崇道神社・伊多太神社
京都市左京区上高野西明寺山町34 its-mo


崇道神社の鳥居


交通案内
 京福電鉄八瀬行 三宅八幡下車 川を渡り東へ7分

 

祭神
 崇道神社「早良親王」

摂社 いずれも式内社に比定されている。
伊多太神社「伊多太大神」
小野神社「小野妹子冥、小野毛人命」
出雲高野神社

由緒

崇道神社


 桓武天皇の皇弟早良親王(崇道天皇の諱を追尊)を奉祀する旧高野村の産土の社で、その創建年代は貞観年間(859−877年)と伝わるが、詳かでない。
 早良親王は反桓武勢力の中心と目され、延暦4年(785年)に長岡京使藤原種継暗殺事件がおこり、親王も関係ありとされて、淡路へ配流の道中大山崎で怨念を残しつつ憤死された。屍は淡路島に葬られた。
 その後朝廷を始め、都の内外に不吉な事故と奇妙な異変が続発した。これらの怪異天災は親王の怨念の祟りがあると占に出たために、御霊神となった親王の鎮魂の行事が盛んに行われた。 桓武天皇は親王に崇道天皇の追号を送り、墓を山陵とする等した。
 崇道神社は、平安時代に都の鬼門に当たると共に北陸への要衝のこの高野の地に御霊社として登場、親王を祀ることになったのである。

伊多太神社


 出雲郷の農業神であったとされる。大正4年、崇道神社内に伊多太神社は合祀された。
伊多太神社は式内社である。「いたた」と呼ばれるが「湯立」「いだて」が訛ったものとされる。五十猛命である。

伊多太神社の元の鎮座地 大明神町



お姿

鳥居

 崇道神社は西明寺山の南にあり、木々が鬱蒼としている良い雰囲気の神社である。 伊多太神社は左側に鎮座している。崇道神社の入り口に伊多太神社の石碑が立っている。

崇道神社の御旅所 北田町

お祭
 5月5日 例祭

式内社調査報告 第一巻 山城國愛宕郡 伊多太神社

【社名】 河内金剛寺本、九條家本、天理圖書舘所蔵吉田家本も共に「イタタ」と訓をつけてゐる。イタタノ神社である。『神社覈録』は「伊多太」の文字について「假字也」とする。

 【由緒】 不詳。

 【所在】 不詳。有力な論社であり現在その名を称してゐる伊多太神社()は、京都市左京區上高野西明寺山町三四番地(愛宕郡高野村字西明寺)にある崇道神牡の境内に祀られてゐる。もとこの神社は崇道神虹の西約四百五十米の奮愛宕郡高野村字大明神にあつたが、明治四十一年にその遥拝所のあつた現在地に遷され、舊跡にはかつての所在を示す石碑が建てられてゐる。現在地は京福電銀叡山線三宅八幡驛の東北約六百米の地點であり、舊跡は同驛の北約五百米の地點である。  いま一つの論社として擧げられてゐる江文神社)は、京都市左京區大原野村町六四三番地(愛宕郡大原村字宮山)にある。ここは京編電鐡叡山線入瀬驛の北五粁餘の地點である。

 【論牡考證】桑原弘雄の『神名帳考證』は伊多太神社について考証を加へ、江文神社をもつてこれにあて、
  今在二大原井出村一江文社 多奈尾祀 今大原坐江文明神乎、江與レ屋言通、祇語崖 言通、文與レ紙語渉、五十猛神播二樹種一 有二民安居一、故稱大屋彦神→、伊勢國士夫彌神社、夫彌津姫也、井出村伊多太語通、
と述べてゐる。しかし『山城志』は「在二高野村西山麓一今稱二伊多伊多宮一」と述べ、現在の伊多太神社にあててゐる。『山城名勝志』もこれに従ひ、
 いたいたの大明神、按神名帳云伊多太神社愛宕郡ニアリ、疑此社歟、今高野村西山際二森アリ、社ハ絶ユ、有二社領田字一 九月九日祭レ之、土人いたいた大明神卜、云、
と記す。『鳥邑縣纂書』もまた現在の伊多太神社説をとる。『山城國式社考』は江文・いたいたの雨説をあげ、「猶可レ考」とする。伴信友の『神名帳考證』もまた両説を併記してゐる。
 『神社覈録』は「在所今廃亡す、高野村西北の山際に舊跡の森あり」と記し、吉田東伍『大日本地名辭書』も「今高野の西に山に倚りて伊多伊多森あり、祠字を見ず」と記し、共にいたいた大明神説をとる。『特選神名牒』はこれを承け、「今按、山城名勝志高野村崇道天皇末社九神の中にいたいた大明神(中略)今も社壇の跡に雑樹繁茂せるが、其四方に注連縄を亘して土人今尚敬禮すと云へば、是其舊趾なるべし」とする。志賀剛氏もまたこれに随つてゐる(『式内社の研究』第三巻)。
 現在では江文神社説は否定されてゐるが、参考までに江文神社の由緒を記すと、この神社は三千院の守護神(鎮守の社)として創祀されたといひ、また延暦寺座主慈覚大師の勧請によつて創祀されたとも傳へてをり、山王神道と関係の深い神社である。三千院が大原の地に移つたのは十二世紀中頃であるが、慈寛大師の創祀とすれは延喜年間すでに江文神社は大原の地にあつたことになる。中世には榮えた神社であつたが、信長による比叡山壓迫により、また衰退したといふ。

