紀伊續風土記 巻之三十五 那賀郡 小倉荘 金谷村から
○蔵王権現社 境内周四町十八間
伊弉諾尊
伊弉册尊
子守神
勝手神
蔵王権現
伊太祁曾神
衣 美 須
廳 鐘楼 藥師堂
阿彌陀堂 觀音堂 搭址
大門址
村中小名明樂にあり 吐前金谷田中大垣内満屋五箇村の産土神なり
觀音堂は東の方にありこの堂一寺の本堂にて蔵王権現とは別なりしに今は権現と同境内にあり
寛永記に龜貌山光明寺と號し明樂山に伽藍建立して本尊十一面觀音を安す
此觀音旧名草郡おひしの峯に在りしに 名草郡におひしの峯といふ所なく那賀郡におひしの峯といふありこれをいふか然れは名草郡といふは誤ならむ
野火にて堂焼失しそれより明樂山に移す
その後蔵王権現を金峯山より勧請して一地に祭りしより今は社地の内の小堂の如くになれり
大抵佛堂は皆觀音堂に附属せしなるへけれとも今は混して分きかたし
寺領は樂匠寺村 樂匠寺村は今の名草郡藥勝寺村の事なるへし
半分を以て寺領とせしを天正十三年(1585年)に没収せらるとあり未の方三町許に辨天ノ祠あり奧ノ院といふ
古は明神の神幸ありし地なりとそ境内の外に二町の馬場今にあり
鳥居の傍ら秤石といふ石あり古堂社供養のとき尼カ辻村の五智坊を頼みて供養せしに五智坊唯六字名號はかり唱へける故氏子等六字名號はかりは利益あるましといひけれは名號を大なる石とかけくらへて見よといひけるに因りてかけて見しかは名號の方重かりしより今に秤石とて傳はるといふ
一説には光恩寺の開山信譽供養の時此事ありしといふ此説誤ならむ
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