伏見稲荷大社
京都市伏見区深草藪之内町 its-mo

楼門

祭神 宇迦之御魂大神 配祀 佐田彦大神、大宮能賣大神、田中大神、四大神

 主な摂社 田中神社「田中大神」、大八嶋社「四大神」、白狐社「命婦専女神」猛男社「須佐之男命」、下社神蹟、中社神蹟、上社神蹟

朱の鳥居の回廊、異次元の神々の世界へいざなう。

由緒

  元明天皇和銅年間の創祀と言う。

 山城国風土記に「伊奈利と称ふは、秦中家忌寸等が遠つ祖、伊侶具の秦公、稲梁を積みて富み裕ひき。 乃ち、餅を用ちて的と為ししかば、白き鳥と化成りて飛び翔りて山の峯の居り、伊禰奈利生ひき。遂に社の名と為しき。 其の苗裔に至り、先の過を悔いて、社の木を抜じて、家に殖ゑて祷み祭りりき。今其の木を殖ゑて蘇きば福を得、其の木を殖ゑて枯れば福あらず。」とある。
 この伝承は、秦氏が稲荷の祭祀権の根拠となると共に、白鳥と鉄生産の結びつきから、「稲荷と鉄」の深い関係を示すものと思われる。

 稲荷山は神奈備山で、「お塚」と呼ばれる磐境が目立つ。磐境は参拝者が「ここに神が降臨する」として祀れば、そこが霊所となる。

 菅公の怨霊が雷となって都を襲った際、この社に雷神の鎮魂を祈ったと言う。同時に祈雨の祈りを受けている事からは雷神でもあった。

 稲荷のキツネは神使である。オオカミの変じたものとされる。 

 秦氏の斎祀った神で、欽明天皇の即位でのキイマンだった秦大津父の話がある。天皇の夢に秦大津父を寵愛すれば天下を有すとの霊夢を見たのである。 古代王権の中枢を握った秦氏である。

 弘法大師空海が816年、稲荷山三箇峯から現在地へ勧請したとの伝えがある。現在地は藤森神社が鎮座していた。紀州の老人、稲を背負い、杉の葉を提て、両女を率い、二子を具して東寺の南門に望みたまう。
 とある。稲荷と紀の国とのかかわりは、 有田市糸我町中番の稲荷神社が、 第27代安閑天皇(西暦531−535)の2年乙卯の春に稲荷神が降臨しており、 最古の稲荷と言われている事、高野山を開いた天才空海は元々の日本古来の神々への信仰を持ち合わせていると同時に、巧みに利用したように思える。「茶吉尼天」は空海が持ち込んだのであろうか。

 山城国紀伊郡の式内大社である。紀伊郡の名の通り、紀氏(朝臣)の拠点であったが、藤原氏の台頭などで、力を失っていき、配下であったろう秦氏がこの地の支配者となった。

 さて『式内社調査報告』で、柴田實氏は、四大神について、五十猛命、大屋姫、抓津姫、事八十神の四柱の神としている。 これは式内社御諸神社のことのようである。山城国紀伊郡は紀朝臣の拠点であり、紀氏の斎祀る神を祀る神社が見当たらないのはおかしいと思っていた所、 やはり伏見稲荷の一角に鎮座していたようである。また松尾大社にも四大神が祀られているようで、秦氏と紀氏との血の親近性を語るものだろう。

 熊野詣での道中守護と帰還後の奉幣の儀が行われていた。

 東山連峰の南端の稲荷山の麓に鎮座、社域は稲荷山と神社周辺の深草の里をあわせて二十六万坪と広大である。

 四月二十日に近い日曜日 神幸祭

 十月十四・十五日 (秋祭)

本殿と拝殿を南側から、本殿最南殿は四大神を祀る


猛尾社 素盞嗚尊を祀るとの説明であるが、社名からは五十猛命かと思われる。

 画面左から長者社、荷田社、猛尾社など


御剱社  力鍛冶、刃物業者の信仰が篤い。

稲荷山中の傑出した磐座


上社

上社「大宮能売大神」、中社「佐田彦大神」、下社「宇迦之御魂大神」ともに磐を祀る


公式伏見稲荷大社
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