な彩色が残ります。

また、勧請当時から氏子の中に「座衆」と云う組織があって、社寺の祭典を取りしきり、代々血脈を重んじて男子相続と決められ、男子がない家は「座株」を失う習わしになっているようです。


題名:コメント投稿 名前:タイシ  日時:1/20

いこまかんなびさん、加賀田神社の紹介ありがとうございます。
先日、古来「錦部郡」と呼ばれた地域に鎮座する「錦織神社」に参拝して来ました。
前回参拝したときは、改修工事中でしたが今は、綺麗に生まれ変わっていました。
河内長野の住吉神社を調べていて、住吉神社は明治40年12月大字下里の村社青ヶ原神社を合祀したとなっていました。
長柄神社・広瀬神社・錦織神社も昔は、流鏑馬をしていたようですね。


題名:コメント投稿 名前:神奈備  日時:1/20

ありがとうございます。
興味深い神社にうまく行き当たっておられますね。

この神社壇背後の山脚には恰も婦人が側面向きに坐して型袖を半ば前にあげるような一尺の石があるそうですね。 山の神とか。

流鏑馬
渡来系の氏族の祀った神社に多いとか。
騎馬民族の名残でしょうか。


題名:コメント投稿 名前:いこまかんなび  日時:1/20

タイシさま、神奈備さま、有難うございます。
うまく行き当たってと、いいますか、いろいろ「生きずまって」きております。
馬と言えば住吉大神は、龍ではなくて馬に乗って「吾が山を巡検む」といって油笠を着けて兄山〜葛城嶺〜膽駒山を馳せ巡ったらしいですね。神が巡る道があったとか。(住吉大社神代記から)

タイシさまへ
>住吉神社は明治40年12月大字下里の村社青ヶ原神社を合祀した

ありがとうございます。本で調べましたら下里村字青ケ原の 青ヶ原神社 祭神は国津神・高おかみ神・保食神で、 天野山(村)字高瀬にあった高瀬神社、祭神=高おかみ神、も合祀された記録がありました。 後の複社も多いので、現在は未確認です。

題名: 野沢温泉道祖神祭り: 投稿日時: 1/12 投稿者:言蛇

  

野沢温泉道祖神祭りの季節がきたので再投稿させていただきます。
雪の降る中の「火〜持ってこい♪ 火〜持ってこい♪」のかけ声がいまだに耳にのこっています。近年は灯籠の製作に人手が足りないので女性の参加を認めることもを検討中だそうで、地方も時代の流れには敏感なようです。

(http://www14.oekakibbs.com/bbs/kotohebi/oekakibbs.cgi)


題名:コメント投稿 名前:恋川亭  日時:1/21

ごぶさたです。なんとか、復帰開始します。
 一説に「縄文琴?」と呼ばれる、ヘラ形の木製品があります。その飾り彫刻部分を見たときに、『あっ!道祖神さまだ』と感じたことがあります。
ネットで鮮明な画像を探せなかったのですが、とりあえずご参考まで。↓

〔八戸市縄文学習館・歴史民俗資料館・是川考古館〕
「縄文時代晩期の是川中居遺跡の出土品」
『箆状(へらじょう)木製品』
http://www.city.hachinohe.aomori.jp/shiryo/guidebook/p5-6jyomongakusyukan/herajyoumokuseihinn.html

題名:野沢温泉道祖神祭り2: 投稿日時: 1/12 投稿者:言蛇

 

着火した仮社殿と夜空に登る火です。
祭の翌朝は残り火で子供達が田楽をおいしそうに食べている様子がみられます(^^)

どんと焼きは長野のあちらこちらで見かけますが、野沢温泉の道祖神祭りはやはり群を抜いて洗練されていますので、一度は見に行くことをおすすめします。

(http://allabout.co.jp/travel/travelshinshu/closeup/CU20020115A/)

題名:穂高神社: 投稿日時: 1/12 投稿者:言蛇

 

こんばんわ、あけましておめでとうございます。
本年もますますの発展を祈ります。

容量の都合で過去の投稿がながれてしまうようなので、あらためて私の崇敬する穂高神社を投稿させていただきます。

祭神は穂高見神/綿津見神/瓊瓊杵神/天照大御神/安曇連比羅夫命/信濃中将

穂高見命は海神族の祖神であり、その後裔であります安曇族は、もと北九州に栄え主として海運を司り、早くから大陸方面とも交渉をもち、文化の高い氏族であったようです。醍醐天皇の延長五年(西暦九二七年)に選定された延喜式の神名帳には名神大社に列せられて古くから信濃における大社として朝廷の尊崇篤く殖産興業の神と崇め、信濃の国の開発に大功を樹てたと伝えられています。

