出羽・陸奥の五十猛命

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 まつろわぬ民の国 出羽・陸奥、ここでの五十猛命を祀る神社を探訪する。



秋田県 三種町 熊野神社

秋田市 保戸野金砂町 金砂神社

秋田市 下新城岩城 新城神社

秋田県 角館町 神明社摂社伊太祁曽神社


宮城県 色麻町 伊達神社


福島県 いわき市 平中山字宮下佐麻久嶺神社


福島県 双葉郡 浪江町野神社



 熊野神社
秋田県山本郡三種町鵜川字宮比台26 ゼンリン

交通案内
奥羽本線 森岳駅より 西4km  





祭神
五十猛神、大山命、火産靈神、天照大神

由緒 

 創建、勧請時期は不詳。

 昔阿倍比羅夫が蝦夷討伐の際このあたりに上陸し、その時、船をつないだという大木があり、神木と呼んでいたが、立枯れた後台風によって倒れ、今は跡のみが残る。
 一本松の木彫りの竜頭が所蔵されている。
 五十猛命は樹木神や武神として祀られる場合があり、阿倍比羅夫が紀州から勧請したものなら、武力神として伊太祁曽神社からの勧請の可能性もある。

 紀の国の神だから有名な熊野の名を神社名としたのかも知れない。

 阿倍比羅夫は北陸の越国の国司をしており、古四王(越王)とも呼ばれていたと言う。 斉明天皇四年(658年)4月、阿倍比羅夫は船180艘を連ねて日本海岸を北上している。 雄物川の河口のアギタ浦(いまの秋田市)で、アギタ蝦夷の首長の恩荷(オガ)を降伏・恭順させている。 その後、更に北上し、ヌシロ(能代)ツガル(津軽)の蝦夷の頭領を郡領に任命している。

 平安時代初期に行われた坂上田村麻呂の蝦夷征討の折に、田村麻呂は武神として日本武尊や五十猛命を祀り、戦勝を祈願している。

お姿
 五十猛命が祀られている神社参拝を続けてきたが、この社は私としての最北端となった。
 森岳駅から西に行くと杉の宮神社がある。更に神明社が見え、なんと昼寝と言う地名を通り、薬師神社を過ぎれば熊野神社である。個人のお家のなかに八竜幼稚園がある。そのお家の左側道を少し登ると神社が鎮座する。 日頃は殆ど手入れがなされていないようである。大きいブナの木がある。



お祭
例大祭 9月14日


 金砂神社[かなさな]
秋田市保戸野金砂町36 ゼンリン


交通案内
秋田駅より 北1.5km

祭神
主祭神 大物主大神、大山
配祀 かが櫻姫命 かが=女扁に曜のつくり
合祀 天照大御神、五十猛神、高おかみ大神

由緒 

 創建は大同元年、806年。茨城県久慈郡金砂郷村の金砂神社からの勧請である。
 秋田市と金砂郷村とは1,200年ぶりに交流し、神社内に有縁の碑が建てられている。
 かが櫻姫命は佐竹義宣公の女。
明治六年村社に列せられ、同四十三年十二月二十五日旭川村原ノ町神明社を同四十四年秋田市寺町九頭社を合祀した。 ちなみに金砂町は、金砂神社から出ている。

 天照大御神と五十猛命は神明社に祀られていた。この組み合わせは天照大御神と素盞嗚尊が普通であるが、五十猛命になっているのは同一神と見なされていた事を示すものであろう。素盞嗚尊の樹木神もしくは猛烈な台風または勇猛神の部分であろう。

お姿
 境内は芝生敷きであり、木々は大きくはないが、美しい。
 



お祭
例大祭 6月12日


 新城神社[しんじょう]
秋田市下新城岩城字下向172 ゼンリン


交通案内
奥羽本線 上飯島駅より 東北4km バス樫根の南1km

祭神
主祭神 石門別神、大物主命
合祀 市杵嶋姫命、天照大御神、武甕槌命、應神天皇、櫻大刀自神、菅原大神、久那斗神、少日子命、保食大神、大名持命、五十猛命、掌理比賣神、伊邪那美命、火産靈命、大山命、水波女命、八衢比古命、八衢比賣命

由緒 

 創建時期等は不明。
 岩木山館跡に鎮座、山の上である。300m登る。


お姿
 この神社の東3kmの新城川沿いに真山神社が鎮座、爾保都比賣命が祀られている。
 北国でもペアーで出現する。
 

鳥居と拝殿(東から)


