行矢射楯兵主神社(いくやいだてひょうず)
姫路市辻井4−4−3 ゼンリン


交通案内
JR山陽本線姫路駅からバス41番辻井 西へ400m 

祭神
射楯大神、兵主大神

由緒
 播磨国の総社でもある射楯兵主神社からの勧請であろうか、それとも元社であろうか。神祗志料によれば射楯兵主神社は矢落村にあるを辻井村に遷し、行屋明神と称したとある。 これから考えると明治初年には式内社論社ではあった事が頷ける。
 しかし現在は総社を兼ねる射楯兵主神社が有力なようである。

 玄松子さんから頂いた情報を挿入させていただきます。
『式内社調査報告』抜粋
維新以後、明治二年姫路藩庁式内社調査の際、辻井の生矢神社(現在は行矢射楯兵主神社と称する)を式内社となした。(宮崎光彦を神官に任じ、知藩事酒井忠邦慢幕を寄進し竜野町三丁目の四ツ角に「式内射楯兵主神社在辻井村」と刻んだ石碑建立せり)これに対し、時の総社神官国学者上月爲彦は、明治三年十一月「射楯兵主神社考」を著し、藩の国学者庭山武正(射楯兵主神社社司)、春山弟彦調査副申の結果、式内射楯兵主神社は再び、元に返された。 だそうです。一年間だけのようですね。石碑があるようですが。射楯兵主神社は古文書がほとんど無いそうですが、根拠はなんだったんでしょうね。




 射楯兵主神社のしおりによれば、兵主神の軌跡を追いかけると、飾磨郡伊和里、水尾山、小野庄とどうも行矢方面は現れないようだ。射楯神は飾磨郡因達里、これは姫路市以東、最初は八丈岩山とされる、その後遷座したのかどうかは不明であるが、梛本に合祀されて現在地となっており、行矢へ現れたとすれば、射楯神単独祭祀の頃ではないか。従って、行矢は論社から消えたのであろう。
 神功皇后が三本の矢を投げて云々の話があるが、字面にとらわれてはいけないが、行矢とはいかにも射楯神の降臨の地にふさわしい名前である。射楯神とは「矢になって降臨された神」との見方がある。

鳥居

お姿
 鳥居から社域への道は、ゴミを分別して置くようになっている。社殿の東側は子供の遊び場になっている。

社殿

お祭

 夏季大祭  7月21日 
 秋祭  9月21日

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