鬼神神社(おにかみ)
上宮伊賀多気神社
島根県仁多郡奥出雲町大呂2058 its-mo

船通山(伝鳥上峯)

交通案内
JR 横田駅下車 船通山方面バス 大呂小学校

祭神
五十猛命
配 素盞嗚尊

社標と鳥居

社前の由緒書き
 出雲国風土記の爾多志枳小国[にたしきをくに]なり」とは此の地を指し、大呂は大風呂で、大きな森の意で、神亀三(726)年、大呂に改名。正倉が置かれこの辺りの中心を成し、 式内伊我多気神社は当社である。古記録に四十代天武天皇、五十四代仁明天皇、五十五代文徳天皇の時、朝廷より幣が奉られた。仁明天皇時、正六位。
 永正十六(1,519 )年、尼子経久の攻略で上宮伊我多気神社は焼失した。
 御祭神は霊力絶大で、「威武(イタケ)の神、邪気、怨霊折伏の神として鬼神伊我武大明神と称えられたとあり、地域支配の各武将が寄進している。

慶長九龍集甲辰菊月吉祥日、出雲国造千家元勝撰
 出雲国仁多郡小国里 鬼神大明神縁起一巻
 出雲国仁多郡横田荘小国里 上宮船燈山鬼神伊我多気大明神者祭祀素盞嗚尊五十猛神也 延喜式云五十猛神陵地伊我多気社是也
 中略(神奈備による)
 出雲国簸川上所在鳥上峯其船成岩干今在社前止庶民崇敬岩船大明神也
 後略(神奈備による) とある。

拝殿

 素盞嗚尊、五十猛命がソシモリより帰国して到着したとされる鳥髪の峯とされる船通山を見上げる位置に鎮座する。すなわち、この辺りで、素盞嗚尊に五十猛命が協力して八岐大蛇退治を行ったことになっている。

 記紀の本文では簸の川の川上であったとされる。古事記では簸の川上流の「鳥髪の地」と記す。出雲国風土記には「出雲の大川、源は伯耆と出雲の国の堺の鳥上山より出て、流れて仁多郡の横田の村に出て、横田、三処、三沢、布施の四つの郷を経て、大原郡の堺の引沼村に出て、来次、斐伊、屋代、神原の四つの郷を経て、出雲郡の堺の多義村に出て、河内、出雲の二つの郷を経て、北に流れ、更に西に折れて、伊勢、杵築の二郷を経て、神門の水海に入る。いわゆる斐伊の川の下なり」 とある。斐伊川は出雲の大川と同じではなく、その一部を称している。斐伊郷を流れている大川を斐伊川と呼んだと考えられる。すなわち木次町・三刀屋町の境界付近かと思われる。そうするとこの辺の素盞嗚尊、五十猛命の祭神を持つ神社はやはり産鉄の民の奉斎したものと見るべきだろう。
 実は出雲国風土記には八岐大蛇退治は一切語られていない。記紀に登場する素盞嗚尊のクライマックスの一つであるこの話は出雲国風土記に見えないということは何を示すのであろうか。
 これだけではなく、風土記では、素盞嗚尊は実に土の匂いのする土着神として現れ、踊りを踊るなどとうてい国津神の総帥とは思えないおだやかなお姿である。

 出雲国風土記抄(抄は金偏)から船通山について
 素盞嗚尊、志羅伎国より五十猛命を師ゐて東せし埴舟此の山の止まる。故に船通と曰わく。山体は石英斑王岩・流紋岩で形成され、山麓は花崗岩中に磁鉄鉱を含む良質の真砂砂鉄があり、古来その産地として知られた。
大正十二年神職会によって「天叢雲剣出顕之地」の記念碑が建てられた。

 砂鉄はチタン分が少ない鉄で溶融点がやや低いそうである。記紀の逆流があって、八岐大蛇退治の話は江戸時代以降に、出雲に普及し、伝承の地も作られていったという。

 神社の名前の鬼神であるが、何時の頃の命名か不詳であるが、五十猛命は勇猛神とされていることに関連するのか、木の神を鬼の神と表記したのか、 想像をするだけの段階である。

社前の岩船

お姿

 五十猛命の神陵の地とされるが、そのような雰囲気は感じられなかった。田舎のごく普通のじんじゃの面影を残している。後背の山も含めて木々は豊富だ。
 斐伊川上流のよい砂鉄のとれる地域の真ん中である。大呂村は真砂砂鉄のみを用いた和鋼を得、この玉鋼を全国の刀匠に供給している。 砂鉄と木炭を溶解し玉鋼を製造することをタタラ吹キと称している。
 神社の前の道路は幅拡張中の工事が行われていた。船通山まで約8km。

