佐賀県三養基郡基山町 荒穂神社 |
佐賀県三養基郡基山町大字宮浦2050 its-mo 荒穂神社は基山を神体山としている。社殿の背後は基山 交通案内
荒穂神社拝殿
霊霊石または玉玉石
霊霊石と契山 草むらの向こうの山、遠くは背振山系
日本の植樹はじめの説明 基山の草スキー場の下にある。
荒穂神社の伝説の石三体
荒穂神社社殿 |
佐賀郡大和町大字梅野2552 its-mo
祭神
由緒
『佐賀県神社誌』には、石華表に聖武天皇皇后云々嵯峨天皇橘嘉智無御子云々仁明天皇云々等とあるが摩滅して読む能す。
と記されていた。梅宮大社との関連であろうが、五十猛命については何故であろうか。 『肥前風土記』に荒ぶる神の話がいくつか載っており、この中に五十猛命を祀る荒穂神社や筑紫神社の関連が見える。 この説話とこの神社とを結びつけにくいが、地勢から見て、五十猛命は梅宮大社からの勧請以前からこの地で祀られていたかも知れない。 お姿 梅野山は川上川(嘉瀬川)の東の山地を言う。集落も東岸に開けた谷間にある。 お祭り
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交通案内
祭神
由緒
玄松子様ご提供資料の『佐賀縣神社誌要』(洋学堂 大正十五年十一月 佐賀縣神職会発行 平成七年六月復刻)の由緒 玄松子様ご提供資料の『明治神社誌料』(講談社 明治四十五年一月発行 昭和五十年十一月復刻)の由緒 乙護法大明神とも五社八幡宮とも言う。
お姿
お祭り 例祭日 十月 第二日曜日 |
杵島郡大町町大字大町5691 mapfan
祭神
由緒 お姿
お祭り
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杵島郡白石町大字馬洗(もうらい)2490 ゼンリン
祭神
由緒 当社を豊前坊と称したのは神仏習合の名残の修験道との習合である。 この社伝から祭神の抓津彦命は五十猛命と言うことになる。
お姿 石造肥前鳥居があり、一の鳥居は明暦五(1,658)年、二の鳥居は50年古く慶長十三(1,608)年製で、鍋島藩城主の時の建立である。 肥前鳥居は笠木、鳥木、貫および柱は三本継ぎであり、柱は下部ほど太くなる特徴がある。 境内の土壌の色が和歌山市の伊太祁曽神社の土と若干薄いがほぼ同じであった。杵島郡の南の藤津郡は丹沙の産地であった。 勇猛山(ゆもう)を神奈備山とするように見える。勇猛神の名で五十猛命は豊前国下毛郡の貴船神社に合祀されている。
いかにも勇猛は五十猛、勇=五十、いさ、いそ、いであろう。五十猛命を有功の神と言うのも樹木を植えたからとの説明であるが、勇ましいのイサかも知れない。 社務所の前に印鑰石がある。印鑰神社をこの社の前身とする見方がある。 お祭り
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杵島郡有明町大字辺田2925 its-mo
祭神
由緒
『消された覇王』(小椋一葉:河出書房新社)に五十猛が半島から帰国時着岸した海岸が、稲佐山麓八艘帆ヶ崎(はすぽ)と記されている。この言い伝えが実際にあったとすると当地は五十猛命の上陸伝承の地と言うことになる。
八艘帆が崎の説明板から引用する。
八艘帆が崎(はっすぼがさき)
一、口伝によれば稲佐大明神着岸のところを焼天神と伝えている。
二、神代の時、素盞嗚尊の子、五十猛命は孤津、大屋津命と共に韓地より樹種を持ち帰り、この岬に着岸され全山に植林せられたと言われている。
