伊勢の五十猛命湖国・近江の五十猛命

Welcome to Ise.Sorry The Japanese Language only.




鈴鹿市寺家 比佐豆知神社

松阪市立野町 立野神社・松尾神社

三重郡菰野町 廣幡神社(八幡さん)

阿山郡大山田村 植木神社

一志郡一志町大字波瀬 波氏神社

津市大字藤方字森目 加良比乃神社

多気郡明和町大字前野 前野神社・猛祭神社

多気郡宮川村 大杉神社

松阪市菅生 棒屋神社


 比佐豆知神社ひさずち
鈴鹿市寺家3-2-20 its-mo



交通案内
近鉄名古屋線 鼓ケ浦 南西5分 

祭神
五十猛命、大屋津姫命、抓津姫命 ほか

由緒
 式内社。この地は鈴鹿市に属し、江戸時代には紀州の飛び地であった。 これは徳川家康が本能寺の変の後、堺から伊賀を越えてこの地から船をしたてて伊勢湾を渡った際、土地の人々の協力が大きく、天領として遇したのが始まりであるとの事である。

 聖武天皇天平勝宝年間(8世紀前半)旧刹たる白子山子安観音寺と神域を共にし観音寺南側に位置し、往古は萱葺くの神祀六宇に鎮り座し東面し北より秋葉金比羅宮、富士権現、天神宮、熊野権現、神明宮、木立明神と称し、遠近の崇敬者多く特に両部神道の思想が強くうかがわれる。

 しかしこの式内社に五十猛命三兄妹神が祀られている由来は不明。木立明神と呼ばれていたのは三兄妹神ゆえであろう。案外、江戸時代になってからかも知れない。 伊勢には同名の神社があるが、およそ五十猛命三兄妹神とは関係なさそうだ。

 北側に子安観音寺(真言宗)があり、ガイドブックなどでもここは紹介されているが、残念ながらこの由緒ある比佐豆知神社の事は触れられていない。 地図にも殆ど掲載されていない。
 神社と観音との境界に國の天然記念物に指定されている「不断櫻」がある。四季を通じて葉を絶やす事はない。春秋冬に花を咲かせるそうである。 接ぎ木ができない。
 植樹の神を祀る神社の隣に生えているのである。

 鈴鹿の地は今でも工業が盛んであるが、室町時代からの「伊勢型紙」、奈良時代からの「伊勢墨」を伝統産業として守っていこうとしている。 このあたりにも、紀の國の凝り性の人々の血を感じるのである。

お姿
 子安観音寺に敷地を提供したように見える。鳥居のすぐ後ろに社殿がある。その背後には大きい木が多い。






お祭
 例祭日    4月15日


 立野神社・松尾神社
松阪市立野町786 ゼンリン



交通案内
近鉄山田線、JR紀勢本線 松阪 国道166号 バス立野 東の山の上

祭神
大山命、倉稻魂命、五十猛命、建速須佐之男命、櫛稻田姫命、天忍穗耳命、天穗日命 、天津彦根命、活津彦根命、熊野久須毘命、多紀理姫命、多岐都姫命、狹依姫命、伊弉諾命、伊弉冉命、菊理姫命、彌都波能賣命 、金山彦命、猿田彦命、大山津見命、岩長姫命、木花開耶姫命、足仲津彦天皇、大帶比賣命、虚津比賣命、仁徳天皇 、菅原道眞、品陀別天皇、物部建彦連公

由緒
 旧郷社の松尾神社、式内社の立野神社等の合祀。
 紀州公が境内に「禁殺生」の石碑を建てている。現存している。この辺は江戸時代は紀州藩の支配地域であった。
 鎮座地は立野であり、立は伊達「いだて」の立であるのは、紀伊の箕島の立神社の例がある。 紀伊と伊勢はくるりと太平洋を回って結びついている。また中央構造線の西出口日前国縣神宮と東出口伊勢神宮とのかかわりでも共通性が強い。

お姿
  立野山(水汲山)山上に鎮座。


本殿



 社務所は旧柿野町深野の大庄屋野呂家の別邸であったと言う。
 一の鳥居は山裾にある。そこから数百メートルの参道が続く。参道には生木の鳥居が数限りなく奉じられている。これが赤ければ伏見稲荷を歩いている気分である。 山頂の本殿前には御祭神名が記されている。