 本殿と拝殿(西から)



お祭
例大祭 5月4日、5日(湯立神事)


 神明社摂社伊太祁曽神社
秋田県仙北市角館町岩瀬149 ゼンリン

神明社鳥居



交通案内
秋田新幹線、田沢湖線 角館駅より 南西500m



祭神
神明社 天照大御神
合祀 加具土神、大名牟遲神、少彦名神、經津主神、武甕槌命、健速須佐之男命、三嶋大神、廣田大神、水波能賣神、白峯主神
摂社 伊太祁曽神社 祭神 伊太祁曽大神 配 大己貴神



由緒 

 享保16年の創建。明治45年無格社を合併。

 伊太祁曽神社については不明。



お姿

 杜は大きい。石段途中、本殿に向かって右に伊太祁曽神社の祠がある。

摂社伊太祁曽神社



お祭
大祓い 6月30日
例祭  9月7日、8日

神明社拝殿


 伊達神社
宮城県加美郡色麻町四釜字町3 its-mo


鳥居と古墳



  
交通案内
東北新幹線 古川駅より 西10km 陸羽本線西古川駅から西4km
仙台駅から中新田方面行きのバスが便利。



祭神
五十猛命、經津主命、武甕槌命、大日靈命、火産靈神



由緒 
 東北の式内社には勧請された中央神が多い。五十猛命が祀られていたところへ更に坂上田村麿が蝦夷追討の際、香取、鹿島の両社を勧請したという。江戸時代には領主の伊達家に気を使って香取様[かんどりさま]と呼ばれた。この頃は神仏習合で良泉院と言う寺と一体であった。現在も鐘楼がある。
 明治5年伊達神社と復称された。
 古墳の上に鎮座している。縄文や弥生の土器が出土している。往古からの聖地であり、蝦夷の神を祀っていたと思われる。
 五十猛命が祭神になっているのは、播磨国飾磨伊達郷の射楯神社からの勧請である。射楯兵主神社を奉祭していた人々が移り住んだ。従ってここの地名も色麻郡の四釜郷である。
 関東では日本武尊が東国征伐時に五十猛命を祀っていると伝わる。
 時代が下がり、坂上田村麿になるとこんどは日本武尊や五十猛命を武神として祀り、蝦夷への攻撃の先頭にたてた。射楯神、五十猛命は諸軍神の頭領神と見なされていた。
 紀の川沿いの五条市方面の出の坂上田村麿は、紀の国で五十猛命を祀ったとされる小倉神社がある。



お姿
 巨木の銀杏が神木である。社殿は永禄時代の建物である。宮司家は現在44代との事である。



神木


  
拝殿



お祭
春期例大祭   5月 1日
獣魂祭     9月20日
秋季例大祭  10月27日

  

式内社調査報告 第十四巻 陸奥國色麻郡 伊達神社


【社名】 武田本・九條家本ともに「イタチノ」と訓む。『大日本史神祇志』に「伊達神社今在加美郡四竃村旧舊與播摩 國飾磨郡射楯神同神也、播摩風土記延喜式、按播磨射楯神社五十猛命、飾磨與色麻、射楯與伊達並立訓相通、其為神同神 矣 而為香取明神云」『封内風土記』「中古以来香取社と稱し明治五年伊達神址と復稱」『封内名蹟志』『觀蹟聞老志』 共曰「古昔寺號香取山竃良寺」『風土記書上』は「香取大明神」と云ふ。『日本勝地誌』「舊香取神杜」と稱するも、維 新の際式内伊達神杜を合祀して伊達神址となる。通稱俗に香取様と云ふ。

【所在】 加美郡色麻村四竃字町三番地。「最寄驛」陸奥東線西古川驛六キロメートル。「道路」羽後街道沿ひ(仙 臺より陸奥街道を北上すること三〇キロメートルにして大和町吉岡につく、ここで分れて羽後街道に道を進め北上し約一 〇キロメートルの地で四竃につく)王城寺原扇状地の最南端にあたり、船形山に源を發する鳴瀬川の支流、花川を社前に みる。中古以来の宿驛四竃郷宿部落。