三、稲佐山累縁記によれば、百済聖明王の王子阿佐太子は、欽明天皇の勅命に依り、火ノ君を頼り稲佐に妻子従房数十人、八艘の船にて来航、座所二カ所を設けらる。 一を北の御所と言い、一を太子庵という。この岬に八艘の帆を埋没したので、その後八艘帆が崎と言う。
四、平城天皇大同二年、空海上人(弘法大師)帰朝し、ここ八艘帆が崎に上陸、太子庵にて稲佐山開創の事務を執らる。
補、焼天神の地域は、八艘帆が崎と同じである。
平成四年四月吉日 御即位大嘗祭記念
佐賀県神社誌(縣社 稲佐神社)から
徐福が不老不死の薬草を探しに来たとの伝承が残る。(角川歴史地名辞典) 杵島山は佐賀藩の御猟場となり、里人の立ち入りが許されず、杵島山についての古伝承は殆ど失われたが、五十猛神がこの山に樹木の種をまいて繁茂させ、「木の山」と呼ばれたと云う話は伝えられて来た。(平凡社 地名辞典)
山の中腹に鎮座、相当な登りである。社殿前の鳥居の前には流鏑馬神事を行う無舗装の道がついている。 杵島山風土記逸文によると、杵島山には南西から北東にかけて三つの峰があり、南西の峰を比古神、中の峰を比売神、北東の峰を御子神と称すという。御子神は別名軍神とも呼ばれ、この峰が鳴動すると戦いが始まると言い伝えられている。 神仏混淆で盛んな頃は六十坊を数えたと言う。 樹齢600年の大楠がある。
お祭り
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藤津郡太良町大字多良8378 mapfan
祭神
由緒
この地域の荒穂神社は基山の荒穂神社からの勧請であろうから、祭神は五十猛命であって瓊瓊杵尊は後世に置き換わったものと考える。 『筑前国続風土記』にも、元社と思われる基山の荒穂明神について、「五十猛神なるべし、瓊瓊杵尊とは俗の付会せる説なるべしといへり。」と記されている。 合祀の際、多良嶽頂上の太良嶽神社を上宮として残した。神社庁平成祭礼データCDによると、現在上宮の祭神に五十猛命の名がなく、素盞嗚尊とされる。 『佐賀県神社誌』によれば、和銅年間以前の鎮座としている頂上の多良嶽神社の祭神を大山祇神とするも、一説には五十猛命と記している。 多良岳は標高1,076mの経ヶ岳を主峰とする山系の内の標高983mの秀麗な山容の山である。 地名の通りタタラ製鉄が行われていた地域であり、水銀の丹生神社も藤津郡には多い。 藤津郡本城村の住人角大夫という者、性至りて純直、大人の風あり、ある日。降雨の際、山路を通行せりに俄然天空より金色の御幣落下せるを見、 直に笠を以て之を受け、此の神秘なる現象に感動せし同人は床上に安置、その夜、夢に荘厳なる神体現れ、「吾は多良嶽祭神なり」と告け給ふと思えば、夢覚め大いに驚き、御幣を同社に奉遷したという。 『肥前古跡縁起』から(角川歴史地名辞典からの孫引き) 太郎嶽大権現は天竺摩訶陀国の大王の神霊也。本地千手観音、弥陀、釈迦三身一体の垂迹にして和銅年中(708〜)の草創也。 南より西に当たり四つの山有り。四面の民と云、是は四面大菩薩常に影向し給ふ霊地也。 其頭に弁財天、其下に仏ノ辻と云所有。此処は大権現来朝の御時降臨有りけれども殺生の浦近くにて不浄の穢風を忌給ひ此の太郎嶽の上宮に上らせ給ひぬ。 上宮の太良岳神社の下に神宮寺であった金泉寺があり、人々の崇敬が深かったが、天正十一(1583)年に耶蘇教徒のため焼失され、爵恵という僧が三尊像を負うてやっと太良窟に逃れたという旨が記されている。 お姿
多良岳山頂にもコンクリート製の祠が置かれているそうである。 「HP月の引力が見える町」の上宮の写真 お祭り 1月 6日 お火焚き(鬼火たき、ほんげんぎょう) |