参道





お祭
 例祭日    4月11日


 廣幡神社(八幡さん)
三重郡菰野町大字菰野2770 ゼンリン



交通案内
近鉄湯ノ山線 中菰野 南東500m

祭神
譽田天皇
建御名方命、事志呂主命
合 五十猛神、大屋津比賣命、大市比賣命、抓津姫命 他

由緒
 旧くは正八幡宮と称し、寛永七年八月十五日菰野領主従五位下方丹後守雄氏公石清水八幡宮より勧請し、以来同家の鎮守社となる。 明治三年十月藩庁及管内鎮護の社となる。
 合殿の諏訪神社は菰野郷草創の社で村中里民の産土神なりしが慶長年中土方家並に藩士の産の産土神となる。 慶長十三年三月領主雄高公の命に依り諏訪神社を南山に奉遷す。
 明治四年十月二十三日菰野県庁の命に依り諏訪神社を正八幡宮に合祀して広幡神社と改称し、明治六年三重県庁より第一大区四五六小区郷社と定められる。
 明治四十年より村内全部の郷社一村社倭文神、菰野神社、平岡神社、日吉神社、江田神社、須賀神社、豊岡御厨神社、春日神社を合祀する。

 五十猛命一座が合祀されているが、湯ノ山8551に鎮座していた日吉神社の摂社稲荷社に祀られていたが、それが平岡神社に合祀され、更に現在の廣幡神社に合祀されている。拝殿内に合祀されてきた系統図がかかげられている。

お姿
  参道の両側にはツツジの大きい木がある。立派な石灯籠が献燈されている。西に御在所岳が見える。社殿はこざっぱりしている。気持ちの良い神社である。鎮座している山も神奈備型の裾をひいた良型であり、杉や楠が盛り上がっている。 






お祭
 例大祭    4月15日


 植木神社
三重県阿山郡大山田村大字平田699 ゼンリン




鳥居




交通案内
近鉄伊賀線上野市から163号を大山田村へ行くバス宮の前下車すぐ

祭神
主 健速須佐之男命、櫛名田毘賣命
配 鳥鳴海神、事代主神、火之迦具土神、品陀和氣尊、菅原道眞、大山祇命、猿田毘古神、彌都波能賣神、健速須佐之男命、正勝吾勝勝速日天之忍穗耳命、天之穗日命、天津日子根命、活津日子根命、熊野久須毘命、多紀理毘賣命、多岐津毘賣命、武甕槌命、市杵嶋姫命、少彦名命、宇迦之御魂命、底筒之男命、中筒之男命、上筒之男命、大日貴命、鹿嶋御子三十八神、大物主命、香香脊男命、五十猛神、大稻輿命、大友皇子、志那都毘古命、志那都毘賣命、安閑天皇、山田惟之、大己貴命




拝殿



由緒
 平田郷十ヶ村の総社、寛弘元年(1004年)創立と言う。 400年前に一棟三扉の社殿を建てて鎮座したと言う。
 出雲国意宇郡日御崎の住人桃木某三男政守と云う人諸国神社拝遊し此里に止まり或る夜夢に神告て曰わく、播磨国飾磨郡広峯山より牛頭天王を迎奉れば今流行の悪疫病速やかに除き給うと郷人聞きて直に広峯山へ登り天王を迎ひ寛弘元年九月九日出後氏天王を玉手村清水谷鳥取神社の相殿に奉勧請す」と、 又、文永二(1265)年四月八日の洪水の後鎮座地の争いがあった際にも「神前にある枯榊を執り所々の土中へさして神意を伺い此の枯榊一夜の中に青葉を生する所へ定めんと誓ひ給ふに不思議や山田神社の地へ指し奉る枯榊一夜の中に枝葉青々と栄えければ神慮の尊き事を奉恐迅に宮地を改宮柱太敷立て如故鳥逆神社と合祭に奉斎一夜にして枯榊の枝葉茂りし神力を尊み以て植木牛頭天王と改称し奉り」 と記され、更に天正年中北畠中将信雄郷伊賀国兵乱の際に神霊を存するのみにて社頭悉皆災滅したが、其後郷人力を合わせて慶長二(1597)年に元の宮地へ復興した旨記している。
 明治二年御布告により牛頭天王号を廃し植木神社と改称し、明治四十年同四十一年に平田神社など30社を合祀している。
 三重県、和歌山県は特に神社合祀が激しかったようである。
 伊賀國山田郡には延喜式内社が三座、鳥坂神社、阿波神社、葦神社があり、植木神社は式内社ではない。

