宮崎・鹿児島の五十猛命

萩之嶺神社

五十猛神社

紀伊神社

都萬神社

韓国宇豆峯神社

剱神社


 萩之嶺神社
宮崎県日南市大字萩之嶺字東原2845 ゼンリン

鳥居


交通案内
日南駅からコミニティバス萩之嶺下車 すこし戻り北へ200m

祭神
五十猛命、保食神、熊野杼樟日命、経津主命

拝殿

由緒
 『日向地誌』によると、宮の原にあった鳥巣大明神は和銅二年(709)の創建と言う。五十猛命を祭神としていたのだろう。
 宮の尾に鎮座していて中古神祠が失火したため寺の馬場に遷座していた有徳大明神には倉稲魂命が祀られていた。
 明治四年(1871)、この二神を的野の現在地に遷座し、萩之嶺神社とした。『日向国神祇史料』には他に経津主命、大山祇命が祀られているとしている。

 社頭掲示では、和銅二年に創建されたのは有徳神社で、これが萩之嶺的野に鎮座する鳥巣大明神を合祀したとある。

本殿(流造)

お姿

 日南駅でバス乗り場を尋ねたら、おばあさんがどこへいくのかと聞いてきたので萩之嶺神社へ参詣とお答えしたら、その神社ならうちの前にあると言うことで、実は場所がはっきり判らないままの旅行だったが、これで解決。ただ、地図にものってない位の小さい神社だからとのこと、ただし神楽などは熱心にやっているとのこと。五十猛神のお導きで参詣できた。

 赤い鳥居は山の端にあり、ここから150mほど苔むした参道が続く。境内、本殿の回りも苔が蒸している。赤い社殿と緑の絨毯、よく映えている。

社殿

お祭り
 2月 17日に近い日曜日  神楽
11月 15日 1日間  例祭

『宮崎県神社誌』、『平成祭CD』

 五十猛神社
宮崎県日向市大字財光寺7260 ゼンリン

鳥居


交通案内
財光寺駅から北へ600m

祭神
五十猛命 合祀 磐長姫命、宇賀魂命、建御名方命、菅原道眞
 摂社 粟島神社 木花咲耶姫命、少彦名命、神功皇后

拝殿

由緒
 元禄年間(1688〜704)豊後の国日田の代官小長谷勘左衛門が当地を支配していた時、勧請したと言う。勧請は和歌山の伊太祁曽神社が五十猛命を祀っている古社であり、ここからと思われている。
 境内に粟島神社が鎮座しているのも紀州の神々を勧請した名残なのかも知れない。

本殿    神社の風景

お姿

 道路拡幅工事で社前を削られたようだ。鳥居が新しい。さっぱりした造りの神社であるが、楠・槇・樫などが豊富な神社。
 新しい鳥居をくぐり、新しい階段を登ると手水舎、また石段で拝殿がある。拝殿の横に巨石の頭部が出ているし、神社全体が磐座の上に鎮座しているようにも見える。

粟島神社
 

神社が乗る磐

お祭り
  11月  2日 1日間  例祭

『平成祭礼データ』lから

 参拝のしおり
 五十猛神社由緒
 元禄年中豊後国日田代宮小長谷勘左衛支配の節、年月日不詳勤請したるものと謂う伝説あれ共手水鉢には、寛延四年九月吉日とあり、其他記録無之に依り詳かならず、五十猛命は素盞嗚命の御子にましまたの御名を大屋毘古命と申します。父神及び、この神の妹神とます大屋津比賣命TU津姫命と共に、韓地により樹種を将来し給ひ筑紫より始めて大八州国一帯に藩種し給ふよりて世のその恩徳の廣大なるを仰ぎ、有功神と称しまた紀伊大神とも申します。大屋毘古命は、妹神大屋津比賣命
 以上

『宮崎県神社誌』、『平成祭CD』

 紀伊神社
宮崎県児湯郡新富町大字日置2947 ゼンリン

鎮守の杜


交通案内
日向新富駅から北へ500m

祭神
五十猛命

鳥居

由緒
 古老の伝説によれば、文明の頃(1469〜87)又は明応の頃(1492〜1501)富田村鬼付女の浜に一つの木面漂着したのを日置の人が持ち帰って勧請したのが当社としている。
 天正十五年(1588)筑前国秋月公日向へ御国替の当時より崇敬の神社にして、藩公の一族たる宇都宮三郎を神官に任じ、「神主兼宮司使嫡男代々可相勤之旨被付仰」との墨付により、今に至るまで其の子孫がこれに奉仕している。

拝殿

お姿

 社殿は享保二年(1718)八月藩主の寄進にかかるもの。
 田圃の中に鎮座している。社域は楕円形のようで周辺にモチノキ・カシ・楠などの木々が取り巻いている。
 地図に場所は出ていない神社であるが、JRからも鎮守の杜と鳥居が見える。「ここだよ!」と言っているような神社。