長崎県島原市宮の町247番地 its-mo
祭神
配祀 譽田別命、大綿津見命、天照大日命、天津兒屋根命、
菅原道眞、沫那藝命、沫那美命、國常立命、彌都波能賣命、猿田毘古命、 現仁命、多紀理比賣命、狹依比賣命、多紀津毘賣命、奇稻田比賣命、神速須佐能男命、
八男子命、大國主命、大山咋命、八重事代主神、御年神、大年神、若年神、志賀神、猿田彦神、宮毘神 由緒 その創祀は遠く不明であるが、森岳の森は神を祭る木の茂った聖地の意味で、岳は神聖な高地を意味する。この聖なる森岳に迎え祭った神は、森信仰の神であることには想像するにかたくない。森の神は地主神であり、農の神である。その神格は周辺の集落を開き造り始めた住民たちの祖霊と習合する民俗信仰にもとづいたものである。 島原半島を領した松倉重政公が築城するにあたって、森岳大権現を鷹島(今の高島町)に移し鷹島大権現と改めた。さらに寛永2(1625)年に森岳城の鬼門にあたる現在地に神苑を営み社殿を新たに設け遷座した。それから高力氏をへて、延宝3(1675)年8月15日に松平忠房公は社殿を改造したのを機に、かねて考証させていた、侍講の伊藤栄治の説を採用して猛島大明神と改めた。 その祭神論は猛島社本記に詳しいが、旧社地の鷹島は五十猛神に由来すると推論し、木の神、有功の神であると考証した。伊藤栄治の祭神考の正否はとにかくとして、島原の鎮守の神として古くから信仰され、住民に崇敬されていたことは疑いのないことである。 森岳域の守護神島原城下の氏神、島原領民の総社、島原半島を代表する神社として昭和58年に360年祭も行った。不知火燃える有明海に臨む聖地は、森岳に再建された島原城を指呼の間に眺め、在りし日の森岳大明神の歴史を偲ばせ、背後に眉山の優姿、はるかに雲仙岳の霊峰を仰ぐ。神苑は広荘、白鳥の浮く御手洗池には、神さびた老松が影をうつし、磯辺に寄する白波のさざめき、そよ吹く松風の音は悠久の歴史をささやき、社殿の荘麗と古雅とあいまって、森厳きまわりなく、おのずから、鎮守の森にふさわしい霊気をただよわせている。 お姿
お祭り
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長崎県南高来郡小浜町雲仙319番地 雲仙観光協会
交通案内
祭神
由緒 「平成祭礼データ」から 祭神(5柱) 鎮座(歳月不明) 位階(従五位上) 社格 五十猛命 雲仙にはニニギノ命の降臨伝承が残る。『温泉山縁起』にここに降りて、308,545年間国を治めたとあるそうである。 30+8+5+4+5=52、52年間の意であろうか。 雲仙山周辺には紀元前2,300年の稲作の跡や、石器、縄文、弥生の遺跡が数多い地域である。 南方からの漂着者が絶えなかったのであろうし、また噴火などで住民が継続しておらず、遺跡が残りやすかったと言えるだろう。 お姿
お祭り
摂社 木花開耶姫神社 古来より造化の神として霊験あらたかなりとして長く祀られてきた。 雲仙祭祀の当社には男女の性の巨大なシンボルが鎮座ましている。 元禄の頃より祀られたもので、詣でれば、向かって右に女陰、左に男根があって思わずギョッとさせられる。 男はこぞって自分の持ち物が大きく太く逞しくあるように祈り、また女性はあな「オソロシ」とため息をつくそうである。 この男根女陰崇拝の風習は長く伝えらて来たので、参拝者は家内安全和合、子宝また良縁の神として拝むべし、と記されている。 五十猛命ホームページ 神奈備にようこそ |