『平成祭礼データ』lから
参拝のしおり
御由緒
延喜式内八社国史所載十社飛騨国総鎮座飛騨総社概記
平安時代に国史巡拝の制度が廃れると、国府の近くに神籬を立てて国内の式内社を始め諸神を勧請し神事を行うようになったのが総社の始まりとされます。当神社の確かな創立年代は不詳ですが、朱雀天皇の御世承平元年(九三一)という言い伝えがあり、飛騨国延喜式内社八社(大野郡三座・荒城郡三座)及び六国史に記載の国史現在社十社を合祠し、国司自ら奉仕されたと言い伝えがあります。
当初は神籬式祭礼で、十八社の各神社の神々の降神を仰いで、毎月の行事として国司巡拝の礼を省き祭場を総社としました。その後、後鳥羽天皇文治二年(一一九一)五月に初めて社殿が造営され、後深草天皇建長四年(一二五二)四月朝廷より幣白供進の令宣を賜り、後醍醐天皇建武元年(一三三四)五月神領地を定められました。時の国司は姉小路頼綱といわれ、歴代の国司は総社は篤く尊信し、飛騨国内の人々もこれに従い崇敬の誠を捧げてきました。時代の変遷と共に幾度か盛衰があり、室町時代から安土桃山時代には衰退しましたが、その中でも本殿・拝殿の再建がありました。江戸時代明正天皇の寛永五年(一六二九)八月、飛騨国守高山城主金森出雲守重頼によって総社の再計が計られ、寛文五年(一六二九)五月大改修が行われました。元禄年間頃からは、総社大菩薩宮と呼ばれ修験者や浮図によって奉仕され、天明の大飢饉(一七八一)頃より荒廃著しく、光格天皇天明二年(一七八二)八月営繕されましたが、文化元年(一八〇四)には境内地僅かに二畝十歩(二百五十u)という惨々たる状態になりました。
この様子を嘆いた時の国学者田中大秀(本居宣長門弟)は文化三年(一八〇八)丙寅「飛騨総社考」を著して再興を願い「国の内の神坐せいつかしし昔にかへす時をこそまて」と詠んで飛騨の人々にその志を伝えて勧進に勤め、仁孝天皇文政二年(一八一九)己卯六月釿始祭を行い、棟梁古田与兵茂年、与次兵衛茂成親子に任せてん造営に着手、翌三年庚辰三月上棟竣工をなして造営を成し遂げて、境内の拡張と御祭神の考証を行い、今日の御祭神列座の因をつくりました。この時の遷座祭の斎主は、飛騨一ノ宮水無神社大宮司平君が勤め、大秀翁は祝賀して「いにしへのあとのまにまに国都神集へまつれるけふのとふとさ」と詠み、更に飛騨国中の人々に幸せを願い「御代やすく御年豊けくとこしへにみたみ恵ませおおみかみたち(境内歌碑)」と詠みました。大秀翁の志は、飛騨の人々の心を揺さぶり、神徳の高揚と社頭の興隆に現在までつながっています。弘化二年(1845)直孫弥太郎田中正民は祖翁の総社記を呈して進学を奉献、その志を継承しました。以来、本殿及び付属社等順次整い、「霊威高山より高く、神徳名田より広し」と飛騨総社の名声は益々高くなりました。
明治十四年(一八八一)二月久邇宮朝彦親王染筆の社号を賜り、同二十年から二十三年にかけて大造営が行われ、南向きだった社殿を東向きにし、社頭七日町筋までの参道が整備されました。同四〇年五月に五日間臨時大祭斎行、昭和五年、昭和三二年、昭和六十三年に飛騨国中の三百余社の神社の神々を招請して式年大祭を斎行。現在の外拝殿及び社務所は昭和五十九年に造営したものです。
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