(http://www.hotakajinja.com/)

題名:信濃大町の若一王子神社: 投稿日時: 1/12 投稿者:言蛇

  

川會神社の「高瀬川と木崎湖より出たる農具川との落合」に該当する古社ではないかということで若一王子神社にでかけてきました。この周辺は縄文/弥生にわたる遺跡が結構あります。姫川河口から徒歩で一日の距離ということで早くに開墾されたのでしょう。

祭神は伊装冊尊・仁品王・若一王子・妹耶姫
別宮に八坂神社・子安神社・大町護国神社が祭祀されています。

 この神社は垂仁天皇の御代に仁品王がこの地の守りとなり自らこの地に社を建て伊装冊尊を奉祀なされました。後にこの地方の人等はこの地の創始の神として仁品王、妹耶姫夫婦ニ柱を合祀し嘉禅二年(849)に創建されたと伝えられます。
 以来当地方を治めた仁科氏によって累代社殿の修造をなし、仁科盛遠宿祢(室町時代)が現在の大町の地に京の都に習い理想的な町づくりをなし新しく仁科の庄を開いた大町守護のため、熊野那智大社より熊野第五殿に祀る若一王子を勧請してより若一王子の宮と称されるようになりました。松本城主より自紋を附せられる等常に城主の崇敬篤く、現社殿は承応三年(1654)に水野出羽守により仁科の里六十六郷をして大改修をなされたものです。
 昭和八年県社に昇格、昭和五十一年別表神社(旧官国幣社格)に加列され、安曇野の古社にして、御神徳の光被広大無辺にして遠近の崇敬の的となっています。

若一王子神社社叢は長野県天然記念物に指定されています。そのほとんどがスギ/ヒノキ/ツガ/イチイなどの常緑針葉樹から構成されていますがサクラ/カエデ/ケヤキなどの落葉広葉樹も含まれており、落葉広葉樹は光を求めて林の外側にはみだしていて生態学的に注目されます。

題名:川上神社と積石塚(河内長野市鳩原): 投稿日時: 1/7 投稿者: いこまかんなび

 

河内長野の街の東南方山中、石川の支流の石見川の谷に沿って五条市へ通じる国道310号を行くと、観心寺のさらに奥にある鳩原地区に「川上神社」があります。
神社の本殿背後には、人頭大程度の自然石を円形に積みあげた5mほどの不思議な石塚(周りに方形の石玉垣)があり、南北朝時代の長慶天皇の墓だとの伝承があるようで「河内長野市-わがまち歴史散歩」に詳しく紹介されています。
http://www.city.kawachinagano.osaka.jp/kakuka/kyousha/history-hp/bunkazai/sanpo/rekishi/tyuse/tyuse21.html

川上神社は、もと鳩原神社(素盞鳴命)といわれ、河合神社(河合-天照皇大神・天児屋根命・高○*神)・天神社(鬼住-事代主命・菅原道真)・八坂神社(寺元-素盞鳴命)・寺元神社(寺元-大国主命)・小深神社(小深-素盞鳴命)・御嶽神社(石見川-瓊々杵命・木花咲耶姫命)・八幡神社(太井-応神天皇)が合祀されて改名されたものです。10月の秋祭りには稚児相撲が行なわれます。(○*=おかみの漢字表記不可)
石塚は、本殿の背後、東西に続く細い尾根筋上にあります。

