高岳神社
姫路市今宿8its-mo


神社正門


交通

姫新線播磨高岡駅 北 800m



祭神

應神天皇、仲哀天皇、崇道天皇、事代主命、猿田彦神、住吉大神、伊予親王、藤原夫人、宇賀魂神、市杵嶋姫神、水分神

社伝によれば、始め八丈岩山にあったのを、天長三年(826年)に蛤山に遷し、社殿を創祀したという。
また、『播磨国風土記』の中の因達の里 飾磨の郡 因達の里 因達と称するのは、息長帯比売命が韓国を平定しようと思って御渡海なされた時、御船前(先導神)の伊太 の神がこの処においでになる。
この二つの記述から祭神は五十猛命とも推定できる。


社殿



由緒

 式内社。鎮座地は蛤山の南端中腹。『播磨国風土記』の、「餝磨の郡・巨智の里(こち)」の条に、草上の村・大立の丘、右は巨智らが、始めてこの村に居住した。 だからこれによって名とした。
 草上というわけは、韓人の山村たちの上祖・柞巨智賀那
*1がこの地を請いうけて田を開墾したとき、一つの草叢があってひどく臭かった。だから草上とよぶ。
 大立の丘と称するわけは、品太天皇がこの丘にお立ちになって地形をご覧になった。だから大立の丘とよぶ。
*1:柞は奈良、巨智は朝鮮の地名、賀那は名。『姓氏録』では巨智氏は秦の太子故亥の後裔。(『風土記:吉野裕訳』)

 『風土記』から千年後に書かれた『播磨鑑』では應神天皇、仲哀天皇の二神を式内の神としていると『日本の神々2』に記されている。

 風土記の地名説話の「臭いから草」では草に失礼であり、『万葉集』巻九ー一七八四の
 贈入唐使歌一首
 海若之 何神乎 齊祈者歟 徃方毛来方毛 船之早兼
 海神のいづれの神を祈らばか行くさも来さも船の早けむ
 
わたつみの,いづれのかみを,いのらばか,ゆくさもくさも,ふねのはやけむ
 と歌われる往来方の地をクサとしたのではなかろうか。(『古代播磨の地名は語る』姫路文庫 より)
 この説明は納得できる。姫路平野は船の行き通う海であったことが、風土記の記述からも推測でき、紀の国の「名草」のクサも紀の川の船の往来の地に関係していないだろうか。 更に思いをはせれば、草香、日下などのクサも日の出に関連して説明されるのだが、同時にまた船着き場の様相もある。

 神社の社伝によれば、始め八丈岩山にあったのを、天長三年(826年)に蛤山に遷し、社殿を創祀したという。 確かに八丈岩山頂上には高丘神社舊地の石碑が立てられているが、蛤山の現社地は、巨大な磐座が屹立しており、古代からの聖地であったはずで、『風土記』の記事では八丈岩山が多く取り上げられており、蛤山は出てこないことが社伝に反映しているのであろうと思われる。


左が本殿、中央に桜、右に磐座



お姿 

 蛤山は振袖山ともよばれる。東からながめると南北に長い山で、振り袖を連想したのだろうか。木々が少なく岩がむき出している様子が見えるが、往古には木々も多く、紅葉したものをながめたのであろうか。

 神社は岩盤の上に鎮座しているようで、生石神社の石造物を切り出す以前のような雰囲気である。 屹立している磐座は幾つかあり、鳥居と玉垣で囲まれている。

 蛤山は崩れやすいのか、崩れたものが下部の住宅などの流れ込まない防止工事がなされている。 他の方法はないのだろうか。


磐座


お祭り 

 5月15日 春季大祭
 7月13日 夏季大祭
10月 9日、10日 秋祭 

平成祭礼データ 高丘神社から

御由緒
当社は延喜式内の社にして国内神名帳大神二十四社の内八所明神の一なる当国第五の 宮にして旧安室郷の総氏神なり時の武将世々の国司領主の尊崇厚く延暦元年坂上田村 麿幣帛を奉り寛元年中鎌倉幕府北条経時佐貫十郎を遣して祈雨祭を行い天文元年赤松 政則本殿を修復して草上の地五町を献じ寛永十八年姫路城主松平下総守神供料を寄附 し、以降累代の城主之を安堵とす。さて、初め当社は新在家八疊岩山に祀られしを天 長三年九月九日に此蛤山に奉遷す、此所は和名抄に草上郷とある所にして後安室郷と なれり。境内には巨大なる岩石多く殊に社殿の背後にそびゆるもの最も怪奇なり、昔 土地の人此岩上にて蛤を拾い福徳長寿の幸を得しかば名付けて蛤岩と称す。当社の宝 物に蛤の化石今に伝わり明治七年二月郷社に列し、昭和七年県社に昇格す。
以上

兵庫県神社誌(昭和十三年)
『播磨国風土記』を歩く 寺林峻 神戸新聞社
『日本の神々2』白水社
『風土記』吉野裕訳 平凡社

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