  

お姿
  植木神社が中扉、鳥坂神社を左扉に、八岐神社を右扉に祀っている。 巨木に囲まれたたたずまいの落ち着いた神社である。緑の中の本殿の朱の鮮やかさが見事である。
服部川沿いになる。


本殿






お祭
祇園祭とだんじり 7月最終土曜日が宵宮、翌日が本祭 県民俗


祇園祭




秋季恒例祭 10月15日〜16日


 神社(はて)
三重県一志郡一志町大字波瀬 its-mo



交通案内
三交バス津ー室の口線「波瀬支所前」徒歩2分

鳥居、拝殿



祭神
火雷神、安閑天皇、大屋津姫命 ほか

由緒
 式内論社。延暦二十(801)年、伝教大師が社殿を改造されたとの記録がある。 矢頭山天徳院神宮寺別当が祭祀を司ってきた。「天徳院」の称号は、北畠親房の命名によるのもである。 伊勢国司の北畠家は代々信仰深く、高二十一石余を寄進されたこともあった。 後、紀州藩の領地となって、紀州徳川家の代々の祈願所となった。

 明治六年に神仏分離して、矢頭神社は波神社と改称され、神職が祭祀を奉仕することとなり、神宮寺は廃止された。
 明治四十二年、村内三十三社を合祀し、波神社と単称、旧波神社跡は波神社の奥宮となった。

本殿(神明造)



お姿
 神紋は「丸に並び矢」。波瀬小学校の南側の山裾に東向きに鎮座、神域は木々が豊かで落ち着いた雰囲気であった。

お祭
例祭 10月10日
 
参考文献 三重県神社誌


 加良比乃神社
三重県 津市大字藤方字森目335 ゼンリン


鳥居



交通案内
近鉄 南が丘から南東20分 または津ー小森上野経由警察学校前行きバス「藤万」下車西4分



祭神
御倉板擧神、伊豆能賣神、天照皇大御神、大山祇神、大物主大神、水波能賣神、宇迦之御魂神、建速須佐之男命
配 正勝吾勝勝速日天之忍穗耳尊、天之穗日命、天津日子根命、活津日子根命、熊野久須毘命、多紀理毘賣命、市杵嶋比賣命、多岐都比賣命、天兒屋根命、應神天皇



由緒
 式内社。垂仁天皇皇女倭姫命、天照大御神を奉戴しての遍歴の際、此処に神殿を設けたが、水利不便ゆえ、樋をもって通す故に、片樋宮と称した。社名の謂われである。
 四箇年後、大御神の神託あり他所に遷座したが、宮跡に御倉板擧神、伊豆能賣神の二柱をお祭りして、加良比乃神社と称した。
 明治末期に周辺の神社を合祀した。

 さて、この社が五十猛命を祀る神社の一つとしてここに登場するのは何故か?
 柳田國男が明治末期に発表した論文の『「イタカ」及び「サンカ」』が発端である。
 津軽にては婦人の神を祭る者を「イタコ」と呼べり。(中略)イタコの語原に関する自分の仮定説は左のごとし。イタコはアイヌ語のイタクに出づるなるべし。 (中略)
 さらにこれを本邦の古典に徴するに『古事記』諾尊得三貴子の条下に即御頸珠之玉緒母由良邇取由良迦志而。賜天照大御神而詔之。汝命者所知高天原矣。事依而賜也。故其御頸珠名謂御倉板挙之神とあり。 御倉は神几にて祭壇の義なるべし。 この板挙之神は古註に多那と訓めあれど義通ぜず。おそらくはイタケの神にして、姫神が神父を拝祀したもうに、この遺愛の物を用いたまいしことを意味するならん。
 また紀州の国幣中社伊太祁曽神も社伝には日前・国懸の二神斎祀の時に現れ来たまえりといえば、すなわち一種の斎の神なるべし。 この神と五十猛命と同じという現今の通説は、単に『日本書紀』の中に、五十猛命を即紀伊坐大神是也とあるに拠れるのみ。 伊太祁曽はイタキソにして、イタケソにあらざることは、『倭名鈔』の郷名に伊太杵曽郷とあるもその一証にして旁素尊御父子この国に祀られたまえりとて、ただちに伊太祁曽をもってこれに充つるあたわざるを思うべし。 伊太祁を五十猛なりとせば、曽の字すこぷる解するあたわず。 けだし五十猛は別に父御神の斎祀に与りて、この名を得たまえるなるべく、あたかも後世八幡に若宮あり、熊野に王子あると同じくこれ等のイタキ、イタケはすべて皆御子思想に胚胎せる霊巫の名称にほかならざるべし。