なお、境内入口左手には槙尾山彌勒寺という小堂・茶川地蔵・延命地蔵が祀られ、寺は観心寺の奥の院であったと言われています。


題名:コメント投稿 名前:神奈備 日時:1/08

いこまかんなびさん 珍しい神社のご紹介、ありがとうございます。
『平成祭礼データ』の由緒から

所在地鳩原は、往古河内国錦部に属し、続日本紀文武天皇三年三月の条に「甲子、河内国献白鳩詔免錦部郡一年租役」と見え、白鳩献上した所より起こったと云う。当神社は、元鳩原神社と称し、素盞鳴命を祀る。創建の年月は不詳であるが、平安中期に観心寺第一世(弘法大師の孫弟子)真紹律師が弥勒寺を鳩原に建て隠棲し、その鎮守社として牛頭天王を勧請したのが創始らしく、現在社頭拝殿より上位の石灯は室町時代以前の形式があり、境内土蔵は弥勒寺の大般若経蔵である。 昔より鳩原、石見川、小深、太井、鬼住、寺元、河合寺の七ケ村であったが、観心寺の鎮守として同寺境内に移転、江戸時代初期に鳩原に復座したが氏子は各村に離れ鳩原のみの産土神となった。
明治五年村社に列し、同四十年十月、七ケ村の各神社を再び合祀し奉り、翌明治四十一年現今の社名に改められる。
以上


題名:あけましておめでとうございます: 投稿日時: 1/7 投稿者: 玄松子

岡山県倉敷市の田土浦坐神社から見た、元旦の朝日と瀬戸大橋です。
本年もよろしくお願いします。


題名:コメント投稿 名前:神奈備 日時:1/07

玄松子さん、お帰りなさい。今年もよろしくお願いいたします。

 児島ですね。入社したての頃、ここにあった工場で実習をした記憶がよみがえりました。鷲羽山を東に見ていましたから、この神社の近くだったのでしょう。NON神時代のことでしたので、覚えていませんが...。


題名:河内長野市小山田の住吉神社: 投稿日時: 1/7 投稿者: いこまかんなび

  

神奈備さま 明けましておめでとうございます。新年早々、長い釘がいりそうですね。
ところで、以前から生駒山〜葛城山周辺の住吉神(社)を廻っていますが、先日まで河内長野市の住吉神社を知りませんでした。知った時は、大変驚きました。
正月とはいえ清酒で体を浄めてばかりでは鈍りますので、昨日、周辺の高向神社・加賀田神社・観心寺の奥の鳩原の川上神社などを初詣でで参拝してきました。
小山田の住吉神社は、小山田の北東〜南西に続く丘陵上にあり、本殿は西面しています。 神社の西は、これは素晴らしい長い谷が南北に続き、更に西側和泉国との境の天野川の谷水とあわせ狭山池へと続く水系の様です。
神社の位置としては、堺の方違神社の所から〜陶器山〜斜直線に続く和泉・河内両国国境が大きく逆くの字形に屈曲する個所の延長線上の丘陵上になります。
住吉神社の由緒といい、東に金剛山を望む鎮座地といい古代史上の大きな謎が隠されているように思いました。
なお、『大阪府全誌』錦部郡には「住吉神社」の名が無く「清崎神社」(旧天野村大字小山田字尾上山)とある神社にあたると思います。馬駈神事が有名です。
当社でいただいた由緒書より紹介いたします。
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住吉神社--河内長野市小山田町453番地  

一、祭神 表筒男命、中筒男命、底筒男命(住吉三神)
     息長足姫命、武内宿禰
一、由緒
当神社は小山田の東南尾上山の丘陵に鎮座し、神功皇后三韓征伐の時、深く三神に祈 願ありて、凱旋の後天下を巡行せられし時、和泉の国逆瀬川の上に騰陀*(足偏)船と云う処に御着き遊ばされ、それより河内の国に行幸せられし時弓を射てこの矢の落ちたる処を着御の地と御定めになり、其の時その国境いに名主與三五郎と云う者、御迎へに出で御先導申し上げ、當神社の南方高天原に御着き遊ばされ給へり。
それより摂政五十二年此の地に斎宮を建立せられ給う三月壬朔、皇后吉日を選びて斎宮に入り自ら神主となりて御祭祀され給う、最も多くの歴史をもつ尊い宮なり
文化十酉歳(1813)十二月吉祥日に本殿建替す。
一、祭事
例祭 10月(体育の日)
当日午後3時、祭典執行後、引き続き馬かけ神事斎行す
10月13日、午後2時より当社境内に於て伊勢神楽奉納
一、馬駈神事
皇后御征韓祝賀のため十月中之卯の日(十月十二日)裸馬の競馬を催されし由来をもって馬かけ神事斎行するなり
一、馬駈の定め
馬駈神事斎行も其の場所へ忌中に服したる一家一族又は親類の者は、一切神事の場に立ち寄らざるは実例にして、万一不心得若しその場所に立寄りたる時は其の忌服の人だけ怪我するか又は奉献の馬に負傷する事あり、その他の人には無事なるを見ても物忌すること明らかなり。
一、沿 革    
爾来、住吉大明神と称し来たりしも明治の初め今の名称に改められた 明治五年五月郷社に列す
明治四十年一月二十八日大阪府告第十六号を以って同三十九年四月勅令第九十六号により神饌幣白料供進社に指定さる。   
一、天然記念物指定(昭和九年一月十五日附大阪府)
高天原神社
本殿
木鉾
木馬
一、祈願事項
二月節分    厄除星祭祈願
十一月十五日  七五三詣り
その他     諸祈願
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南側参道沿いに高天原神社・諏訪神社の小祠が祀られていました。
谷の写真は北から撮影。向かって左の森が神社の鎮座地です。


