五十猛神社(いそたけ)
島根県大田市五十猛町湊183



神社正面 勇者ロトさんご提供

交通案内
JR 大田市、五十猛駅下車、駅前を東へ7分、右にガードをくぐるとすぐ。its-mo



祭神
五十猛命
配神 応神天皇、抓津姫神、大屋姫神、沖長足姫神、誉田別命、武内宿禰



由緒
 『神国島根』では、勧請年暦不詳としている。大田市の西ブロックの協議会の発行になる『ふるさと読本』の中に、「石見風土記」によれば、五十猛神社と韓神新羅神社とは共に延長三年(925)に創建されたとある。社殿が造られた意味であり、かっては宮山に鎮座する神霊を神籬磐境として祭っていた遙拝所に里宮を造営したものと思われる。また『神なる王/巫女/神話』(高橋統一著)によれば、島根県宗教連盟発行の『宗教法人名簿』によると、当社の創立は享保十一年(1726)と言う。これは霹靂神社を合祀した時期と思われる。永禄二年(1559)毛利元就が願主となり鳥居を寄進していることが棟札に残っている。

 日本書紀の一書の伝えに、須佐之男の命が鬢を抜いて杉、胸毛から檜、尻毛から槙、眉毛を樟となしたとある。
用途として杉と樟は船、檜は宮、槙は寝棺を造るのに良いされ、そのために木種を播こうと申され、その子の五十猛,大屋都比売,都麻都比売の三柱の神がよく木種を播いた。

 御子達は、父神須佐之男の命と共に、韓国の曽尸茂梨(そしもり)に天降り、その地には木種を蒔かず、これを持って日本に帰り、木種を蒔いて、最後に紀の国に赴いたと伝えられている。

 『神国島根』には「この地は須佐之男命、五十猛命、大屋津姫命、抓津姫命が半島から帰国の上陸の地との伝えがある。 磯竹村(五十猛町)の内大浦の灘なる神島に舟上り座し給いて、父神武進雄命は大浦港に鎮座し御子五十猛神抓津姫神大屋姫三柱の神は磯竹村の内なる今の宮山に御社を立て鎮り給い、それより地名を五十猛村と言う。」と由緒を記している。

本殿 八幡造 勇者ロトさんご提供

 一方、五十猛命の降臨地としては、仁多郡の島上の峰(船通山)の伝承もある。更に、対馬、壱岐を経由して有明に上陸したともされている。各地に伝承があるのは、この神を奉ずる一族が、それぞれ渡来したとも思える。

 またJR大田の次が静間で、「静の磐」があり、大己貴神と少彦名神の国土開拓の出発地点とされている。この神社のある海岸は日本古代史上実に由緒のある地点である。ひとえに半島とも海運の便にその故がある。

 国分寺霹靂神社の論社である五十猛町の霹靂神社は五十猛神社に合祀された。

 さて出雲には延喜式内社の韓国伊太神社が六座ある。意宇郡の玉作湯神社、楫夜神社、佐久多神社、出雲郡の阿須伎神社、出雲神社(現諏訪神社)、曽枳能夜神社であって、いずれも、同社韓國伊太神社となっている。 天保14年(1843年)千家俊信の「出雲国式社考」には、同神社の祭神は素盞嗚尊の御子の五十猛命としている。石見や出雲の他の神社では五十猛命とされている。イダテは古代朝鮮語、イタケは日本語とされる。



お姿
 砂地の小山に鎮座している。神木は松である。注連縄は大きい。



お祭り
例大祭  4月9日



五十猛町名の由来
 江戸時代17世紀後半に南宗庵が編んだ『残太平記』に以下の記事がある。
 偖又隠岐国ノ商人ヲ呼テ五十猛嶋ノ事ヲ問給ヘバ隠州ヨリ七十里ニハ近ク覚ヘ候。東西九里ニテ、大 竹如芦シゲク生テ竹ノ中ニ路アリ人不住一ノ岩屋アリ。内ノ広サハ一町四方モ有ベシ。人若シ是ニ望メバ色黒キ一眼ノ人長一丈ニ過、竹ノ葉ヲ衣トシテ鉄棒ヲ振テ追出ル......此大人ハ素盞烏尊ノ御子五十猛命此嶋ニ住給フト云伝ヘタレバ神ニテ在スラント思ハレ 候
 注  
 人の特長は、色黒キ(火ヤケ、すす)、一眼ノ人(目一箇神:金属精錬師)、竹ノ葉ヲ衣トシ鉄棒ヲ振テ(山の中にいた鉱山師が鬼のイメージで把握されました)とある。五十猛神を韓鍛冶の神とされる真弓常忠氏の論に該当しそう。

 また、『八重葎』(やえむぐら)は宝暦九年(1759)の作品ですが、これに「沖に竹島あり、其の磯だから磯竹と言うと記す」とあり、これは太田市五十猛町の昔の名前が磯竹であったことを説明しています。この竹島は欝陵島のことであり、現在の竹島(江戸時代は松島、朝鮮名は独島)ではなさそうです。

 注
 朝鮮半島の東130kmに鬱陵島と言う島があります。ここは木々も生えており、半島からの逃亡者も住んだ場所だそうです。後に竹嶋と呼ばれ、また磯竹嶋とも呼ばれました。五十猛嶼とも表記され、日本神話の素盞嗚尊の御子神の五十猛神に由来する名前です。すなわち、五十猛神が新羅の曽尸茂梨から木種を持って日本に戻って来る途中に立ち寄ったとの伝承が『残太平記』にある。

H24.10.14 追記

出雲石見の五十猛命
五十猛命ホームページ
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