 御倉板擧神を五十猛命とする柳田國男氏に敬意を表してここに採録した。

本殿(神明造)



お姿
 神紋は「下り藤」。こんもりとした鎮守の森になっている。社殿は昭和26年に復興の神明造の荘重な雰囲気を出す。

拝殿



お祭
例祭 10月17日  春祭 4月16日
 
参考文献 三重県神社誌


 前野神社・猛祭神社(もうさい)
三重県多気郡明和町大字前野713−1 ゼンリン


猛祭神社




交通案内
三交バスはこの辺りを走らなくなった。松阪駅からタクシー。



祭神
猛祭神(八王子御頭)



由緒
 当社の創始は不詳。俗に八王子御頭を祀る。毎年旧一月十五日に御頭神事(明和町無形民族文化財)が斎行される。 御頭(獅子)を冠し、戸ごとに舞い行く。悪霊払いの行事である。

 猛祭神は素盞嗚尊か五十猛命であろう。五十猛命は勇猛神として祀られている。

前野神社の本殿



お姿
 神紋はない。前野神社は長徳神社の旧地に鎮座。
 猛祭神社は正念寺境内に鎮座、猛祭神社は丁度新しい本殿が備え付けられていた。包装したままであった。隣に摂社が見える。

前野神社の鳥居 本殿は左側



お祭
例祭  2月15日
 
参考文献 三重県神社誌


 大杉神社
三重県多気郡大台町大杉 ゼンリン


三の鳥居と神域


交通

JR紀勢線三瀬谷駅から宮川町村営バスで大杉終点まで そこから登拝15分



祭神

久々能智神、五十猛命、大屋津姫命(『宮川村史』)



由緒

 宮川村江馬に荻原神社が鎮座、荻原神社の創始年代は不明なるも、文政七年(1827年)奉納の幡に「江馬大杉社榎村神社 奉再拝大屋津姫命大杉大明神廣前」とあり、当時は江馬大杉社あるいは榎村神社と呼ばれていた。 度会延経『伊勢国神名帳考証』で、度会郡の延喜式内社榎村神社遺蹤地を江馬御らに求めており、従って当社をして後裔社とできよう。

 幡の「大屋津姫命大杉大明神」とは、大杉神木の大杉明神とおそらくはその祭神の大屋津姫命のことと思われる。

 旧大杉村の大杉明神はその創立の歴史は分からないが、現在の神木の樹齢は1200年とされ、その隣の切り株が旧社とされている所から、その歴史は1200年程度と見てもいいのではなかろうか。 そうすると、大杉明神は山宮に相当し、荻原神社が里宮に当たるとは言えないだろうか。


神木と祠


大杉神社の「社頭説明板」から

 平成6年3月にたてられた「宮川村教育委員会」記載の大杉神社の「社頭説明板」を紹介しよう。

 この御神木は、大杉谷が拓け始めた頃すでに生木していたので、その大杉にちなんで大杉谷の名前がつけられ、木の元の神であります久久能智神(『古事記』による)をお祀りしていると伝えられています。

 またこの地方では、伊勢神宮の御杣山として、往古神宮の御遷宮に何度か御用材が切り出されました。大きい木ばかりで樹雲のようであったと伝えられています。

 古くからこの大杉を大杉明神と申します。大杉明神も大杉神社も同じで、縁起によると天狗のような変わった形の神様が、この大杉に降臨され、悪い病気を追い払らったり、水難から救い助け、また不漁の時、お祭りをすると大漁になると言うことから、地元の他、紀州の漁師など海上の安全と大漁を祈願するためにお参りされました。

 修験者(山伏など)は、この神木にお祈りすると白蛇がのりうつると言われ、神木・霊木として信仰されています。

 古文書によると、大杉谷の大神木といって、多の県までも有名で、お参りする人々が絶えなかったそうです。この神木の左の方に杉の株がありますが、この株は「大杉神社の旧社」といって、今も祀られています。