題名:コメント投稿 名前:神奈備 日時:1/05

いこまかんなびさん、今年もよろしくお願いいたします。
 某所での正月らしからぬ騒ぎではご迷惑をおかけいたしました。

 この住吉神社は「吉野にようこそ」のマルヤさんの氏神さんになっていると聞きました。
 この付近には神功皇后の征韓に関する古伝が多いと、『大阪府史蹟名勝天然記念物』に出ています。
1.清崎神社の競馬:凱旋時の裸馬の競争を故事とする。
2.鉾鋒 河泉国境になり、皇后凱旋時に鋒を勢揃いをなしたところと言う。
3.旗の坂 同じ傍らにあり、凱旋時に旗を立て、休息された所。
4.壷ひき坂 軍用の壷をひき登った坂。
5.高天原 清崎神社内にある一小丘で、皇后凱旋時の着御の御所。(摂社あり。)
6.小山田人足 御輿渡御に際して「小山田人足揃ったか」と口々に唱える慣習は、16名を送ることがあり、これは征韓以来の由緒あること。
7.弓を射ること 一月中の卯の日に弓を射るのも、凱旋の故事によると言う。


題名:コメント投稿 名前:やさか 日時:1/05

神奈備さん、みなさん、あけましておめでとうございます。
今年もよろしくお願いします。
(旧HN)マルヤです。氏神さまの小山田・住吉神社の話なので出張って来ました。
日本書紀、巻第九神功皇后(仲哀)九年春二月に、「仲哀天皇が筑紫香椎宮で亡くなられた。…中略…さらに斎宮を小山田邑に造らせられた」の記事があります。この記事に符合するように、住吉神社のあるこの高台南端に、仲哀天皇陵と伝わる古墳があり、私は河内長野の小山田町注目しています。
さらに、書記 巻第九 神功皇后摂政二年には、
「二年冬十一月八日、天皇(仲哀天皇)を河内国長野陵に葬った」とあります。宇治谷孟の現代語訳では、(大阪府南河内郡美陵町大字岡9と脚注が入ってますが、小山田住吉神社の宮司さんによれば、それは小山田の高台のことだと言われます。江戸時代の国学者松下見林もこの見解のようです。
●参照: http://www5.ocn.ne.jp/~miyosino/bangai_001.htm

和歌山生まれの小説家、あかまつよしこ氏の著作に、 『住吉大神』文芸社刊があります。 <
br>そのあとがきには
「…内容的に失礼な記述があれば申し訳ないことと、ひたすら、河内長野小山田町の住吉神社にお詫びの参拝を続けた日々でもありました。…また、高き薫陶を受けました住吉神社名誉宮司、西野祥圓様。…様、…その他多くの方々に深く感謝とお礼を申し上げます」と書き記されています。


題名:コメント投稿 名前:神奈備 日時:1/05

やさかさん ありがとうございます。
確かにただならぬ場所かも知れませんね。
特に「河内国長野陵」の比定地については要検討ですね。

あかまつよしこさん、前に掲示板で紹介頂いた方ですね。まだ読んでいないので早速読んでみます。


題名:コメント投稿 名前:いこまかんなび 日時:1/05

いろいろ有難うございます。谷奥の滝畑では、住吉明神と泉大津の穴師明神が滝畑の湖水を河内に流そうか和泉に切って落とそうか論争したそうで、そのとき穴師明神は牛に乗って来たが、住吉明神は馬で駆けつけ早く滝畑へ到着したため水は河内へと流された。このおかげで広々とした田畑になり村の人々はこれを感謝して、現在の滝畑ダムの東岸に住吉明神をまつりこれを龍口明神と名づけたという伝説もあるようです。