本殿

お祭り

祈年祭  四月十日
例大祭  十月十日

出雲国風土記 仁多郡[にたののこほり]から

仁多郡
合はせて郷[さと]四 里[こざと]一十二
 三處郷[みところのさと] 今も前[さき]に依りて用ゐる。
 布勢[ふせ]郷 本の字は布世[ふせ]。
 三澤[みざは]郷 今も前[さき]に依りて用ゐる。
 横田[よこた]郷 今も前[さき]に依りて用ゐる。
  以上四、郷別[さとごと]に里[こざと]三。
仁多と號[なづ]くる所以[ゆゑ]は、所造天下大神大穴持命[あめのしたつくらししおほかみおほあなもちのみこと]、詔[の]りたまひしく、 「此の国は大きくも非ず、小さくも非ず、川上[かはかみ]は、木の穂[ほさ]し加布[かふ](交ふ)。 川下[かはしも]は、河志婆布這[かはしばふは]ひ度[わた]れり。是[こ]は爾多志枳小国[にたしきをくに]なり」と詔りたまひき。 故[かれ]、仁多と云ふ。
三處郷[みところのさと]。即ち郡家[ぐうけ]に屬[つ]けり。大穴持命[おほあなもちのみこと]、詔りたまひく、「此の地[ところ]の田好[よ]し。 故[かれ]、吾[あ]が御地[みところ]の田」と詔りたまひき。故[かれ]、三處[みところ]と云ふ。
布勢郷[ふせのさと]。郡家の正西[まにし]一十里なり。古老の傳へに云へらく、大神命の宿[ふせ]り坐[ま]しし處なり。故[かれ]、布世[ふせ]と云ふ。神亀三年に、字を布勢と改む。
三澤郷[みざはのさと]。郡家[ぐうけ]の西南二十五里なり。大神大穴持命[おほかみおほあなもちのみこと]の御子[みこ]、阿遅須伎高日子命[あぢすきたかひこのみこと]、御須髪八握[みひげやつか]に生[お]ふるまで、晝夜[よるひる]哭[な]き坐[ま]して、辞[みこと]通[かよ]はざりき。 爾[そ]の時、御祖命[みおやのみこと]、御子を船に乗せて、八十嶋[やそじま]を率巡[ゐめぐ]りて宇良加志[うらかし](慰[うら]かし)給へども、猶哭[な]き止みたまはざりき。  大神、夢[いめ]に願[ね]ぎたまひしく、「御子の哭[な]く由[よし]を告[の]りたまへ」と夢に願[ね]ぎ坐[ま]しき。その夜、御子の辞[みこと]通[かよ]ふと夢見坐ししかば、則ち[さ]めて問[と]ひ給ふに、爾の時、「御澤[みざは]」と申したまひき。 爾[そ]の時、「何處[いづく]をか然[しか]云ふ」と問ひ給へば、即[やが]て御祖[みおや]の前を立ち去り出て坐して、石川[いしかは]を度[わた]り、坂上[さかがみ]に至り留まりて、「是處[ここ]ぞ」と申したまひき。 爾[そ]の時、其の澤[さわ]の水沼[みぬま]出[い]だして、御身沐浴[みみそそ]ぎ坐しき。故[かれ]、国造[くにのみやつこ]、神吉詞[かみよごと]奏[まを]しに朝廷[みかど]に参向[まゐむ]かふ時、其の水沼[みぬま]出[い]だして用ひ初[そ]むるなり。 此[ここ]に依りて、今も産婦[はらめるおみな]、彼[そ]の村の稲を食[くら]はず。若し食へば、生[う]まるる子已[すで]にもの云[い]はず。故[かれ]、三澤[みざは]と云ふ。即ち正倉あり。

 横田郷[よこたのさと]、郡家[ぐうけ]の東南二十一里なり。古老の傳へに云へらく、郷の中[うち]に田四段許[よきだばかり]あり。形聊[いささ]か長し。遂に田に依りて、故[かれ]横田と云ふ。即ち正倉あり。以上の諸[もろもろ]の郷より出す所の鐵[まがね]、堅くして、尤[もつと]も雑具[くさぐさのもの]を造るに堪[た]ふ。
澤社[みざはのやしろ]  伊我多気社[いがたけ]  以上二所は、並びに神祇官にあり
玉作社[たまつくり]    須我乃非社[すがのひ]
湯野社[ゆぬ]    比太社[ひだ]
漆仁社[しつに]   大原社[おほはら]
印支斯里社[いなぎしり]  石壷社[いはつぼ] 以上八所は、並びに神祇官にあらず

以降に山、野、戀山、川、道の説明が続く。各郷の神社のサイトに掲載する。

【横田郷】
鳥上[とりかみ]山。郡家の東南三十五里なり。伯耆と出雲との堺なり。鹽味葛[えびかずら]あり。
横田[よこた]川。源は郡家の東南三十五里なる鳥上[とりかみ]山より出でて西に流る。謂[い]はゆる斐伊河[ひのかは]の上[かみ]なり。年魚[あゆ]少しくあり。
 

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