 平成6年3月  宮川村教育委員会


 上記の説明板から祭神の五十猛神の神徳とされる、浮き宝の神が思い起こされる。浮き宝とは船のこと。 また紀州の漁師が山々を越えてお参りに来たと伝わるのも、五十猛神が紀の国の国魂ともされる神だからとも思える。
 白蛇がのりうつるのはおそらく大屋津姫神の意味で、大+ヤツ(夜刀)+姫神と蛇形の神と思われていたのではなかろうか。


大杉 直径3m 高さ40m


 

まったくの余談
所で、江馬(エマ)と大杉、これから連想してしまうのが、享保年間の江戸での流行神の大杉明神である。 茨城県稲敷郡桜川村に鎮座する名社で、これが東京都葛飾区の香取神社に突如として飛来、爆発的に信仰を集めたとか。 『民族神道論』宮田登著によると、『月見堂見聞集』には、「安葉大杉大明神、悪魔払いふてよいさ、世がよいさよいさ」との踊り歌が歌われたとか。 この安葉は常陸国安馬大杉大明神と称されていた安馬で、別に阿波とも記されている。通称あんばさまとされる神社で苔野神社(福島県双葉郡浪江町)には、闇淤加美神、五十猛神、大屋津姫命、抓津姫命が祀られており、 ヤマトタケル尊が東征途中、ここに五十猛命を祀ったと伝わっている。

 流行神の大杉明神は、大杉神社と言い、倭大物主櫛甕玉大神 (配祀)大己貴大神 少彦名大神を祭神とし、アンバについては、 当地を「常陸風土記」により、安婆じまの地と称したと 説明されている。



大杉神社のお姿 

  宮川の上流に貯水池(ダム)があり、村営バスの終点が大杉。大杉谷キャンプ場や大台ヶ原方面への登山センターがある。 バスはJR三瀬谷駅から1時間半程度、村人は200円、村外者は1,000円。 終点で次のバスの時間までは30分、その次は2時間30分後、所が神社往復約30分強、これでは2時間ほど時間をつぶさねばと思っていたが、 バスが途中でファンベルトが焼けてしまい、動きのとれない故障車となるとのトラブルに巻き込まれた。
 しかし通りがかった親切な村の若い人の車に乗り換える事が出来、定刻通り登拝口まで行くととが出来、 また当然の事ながら代替のバスが約30分遅れとなったので、うまく帰りのバスに乗れたというお話。
 更に1時間に一本のJRに程良く間に合い、今回は予定外だった神社に参詣できる幸運を得ました。

 神社巡りをやっていたら、トラブルも幸いになると言うお話でした。

 大杉の左手に磐座群があり、古い祭祀遺跡ではと思われる。 またどこからともなく水が流れており、断層があるのかも知れない。この水が大杉を育んだのであろう。素晴らしい聖地であった。

大杉神社のお祭り

  不明




三重県神社誌
『日本の神々』白水社
『平成祭礼データ』


 棒屋神社
松阪市菅生町


社景



交通案内
近鉄山田線 櫛田駅 北へ1.5km its-mo

祭神
五十猛命

由緒
 捧屋と書くのが正しいようだ。オイクラノ、オサヤノと訓むようだ。 屋をクラと訓むとすれば、座の意味があるのかも。 オイヤと訓むとすれば大屋に通じ、大屋比古を五十猛とする『先代旧事本紀』の記述にあう。
 地元の方のお話では、神職さんはスギヤと訓むと言われているとか。地元ではボウヤで通っている。

 式内社の棒屋神社は当地と西数百米の飯野郡立利村(松阪市立田町)また度会郡大宮町船木などがあげられている。

 鎮座地候補と祭神とはどちらが先か判らないが、船木は素盞嗚尊五十猛命の樹種を植えた神話からの想像かも知れない、 またスギヤはやはり樹木に関係し、ボウヤなどは大屋に通じ、五十猛尊を祭神としたものだろう。


社景



お姿
  元々現在地の西北の天王社の森にあったようだが、奈々美神社に合祀され、昭和四十三年になって遷宮を行ったとのことである。 公民館の背後の一角に鳥居と小祠がある。遠くからでは神社とは見えない。
 祠の屋根に角材があり、屋根の上の棒のように見える。棒屋のイメージか。


社景





お祭
 例祭日    

参考 『式内社調査報告』

五十猛命ホームページ
神奈備にようこそ