鎌達稲荷神社
京都市南区唐橋西寺町57-1 nifty map

鳥居

祭神 倉稻魂命、猿田彦命

由緒

 社頭掲示から
 奈良朝初期和銅四年(711)元明天皇の御時の御鎮座とされるが、一説には安政四年(1857)に奉納された御神鏡の記録によれば、飛鳥時代の仏教伝来(538)の頃の御鎮座ともされ、伏見稲荷大社より古く元稲荷とも伝えられています。
 平安朝以後よりは元天文家で陰陽師の安倍晴明が子孫の安倍土御門家の祭祀にして平安城及び人民に利益を施し天下泰平五穀豊穣を祈願した由伝えます。

 本殿は西向き。その南側に 宇賀神 黒住大明神 阪杦大明神 などの石碑が並んでいる。また北側には摂社の白菊稲荷神社が鎮座。

お社

お社

 西寺跡の公園の北側に西向きに鎮座している。
 『史跡 西寺跡(さいじ)』
 西寺は、平安京が遷都されてからのすぐ延暦一五年(796)頃から、平安京の入口にあたる羅生門の西側に東寺(教王護国寺)と対照に造営された官寺である。金堂・講堂(屋根に緑釉瓦が葺かれていた)を中心として南大門、中門、五重塔、僧房、食堂など主要な建物が建ち並び、国家の寺として隆盛を誇っていた。しかし西寺は東寺に比べて早くから衰え、天福元年(1233)には塔も焼失し、以降は再興されることなく地中に埋もれてしまった。近年、数多くの発掘調査が実施されて、主要な建物跡が次々と確認され、一辺が22mもある市内でも最大の井戸跡が検出されている。
 寺域は、東西二町(約250m)南北四町(510m)を有し、主要伽藍跡は現在唐橋小学校と西寺児童公園(講堂跡が公園中央に土塁として残る)の下にあり、伽藍中心は国の史跡に指定されている。
 西寺は、平安時代の寺院を研究する上でたいへん貴重な遺構である。

史跡 西寺跡

 祭礼 5月 3日もしくは5日  例大祭 [通称]唐橋子供祭

 『平成祭りCD』 鎌達稲荷神社(けんたついなりじんじゃ)由緒

 当神社は、和同年中(元明天皇の御時・西暦700年初期)即ち今を去ること1270余年の古き昔よりの御鎮座にして、御祭神2柱は倉稲魂神及び猿田彦神を主神として祭祀ゐたします。 倉稲魂神は、又の御名豊受大神(伊勢外宮に座す神)とも申し、五穀成就の祖神・衣食住の神にして商工業繁栄の守護神であり、萬生業に福利を授け給ふ所謂開運の神であります。 猿田彦神は、家内安泰・夫婦和合・交通導き・寿命長久と、汎く人事を良きに導き給ふ神であります。 2柱を稲荷大神として斎き奉ります。
 当社は元、天文家で陰陽師・阿倍土御門家の祭祀にして代々禁中の祈願を篭めし由伝へ、又平安城及び畿内七道人民に利益を施し天下泰平・五穀成就の祈願所たり由伝へます(古鏡記録)。 御社殿は、近世江戸時代初期元和6年(西暦1620年)に再築、嘉永3年(西暦1850年)に改築、安政4年11月(西暦1857年)に新社造立との記録あります。 御信仰由来に、鎌達さまは荒神さまと畏れられ、奇蹟の神さまと敬はれ、又勝負運を招く神さまの渇仰があります。
 尚、7才迄の子供の成育を守り給ふ由伝へます。(国学者井上先生考)元、境内に杉の大木があり天狗さまが宿ってをられて子供を守った由、天狗さまとは、御祭神・猿田彦神を畏敬したものと考へられます。
 当地葛野一帯は、飛鳥時代の昔、秦一族の勢力下にあり、農耕事業はもとより所有産業開発・土木事業が盛んに行なはれたが、これに要する道具類及び製造する鍛冶の業には、殊の外傾注念願したと考へます。鍛冶の業に支障なきよう、そして高い品質の道具ができるやう願ひ、此れが祈願所に鎌達の神を奉斎して祭祀されたのが、奉鎮の初めと考察致します。
 鎌達(けんたつ)の名称の由来は、足利時代の石灯篭には“剣達”とあり、元は“剣”であったとも考へます。
 “達”は「優(すぐ)れる」「勝(すぐ)れる」の意であるから、鎌(剣)達はすぐれた鎌(剣)の意味で、祈願の主旨であったと解釈できる、これが尊称とされたものと考へます。 大神の呼称は、足利時代には「剣達大明神」、江戸時代には「鎌達明神権現」と称され、又「元稲荷」とも通称され、伏見稲荷大社よりも古い奉鎮とも伝へられてゐる。(古鏡記録より推定するに、飛鳥時代鎮座の所伝になる)然し、稲荷の呼称の始まりについては不明であります。
 以上


稲荷神社参詣記録

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