題名:コメント投稿 名前:やさか 日時:1/05

神奈備さん、こんばんは。
あかまつよしこさん、そうです。前にご紹介した方です。
著作の「住吉大神」は、“ホツマツタヱ”が底本のようです。
手元にありますので、次のお会いできる機会に持参します。

私も「河内国長野陵」比定地については要検討だと思います。同感です。

いこまかんなびさん、はじめまして。
「…龍口明神と名づけたという…」そのような伝説があったのですか。
ちなみに、小山田・住吉神社の西側ふもとを「西除川(上流)」が北流し、 狭山池へ流入。また東側は「石川」が北流して大和川に注いでいます。
この西除川の水が近年、汚濁が進み河内長野市から富田林市、大阪狭山市に入る辺りから下流は、魚類が生息できなくなっています。
でも住吉さんのご加護か、神社西側の西除川の水は美しく、川魚(オイカワ)がたくさん泳いでいます。


題名:コメント投稿 名前:いこまかんなび 日時:1/05

古代の住吉大社と周辺聖域へ何処の水源から如何に聖水(潔浄水)を導いていたものか非常に興味を持っています。
小山田の西方の河内長野市と堺市・和泉市との市境であり分水嶺となる天野の丘陵(神代記の横山か?)から西北は和泉国北部へ連なる水系、一方東の河内国側は天野・滝畑方面から狭山池〜西除川(流域の灌漑用も)を通じて住吉へと連なる導水ルートがあったカモ知れないなと想像をめぐらせています。小山田の神社は重要な位置に祀られていることは確かでしょう。

「河内国長野陵」ほかに関するHP

河内長野市「わがまち歴史散歩」-「仲哀天皇陵は上原にあった?」
http://www.city.kawachinagano.osaka.jp/kakuka/kyousha/history-hp/bunkazai/sanpo/rekishi/kofun/kofun6.htm

同「小山田地区には奈良時代に仏教文化が」
http://www.city.kawachinagano.osaka.jp/kakuka/kyousha/history-hp/bunkazai/sanpo/rekishi/kodai/kodai5.htm


題名:コメント投稿 名前:神奈備 日時:2/1

触発されて参詣しました。
ついでに西代神社に寄り、そこに西山神社が合祀されていたようで、この神社は仲哀天皇陵と深い関係があるとか。その具体的なことは不明ですが・・。


題名:コメント投稿 名前:やさか 日時:2/1

西代神社は何度か参拝しているのですが、
旧?西山神社については全く知りませんでした。
興味が湧いてきましたので、改めて近辺を訪ねて見たいと思います。


題名:コメント投稿 名前:いこまかんなび 日時:2/1

神奈備さま、触発のご参詣どうもお疲れさまでした。
やさかさま、近辺で何か新しい発見がありましたらまたご紹介下さいませ。

西山神社について少し資料が載っていましたのでご紹介いたします。
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西代神社に合祀の「西山神社」について。
旧鎮座地=上原村字西山
祭神=素盞鳴命・足仲彦命・気長足比売命・武内宿彌
神社の勧請の年月は不祥、旧鎮座地の里傅によれば、仲哀天皇御陵と関連せるものの如く・・・・

西山村の「荒塚(傅仲哀天皇御陵・高向王墓)」について
村の西北、西山の林の中に荒塚があり封土高さ五丈四尺、周囲百十間、面積八百四十坪、上に十三重石塔あり、里民伝えて仲哀天皇の御陵なりと。
『王廟陵記』?にも同天皇の御陵と記しており、他の記録にも同御陵と載せたものが多い。しかし同天皇の御陵は、藤井寺村岡にあるから、荒塚は仲哀天皇御陵ではない。『河内志』『河内名所図絵』ともに皇極天皇前婿の高向王の墓としている。上原の地は往時高向庄の内にあったので高向王の墓とすべきであろう。
参考『大阪府全誌』から。


題名:コメント投稿 名前:タイシ 日時:2/1

西代神社横の学校のグランドの角に鳥居があったような記憶がします。


題名:コメント投稿 名前:神奈備 日時:2/2

いこまかんなびさん、やさかさん、タイシさん、どうも。
> 上原村字西山
西代神社の南西1km、住吉神社の南700mに上原町の交差点があります。高向神社の北東700mの地でもあります。上原町の交差点の北すぐに上原西町があり、この辺りでしょうか。

「神奈備にようこそ」