立神社(たて)
和歌山県有田市野700 mapfan

交通案内
紀勢線  天王寺→和歌山→箕島
有田川を渡り、東へ有田湯浅線沿い 徒歩15分 

 
祭神
大屋彦神、國常立神、伊弉諾尊、伊弉册尊
摂社 熊野社  早玉男命、 熊野皇子櫛御食野命

由緒
 鎮座の年代は不詳。大屋彦命は素戔嗚尊の御子、五十猛命の別称とされている。神社の巖下は深淵で、その上に数丈の奇巖を立石と言い、立神の名はここから付いたとされる。 水主神を祀ったと言われている。
 また國常立神を祀る意味は、より古い根元神が先に祀られていたのを、名をこの様に変えて置いたとの説がある。 荒吐神(アラハバキ神)の様な古い神格を祀っていた可能性もある。

 有田川を見晴らす立地から、航海、船の神の要素から、その材料の木霊を祀り、大屋彦命が祭神とされたのだろう。五十猛命は射楯の神であり、立に通ずる。
 近くの山地遺跡からは銅鐸一個と銅矛六本が出土している。

お姿


 落ち着いた雰囲気の社域は広く、槙、杉、樟などの大きい木々が目立つ。社殿、社務所は立派である。
本殿


お祭り
10月16日 例祭 

紀伊国名所図会



紀伊續風土記 巻之五十七 在田郡 宮崎荘 野村から
○立神社  境内周九町餘 禁殺生
  本社  末社二社  神輿殿  御供所
   拜殿  拜所  中門  湯立所
   玉垣  鳥居
村の西三町許にあり野村山地新堂小豆島古江見五箇村の産土神なり 此邉應徳間(1084年〜)熊野那智山の神領となりしより後世實方中將の苗裔當村に在城し宮崎荘七箇村を領す猶近境十箇村を併せ遠く阿波國の内五箇村を略せり 城の坤に社を創建して熊野三所飛鳥神を祀れり此れ當社創建の始めなり社邉に今熊野濱といふ名のこれり 天正(1573年〜)兵亂に城陥り城主落行きて冦兵社内に亂れ入けるに神瑞異を現はして冦兵畏れ去る七箇村の土民崇奉して産土神とすといふ 文明(1469年〜)永正(1504年〜)年中の棟札あり 本社の後大巖壁立す相傳ふ此地古は在田川の衝にして其下深淵をなしゝといふ 按するに立神の稱は此石より起れるなり 本國神名帳當部に水主神あり今詳ならす 疑らくは立神は其神にして後に此邉熊野の神領となりしより熊野権現を其社に并せ祀りしならんか 九月十六日神事あり 神輿小豆島村の遊覧所に渡御す流鏑馬あり壯觀なり近年 亜相老公親筆の天壌無窮の四大字の額を賜ふ



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