【祭神】 不詳。現在の伊多太神社の祭祀も詳かでないが、『鳥邑縣纂書』は「賀茂明神ノ御兄ナリ、然ドモ痛ミ所アル故二此所二留ヅ玉ツテ、加モヘハ遷り玉ハストソ」と記す。志賀剛氏は、この地は湧水が豊かで社殿の下部が井桁になつてゐるところから、元は井戸の上に祀られてゐた水神であつたことを示すとされるが(前掲書)、現在の社殿は明治十六年の再建になるもので、これをもつて本来の祭神を推定するわけにはゆかない。『崇道神社誌』は、古来より「この土地とともにあつた地主神であり、古代信仰・自然信仰から生れた神社であつた」と述べてゐる。

 参考までに江文神社の祭祀を記すと、倉稻魂命である。なほ、江文神社には境内社として級長津彦神社(級長津彦命・發鳥神)、軻遇突智神社(軻遇突智神・飯道山神・八幡宮)、満山神社(愛宕神・御霊神・鹿嶋神)、天満宮社(天満宮・相荷神)が、境外攝社として大原大長瀬町に梅ノ宮神社がある。

【祭祀】 現在伊多太神社を稱してゐる神社の例祭日は九月九日であり、崇道神社の神職(現在は中津川重務氏。兼務である。氏子の推薦により就任)が執行してゐる。「神事は、古来よりほば出雲系の神社の様式で行はれ、祭禮にあたつては宮中に奉仕する女子を巫子にしたと傳へられてゐる」(『崇道神社誌』)といふ。この神社は現在も「いたいた大明神」「いたいいたい神社」などと俗稱され、頭痛・のぼせその他、頭の病に霊驗があるといはれてをり、いまも信仰が絶えないといふ(同前)。この神社が再建された明治十六年の氏子敷は三百人だつたが、同二十五年には百四十人に減じてゐる(神社明細帳)。明治四十一年崇道神社に合併されてからはこの神社だけの氏子はなくなる。
 なほ江文神社については、例祭日は五月五日(以前は五月十五日)で、九月一日の八朔の祭には午後に湯立ての神事があり、その後に謡曲の奉納があり、更に夜には大原に傳はる踊りの奉納がみられる。この神社の宮司も中津川重務氏で、ここが本務社である。以前は近くの金比羅官の神職野田友衛門氏の兼務だつたが、野田氏のあと氏子の推薦で中津川氏が就任した。かつては宮座があり神牡の世話をしてゐたが、現在は消滅してゐるといふ。氏子區域は大原八ケ町である。

【牡澱】 現在伊多太神社を稱してゐる神社は、明治四十三年の井口光次郎による『村社崇道社由緒書』によると「當郷西山ノ麓森ノ内二坐ス、今御社ハ絶テ森ノミ残セリ、昔ハ社領アリ九日田卜云フハ此社領ノ名、豊臣秀吉公ノ時社領ヲ被没収云也、然レドモ其郷民毎年九月九日カタノゴトク祭之」といふ(『崇道神社誌』参照)。社殿は明治十六年の再建になるもので、流造柿葺の小社(上屋あり)であり、明治四十一年現在地に移建された。
 なほ参考までに江文神社について記すと、本殿は流造り檜皮葺、梁行一間九寸、桁行一間二尺七寸で、その両側の 級長津彦神社および軻遇突智神虹もほば同様の本殿を有する。満山神社と天満宮社は小社である。その外に拝殿・神庫等がある。

【境内地】 現在伊多太神社を稱してゐる神社の舊境内地は三十二坪で、明治十六年社殿が再建されるまで、森だけであった。現在この地は宅地造成などの影響で昔日の面影はほとんどないが、「伊多太大社舊址」と記した石碑が建て られてゐる。現在社殿があるのは崇道神社の境内であり、かつて伊多太神社の遥拝所のあつたところである。
 なほ、江文神社について記すと、この神社は大原井出町の集落から八百米程山の方へ入つたところにあり、境内地 は千百六十七坪である。

【寶物・遺文】 伊多太神社・江文神社共に特記すべきものなし。    (泉谷康夫)

式内社調査報告
5頁4・3頁2・1頁

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