守居神社
大阪府守口市土居町61番地mapfan

鳥居

交通案内
京阪電鉄土居駅 北西300m


祭神
素盞嗚尊、賀茂別雷神
『社記』 天道神・太歳神・歳殺神、また素盞嗚尊・三輪明神・清瀧明神・日吉権現・新羅明神・三井神

拝殿



由緒
 祭神の一説に新羅明神・三井神とあり、近江の園城寺(三井寺)の鎮守である新羅明神をして、五十猛命としたので、当社の祭神をも五十猛命かも知れないとして参詣した。
 この近くを高瀬川(淀川)が流れていた。 『播磨国風土記』賀古の郡に、大帯日子命(景行天皇)が摂津の国の高瀬の済(渡し)から、この川を渡ろうと思って渡し守に頼んだ。 紀伊国生まれの渡し守の小玉が「あなたの贄人(召使い)ではない。」と主張、渡し賃を取った話がでているが、 この地域即ち淀川の水運を司っていたのが紀氏の一族であったことを示している説話であろう。 紀氏の跋扈する所、紀の国魂あり、即ち五十猛命が祭神であってもおかしくはない。

本殿


お姿
 土居駅北側の商店街の一角に鎮座、参詣客が絶えない。 鳥居をくぐると右側に由緒ありそうな石が祀られている。『社記』に、西南石礫(せいなんせきれき)の渕で、「我天道神也、我を祀れと振鈴の声で告げがあった」とある神の降臨の石かも。 月例祭の日であったのでか、境内は清掃が行き届き、玉砂利をしいてある場所などへの立入禁止も守られている。 境内は広く、木々も豊かで、下町の鎮守として大切にされているようだ。


お祭り
 10月20日 例祭

磐座


『平成祭礼データ』守居神社


当社は醍醐天皇延喜十八年九月十九日(九一八年)此の地に鎮座して、素盞嗚尊・賀茂別雷神をお祀りしてあります。 社記に天道神・太歳神・歳殺神、また素盞嗚尊。三輪明神・清瀧明神・日吉権現・新羅明神・三井神とも書いてあります。いづれも淀川流域の守護神として此の地に土居を築き社殿を構えてお祀りされたのが創りで、地名を土居の庄と称し、昔は土居神社と称号されておりました。
明治五年八月に守口町大字土居字田東(現在の滝井)産土神社(祭神素盞嗚尊)を、また明治四十年十月十日に守口町字猿島(現在の桃町)大隅神社(祭神賀茂別雷神で昔は渦神社と称していた)が合祀されてより守口の総氏神として守居神社と改称されました。
当社の社記によりますと、後宇多天皇建治年間(一二七五年)釈法仍沙門、当社を以って神佛護法の道場とし、霊感によりて本地垂迹説を称へ三社の神体を奉じて祈祷修法を行い「神威の高貴なること他に異にして、親しく横難中夭の危を救い給う、諸願満足すること幾千万と云う数を知らず」と記されてあり往時より御神威の赫々たる事が伺い知られます。
後小松天皇嘉慶年間(一三八七年)此の地方にも兵乱起り疫病頻りに流行したので人々殺生五辛を禁断し僧不閑沙門当社に祈願して災厄を静め難を遁れたとされています。
次いで後花園天皇寛正四年(一四六三年)再び悪疫流行のあった時、嘉慶の例にならい悪事災難を除く為に美花を作りて祭祀を修し、鎮花の災祭を行ったとあり、現今の夏祭として今に伝えています。
天文十三年(一五四四年)に林海の記した当社の由来記、又寶暦十三年(一七六三年)圓龍の写書等によりますと、天文十三年七月九日前代未聞の大洪水があり大門鳥居流失し社殿失損寳殿流損したので地方に寄進を仰いで辛うじて其の社域を再興した。この時まで王城守護として北東向きであった神殿を南向に、寶殿を改造し営構したが昔日の結構には遥か及ばなかったという記録がみえます。
昭和九年九月二十一日の室戸台風で社域の惨状恐懼の至りと成ったので氏子崇敬者の寄進を仰いで境内地を拡張し現今の社殿に造営営繕が進められ昭和十六年十月総工事竣成し遷座奉祝祭が盛大に執り行われました。
昭和二十三年六月当社奉賛会結成発足、爾来、逐年境内整備・社務所新築・社殿屋根造替・石玉垣・社號標建立・手水舎造替・大石磨鳥居建替・狛犬燈籠奉献等諸施設竣成し、遠近の参詣者は日増しに多く、諸願満足・悪疫防除・災厄解除・開運繁栄・福徳守護の御神徳益々輝いています。



参考:『守居神社御由緒』

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