御霊神社・落杣神社摂社大屋比古神社
五條市黒駒町376 落杣神社ゼンリン


交通案内

奈良県 五條市 黒駒 大和二見駅から西に行き犬飼から紀ノ川を渡る。左側の山

祭神

井上内親王


地域の合祀された神社(地域名)
天照皇大神社(表野)祭神 天照皇大神
八幡神社(大津)祭神 譽田別尊
稲荷神社(中町)祭神 保食神
八王子神社(大打)祭神 八王子神
大屋比古神社(山陰)祭神 大屋比古神(大綾津日神)


由緒

 御霊神社
 御祭神は光仁天皇皇后で聖武天皇皇女井上内親王である。 奈良時代、大仏建立などの大事業を進められた聖武天皇の皇女として、717年にお生れになり、721年、5歳にして伊勢皇大神宮に斎宮として出仕、任終えて後、白壁王の妃となられました。 770年、白壁王(62歳)即位、第49代光仁天皇となられ、同時に内親王(54歳)は皇后になられ、翌年、御子他戸親王(11歳)も皇太子となられました。 けれども、翌年、巫ごの罪(巫女に天皇を呪う祈祷をさせた罪)で皇后を廃され、他戸親王も皇太子を廃されました。 更に翌773年、厭魅の罪(人を呪う呪いをした罪)で親子共に、流罪となり、大和国宇智郡の没官の宅の土舎に幽閉されました。 奈良時代末期の混乱と政権争いの中で、光仁天皇妃高野和新笠の御子山部親王(後の第50代桓武天皇)を擁立する、藤原朝臣百川の策謀によるものと伝えられています。
 775年4月27日、母子とも逝去されました。又、配流のこの地で、御子をお産みになったと伝えられ、若宮火雷神として御山町に祀られています。 没後、都に天変地変相次ぎ、悪疫流行したため、母子のたたりと恐れた天皇は、翌年、600人の僧に金剛般若経を読ましめ霊を慰められました。 翌777年、勅使を当地に差し向け、墳墓を改葬し御墓と称し墓守を置いて守護させました。
 その後、800年に勅使葛井王下向し、皇后の位に復し、霊安寺に御霊神社が建立されていくこととなります。『御霊信仰』の起源fです。

御霊神社の鳥居と社殿


 1238年嘉禎4年2月、吉原・牧野両豪族の論争がきっかけとなって宮分けが始まります。 御霊信仰が、盛んになり、宇智郡一円の氏神として、信仰をあつめるようになると、身近な所に御霊さんをお祭りしたいと願うようになってきた為、宮分けがすすみました。 現在五條市内に祭祀される御霊神社は20社にのぼります。 当黒駒町に鎮座する御霊神社は、1238年、最初に宮分けがおこなわれた11社の内にあります。 当地に伝わる宮分け伝説によると、「阪合部地区の氏子は、当初犬飼に分祀する予定であったが、黒駒の落杣神社のあたりまでお渡りしてくると足が動かなくなり、この地に祀るようにと言う神意であろうと考え落杣の森にお祀りすることになった。」と伝えている。

 大屋比古神社 五條市山陰町220 ゼンリン
 御霊神社の南1km程の山陰(やまかげ)に大屋比古神社と五社神社、八坂神社、宝木神社、厳島神社が合祀されていた。 それが更に御霊神社・落杣神社の摂社となった。境内には摂社が幾つかあるのだが、残念ながら神社名は消えてしまって現在判読できるのは猿田彦社のみである。

 山陰には「山陰町今昔誌研究会」による山陰史跡略地図が道端に掲示されており、上記の山陰の各神社の合祀社跡の場所が判る。 山陰町220の金剛寺に隣接した粗末な建物の中に合祀社の神殿が残っている。
 地域の人々の心にそわない御霊神社への合祀であったように思われる。
 なお大屋比古神社の祭神は大屋比古神(大綾津日神)と記されている。

山陰合祀跡とその中の神殿


お姿

 大和二見駅から西に行き犬飼から紀ノ川を渡る。富貴方面へのバス道である。このバスは一日3便である。犬飼は狩場明神に通じ、富貴もまや丹生都比売神に通じる。ここも下流に五十猛命が祀られている。
 神社は小山の頂上に鎮座、木々に埋もれている。楠、杉、檜などが目立つ。

お祭り

例祭 10月23日

五十猛命ホームページ
神奈備にようこそ