松尾稲荷神社
神戸市兵庫区東出町3-21-3 ゼンリン

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祭神 宇賀之魂大神


 湊川合戦の折り、楠木正成公は堤防上に立っていた松の大樹を目印に一族郎党の集合を命じ、一同が身につけていた神仏の護符が血に汚れるのをはばかって、その松の木の根元に祀られていた稲荷の祠に納めたという。
 その松の木は、大正三年の社殿を造り替える時に切られ、残っいないが、正成公ゆかりの松という訳でこれに因んで松尾稲荷という社号になった。
 当社は、戦前まで福原遊廓に近く、昼夜を問わず多くの酔客・芸妓の参詣で賑わっていた。そのせいか「提灯もちのお稲荷さん」とも呼ばれ親しまれていた。
 又、当社には、ビリケン様というアメリカ渡来の福の神が祀られている。これは、1907七年アメリカの女流彫刻家が、夢に見た福神を制作したものが世界的に流行したもので、キューピーのモデルともいわれている。当社に祀られているものは、大正の中頃に本物をまねて日本で作られたもので、米俵の上に腰をおろし、右手に打出のコヅチ、左手に瑞玉を持ち、背中に大判を背負うという和洋折衷のビリケン様である。

 鳥居は朱、石、朱、石と並ぶ。本殿は暗い室内に鎮座、その周辺に摂社の小祠が所狭しと並ぶ。神仏混淆の匂いがする。ダキニ天が祀られているのだろう。

拝殿

本殿

ピリケンさん


お祭り

 7月 22日 例祭

『平成祭礼データCD』神社本庁


 当社は稲荷大神を御祭神とする御社です。当社の現在地はもと湊川の堤防上でありました。現在の湊川は河道三変したもので、南北朝時代の湊川の合戦当時は、会下山の東麓から南流して湊川神社の西側を流れていたのです。これを正成公戦死の記事のある大平記にみますと「一方ニハ楠判官正成、ワザト他ノ勢ヲマジヘズシテ七百余騎、湊川ノ西ノ宿ニヒカヘテ、陸地ノ敵ニ相向ウ。」とあります。この時に正成公は、堤防上に立っていた松の大樹を目標にして一族郎党の集合を命じ、一同が肌身につけていた神仏の護符などが血に汚れるのをはばかって、その松の木の根元に祀られていた稲荷の祠に納めたといいます。その松の大樹は、大正三年の社殿造営の時に切られ、現在は残っておりませんが、正成公ゆかりの松であったわけです。この松に因んで松尾稲荷という社号になりました。この事から当社は、正成公戦死の延元三年(一三三六年)には、既に当地に祀られていた事がわかります。現在の社殿は、大正三年に造り替えられたものです。当社は、太平洋戦争までは福原遊廓が近くにあったため、昼夜を問わず多くの酔客芸妓の参詣で賑わいました。そのせいか縁結びの神として「提灯もちのお稲荷さん」とも呼ばれ親しまれていました。
 又、当社には、ビリケンというアメリカ渡米の福徳の神が祀られています。これは、一九〇七年アメリカの女流彫刻家が、夢に見た福の神を制作したものが世界的に流行し、神戸にも大正の初期に米水兵によって持ち込まれました。これを見て元町の洋食屋の主人が、客寄せのため本物を真似て、米俵の上に腰をおろし、右手に打出のコヅチ、左手に瑞玉を持ち、背中に大判を背負うという和洋折衷のビリケンを作りました。これを店頭に置いたところビリケンは大人気を呼びましたが、商売の方は悪くなる一方なので当社に相談にこられました。店主が、海へ流すというのを、神様なら当社で預かろうと奉納してもらい、境内に祀ることになりました。大正の中頃の話です。そして、当社に祀られている間にびんずる様、いわゆるなでぼとけの信仰と混ざり、病気平癒の神としても篤い信仰をうけるようになりました。

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