【祭神】 五十猛命、経津主命、武碧槌命の三柱。古墳時代中期の圓墳の上に建つ。この圓墳の上に中世の經塚があ る。

【由緒】 『封内風土記』によると「香取社坂上田村麿東征之時所勧請也」とあるが、『大日本史神祇志』は「坂上 田村暦所創祀是亦可疑。田村麿或修造也今並不取」としてゐる。『奥羽観蹟聞老志』『封内名蹟志』共に平城帝大同年 中香取山竃良寺を建立とある.『宮城縣圖書館調』は、射楯神(古風土記に伊大神)の氏人の遷住により、古 くこの地に創祀されたものであらうとしてゐる.吉田東伍氏は『大日本地名辭書』の中で色麻氏の氏神であるとしてゐる 。『安永八年六月別當良泉院書上』に伊建政宗が國守となるに及び、伊建の二字を憚り、経津主、武甕槌二神を祀り香取 神社鹽釜神社と稱したとあり、又、俗に鹽釜神社とするは四釜から訛つたものである。『封内風土記』に「四代藩主青山 公(網村)献黄金一枚、以永克修造之料」とある。其後も歴代の藩主が度々参詣せられた.古昔阿部一族の先祖である遠 祖・波々伯部刀祢卜部清水なるもの社家であつたので政務を司る。後陽成帝の文禄年中その裔孫波々伯部刀祢将監修験と なる。速祖延暦年間坂上田村麿に従ひ下る。鹽釜宮を加美郡に勧請し司宮となり、波々伯部と改める。萬治三年(一六六 〇)院迹迩出火のため灰燼に帰す。その後直ちに再建する.明治六年四月村社に列せられ、同三十九年供進社に指定され た。同三十八年九月字邊町の鹽釜社・田村社の両社と字上郷鎮守の田中社の三社を、同四十一年十月今熊野社、八坂社を 、四十二年四月字大下本町北國の熊野社、上本町の坂社の二杜を合祀した。

 【神職】 高崎秀氏(兼職)世襲四十三代目、鎮座當初の神職は前述の汲々伯部刀祢。

 【祭祀】 蝦夷酋長大基公阿氏利為盤貝公母禮の降伏した日(延暦二十年四月十五日)、舊四月十五日、この日を 往古は祭日としたが、現在は春五月一日。秋は延暦二十年九月二十七日、田村麿将軍が夷を平定した日。舊九月二十七日 を往古は祭日としたが、現在は十月二十八日。
 特殊神事として、次の二つがある。一つは「稚児献膳」。この祭は毎年五月一日に行はれてゐる氏子区域の各部落 から約七〇人の女児が山菜を三方に盛り、稚児装束を身にまとひ、十名の総代は袴を着用。男児十名は狩衣姿で旗を持ち 、大鼓を打つて町を練って神社に至り、供物を奉納して祭典を行ふ。他の一つは「湯立行事」。これは毎年十月二十七日 夜、行はれてきた古神事で、氏子は釜を持ち来り、一釜ごとに奉献の費用を負擔して釜を据ゑ薪を焚き、湯を沸騰させる 。神官は祈祷呪文を唱へながら手にした笹竹で熱湯をかぶり体を躍らせ卜占する。奉献者は神官の告げごとを聞きとり年 間の厄日をうけ、恙なきを願ふ。これは恐らく修験の行事を伝承したものであらう。

 【氏子】 舊四竃村、舊大村 五三〇戸。

 【境内地】 現在八〇四坪、往古は東西一〇〇間、南北六○間。『日本勝地誌』によると、三、〇〇〇坪。

 【社殿施設】 『宮城県神社名鑑』によると、本殿妻造 二・三坪。幣殿七・五坪。拝殿六・ニ坪。
                    (松田文人)


 佐麻久嶺神社
福島県いわき市平中山字宮下81 its-mo

鳥居 ここから急な石段を登る。


交通案内
いわき駅東南4km 


祭神
五十猛命


由緒
 陸奥国磐城郡の式内社。『式内社調査報告十四巻』で阿倍徹氏は、神社明細帳に記載の通り、紀伊国名草郡の伊太祁曽神社の祭神を勧請したものとされる。
 元禄二年(1689)の当社由緒書には「当社神霊は紀州日前神社一躰分神にして三所国懸大明神是也」とある。これに対しては日前・国懸神宮の祭神は、日像鏡と日矛鏡であって、明らかに誤記であるとされ、さらにこれ以後の文献はほとんど同じ誤りをしていると指摘される。

