岬神社・土佐稲荷
京都市中京区蛸薬師通河原町東入備前島町317-2
 ゼンリン

  神門

祭神 倉稻魂神、猿太彦命、大宮乃賣命
配祀 石榮神社

由緒

  「社頭掲示」から
 社伝によれば、貞和四年(1348)に鴨川西通りの中洲の岬に祠を建てて祀られたのが始まりで、その後江戸初期になって。備前島町に建てられた土佐藩京屋敷内に遷座される折り、倉稲魂命・石栄神の二座を祭神としたため、通称土佐稲荷・岬神社と称された。

 先に先斗町・木屋町の町衆などからは、近隣の産土神として崇敬されたが、明治維新になり土佐藩京屋敷が売却される時、一時、下大阪町に奉遷。その後、神社の衰微を憂い、備前島町の近江屋(初代・井口新助)が元土佐藩用人邸を買い取り、明治二十年遷座したのが現在地である。

社殿

  河原町の西側に蛸薬師通りが見える。東側の通りでその北側の通りにはいると紅白の土佐稲荷大明神の旗が林立しているのが見える。南向き。
 龍馬像が置かれているが、掻き毟られている。

本殿

 祭礼 6月 不定期。一日間。祭

平成祭礼データ

 岬神社の由緒
往昔の鴨川は河原が広く、河中に中の嶋があって、こゝに備前国西大寺村の新右衛門と云う人が移り住んで、嶋の岬に祠を建て、岬神社と称した。後村上天皇の貞和4年(1348)より以前のことである。
 鎮座に当って、「吾を信ずるものは諸業繁栄福利を与へ、火難を免れしめ、土工建築修工を守護し、一切の災厄を免れしめん」との神託があったと福狐1万個を参詣人に頒けたと伝えられている。
 その後、神祠は鴨川の西岸に遷されたが、慶長年間この地は土佐藩に下賜されて、岬神社もいつか“土佐稲荷”と俗称されるようになった。
 明治の廃藩で社殿も荒廃していたが、明治18年氏子の有志等祭典永続法を設定して、私祭継続の認可を得、下大阪町に無格社として復興したが、、神意に副はず、明治44年備前島町の旧地に移転、大正2年完成したのが現社殿である。
 氏子区域は北は三条通、東は先斗町、南は四条通、西は京極間で、例祭(6月10日)には、神輿の巡幸もあり、殊に先斗町や商家の崇敬が厚かったと云う。

以上


稲荷神社参詣記録

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