拝殿

写真御提供 再建にあたった(有)福住 加藤彰氏

 祭神については五十猛命で揺れがない訳ではないが、とりあえず元社探しの問題であるが、勧請の年代が不明と云う所は残るが、東国まつろわぬ蝦夷の地であり、五十猛命が勧請されたのは軍船の守護神か軍の先頭に立つ武神としてであろうゆえ、伊太祁曽神社からの勧請でいいのだろう。


 ただ、日前国懸神宮そのものは万代浜に鎮座していた伊太祁曽神社を追いやって鎮座した神々であり、日前国懸の神は紀の国の神ゆえに伊太祁曽の神と思われていたはずであり、伝承の混乱はやもうえない所がある。また三所国懸大明神と云う表記の意味が判りにくいが、紀伊三所明神と呼ばれる式内大社三社が鎮座、その内の伊達神社の祭神も五十猛命とされる。

社殿

写真御提供 (有)福住 加藤彰氏

 ついでであるが、日前神では海から漂着して祀られている事例が加古川市の泊神社等に見られるようで、当佐麻久嶺神社の神が中屋磯に赴き、潮垢離をとる「潮后降り」の祭礼から見ると、海からの漂着神であろうゆえ、日前神であっても矛盾はない。
 なお、伊豆の熱海では五十猛命が漂着している伝承がある。

半間社流造の本殿

写真御提供 (有)福住 加藤彰氏

お姿
 遠路はるばるの参詣であったが、社殿は工事中。 小丘上の巨杉のみが印象に残った神社。

 磐城平藩主内藤氏は式内社の隠滅を嘆き、調査させて当社を磐城郡七座のうちの佐麻久嶺神社と定めた。

神木の杉 樹齢千年以上 いわき市天然記念物

お祭り

 5月 4日、5日  例大祭

参考 『式内社調査報告』、

h16.7.10


 野神社
福島県双葉郡浪江町大字請戸字東迎38 its-mo

鳥居


交通案内
浪江駅東4km請戸海岸 


祭神
闇淤加美神、五十猛神、大屋津姫命、抓津姫命


由緒
 式内小社のくさの神社に比定されている。 明治三年までは貴布根大明神と呼ばれていた。この名も神社名が失われていたので神託に依ったと云う。

 五十猛三兄妹神は明治末期に合祀されたようである。さて、その神社名は今のところ判らない。 土地の人々は、安波様、大杉様と呼んでいるようだ。これは享保年間の江戸での流行神の大杉明神のことで、茨城県稲敷郡桜川村に鎮座する名社の神で、これが東京都葛飾区の香取神社に突如として飛来、爆発的に信仰を集めたと云う。
  『民族神道論』宮田登著によると、『月見堂見聞集』には、「安葉大杉大明神、悪魔払いふてよいさ、世がよいさよいさ」との踊り歌が歌われたとか。 この安葉は常陸国安馬大杉大明神と称されていた安馬で、別に阿波とも記されている。江戸時代に漁師によって阿波囃子がもたらされたのであろう。

拝殿

 『東奥標葉記』によると幾つかの創建譚が語られている。

 新羅国請戸小島に出現した神 
  新羅国から渡来した女神であると云う。『日本書紀』一書では、五十猛三兄妹は新羅から渡来したことになっている。これに符合しているのが面白い。

 『奥相志』には「請戸の神は天竺、また曰わく震旦国王の后で、夫婦間に溝があり、后を空舟に乗せ海に流した。漂流後請戸沖に流れ着いた。この女神が貴船明神と仰ぐべしとの神託を発した。

 『浮渡大明神縁起』岩楠船一隻が岸に着いた。船の中に神女九柱がいた。神女は「我々は東国に留まる。信心のある者が祀れば、国家安全、武運長久、万民子孫繁栄、横死遭難を除く云々」と託宣を行ったので、養老元年(717)に請戸の小島に祀った。その後島が沈没、現在地に遷座したのが当社と云う。浮渡大明神であり、これが請戸と通音である。

 海岸の神社ゆえの「漂着信仰」の流れの伝説のようである。

本殿

お姿
 漁師町の中の神社であり、社殿は雄渾な雰囲気を漂わせている。

 浪江町は至る所に鎮守の森のように見える森が点在している。よき日本の姿が残っている。

請戸川の上流は阿武隈高地であり、河口の湊には南部鉄が運ばれてきて、これを木炭の多い阿武隈山地に持っていった拠点とされた湊。

拝殿の神社名

お祭り

 8月 6日、7日  例祭(大漁祈願祭)

参考 『式内社調査報告』、『双葉町のくさ野神社

h16.7.10


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