本殿

お祭り
   3月  3日 1日間  春季大祭
  10月 18日 1日間  秋季大祭

『宮崎県神社誌』、『平成祭CD』

 都萬神社
宮崎県西都市大字妻1 ゼンリン

鳥居


交通案内
西都バスセンターから北へ700m

鳥居

祭神
木花開耶姫命(瓊々杵命の妻)
木花開耶姫命(都農神社の大己貴命と妃:播磨国風土記の許乃波奈佐久夜比売命)
抓津比女命 『神名帳考証』による。

本殿

由緒
 日向国の延喜式内社四座の一つ。
 社地の西の清流を利用して夫婦の二神が初めて田を開き、稲を育てたので、そこを井門田里(いもんだのさと)と名づけ、ここにはじめて農業が始まったという。その後、土のなかから男・女各一人が掘り出され、そこに住むようになって神社の神人となり、その末裔が神官日下部氏であるともいう。この日下部氏の繁栄と共に当社も繁栄した。承和四年(837)に官社に列せらてたと『続日本後紀』にある。

 鎮座地「妻」は『魏志倭人伝』の投馬国に比定する説がある。官を弥弥(みみ)、副を弥弥那利(みみなり)という。とある。美々津町、耳川の存在は興味のある所。

 さて抓津比女命を祭神とする考え方は単にツマという発音の共通性だけではなく、諸県と比売の兄(夫)の五十猛命との関係が見える。宇佐八幡の辛島氏は紀氏と同族だったのかと思われる氏族で、その系譜が以下の通り。
素盞嗚尊  読み  神奈備の注
五十猛命
豊都彦トヨツ   豊の国
豊津彦トヨツ   豊の国
都万津彦ツマツ  宮崎県児湯郡妻町
曽於津彦ソオツ  鹿児島県国分市 韓國宇豆峯神社
身於津彦ミオツ  日向市美々津町
照彦テル
志津喜彦シツキ  鹿児島県曽於郡志布志町
児湯彦コユ   宮崎県児湯郡
諸豆彦モロツ  児湯郡諸県
 児湯郡妻町、児湯郡諸県に五十猛命の子孫の名が関係している。そういう意味で都萬神社の祭神が都万津彦とペアとなる都万津比売(抓津比女命)であっても不思議ではない。   

摂社 大山祇神社   霧島神社、四所神社

お姿

 西都原古墳群の西側に大きい社叢をともなって鎮座している。樹齢1200年の楠の古木を始め、高さ40mを越える楠木が林立している境内であり、「妻のクス」として国の天然記念物、植樹の神五十猛神の妹神の鎮座地らしい雰囲気。
 池か掘には水が蕩々と流れ込んでいる。東向きに鳥居・拝殿・本殿が一直線に並ぶ。
 千年楠の木洞があり、写真の向こう側からくぐる。願い事を一つ心で思いながら通る。紀の国の伊太祁曽神社にもこのような木俣が置かれている。

太鼓橋と拝殿   千年楠の木洞

樹齢1200年楠

お祭り
  11月 18日 前夜祭、19日 例大祭

『平成祭礼データ』から

 都萬神社案内記
 ◎天孫降臨と都萬神社 恋にやさしい縁結びの神 当都萬神社は大山祗神の娘木花開耶姫命をお祀りする延喜式内のお宮で妻萬宮とも申します。天孫瓊々杵尊と木花開耶姫命が逢初川で見逢いされ、事勝国勝長狭神の仲人により日本最初の正式な結婚式が八尋殿で挙げられ、新婚生活を送られた処と伝えられ、サクヤ姫は結婚一夜にしてご懐妊されたので、天孫ニニギの尊ははたして自分の子供であろうか?と疑われたのを恥給い、木花開耶姫命は身を以て貞節を示さんものと〃無戸室〃産殿に火を放ち「もし貴方の子供でなかったら私は焼け死ぬでありましょう、貴方の子供であれは火に害のう事なく無事に生まれましょう」と誓いをたてられ、無事に三人の皇子(火闌降命、彦火火出見尊、火明命)をお生みになり女性としての純潔を示されたところと伝えられます。そのことは『日本書紀』に次のように記されています。
 天孫瓊々杵尊曰く「汝は(サクヤ姫に対し)霊異しき威有し。子等復倫に超れたる気有り」と仰せになり木花開耶姫命をいたわり敬愛の情をお示しになっています。三皇子の御名は火の中でお生まれになったので火の字が附してあります。尚無戸室産殿でお生まれになった三皇子の産湯をお使いになった〃児湯の池〃が史跡として保存されています。
 さて無事に御生まれになった三皇子をお育てになるに母乳で足りない分を補うため一方ならぬ御苦心の程が伺われます。西都原よりわき出づる水を利用して狭名田と言う細長い田を作り、その田の稲(お米)で甘酒えお造り、その甘酒を以て三人の皇子を御養育されたと伝えられています。都萬神社では今尚秋の大祭には必ず甘酒を神前にお供えしてお祭りをすることになっています。又『日本書紀』に木花開耶姫命「卜田を以て狭名田と曰う、その田の稲を以て天の甜酒を醸みて新嘗す、渟浪田の稲を用て飯に為しぎて新嘗す」とあります。是が地上における新嘗祭の起源ともなっています。甜酒美酒のことなりとあり、我国で始めてお米を以て造られたお酒の発祥地は西都市であり、木花開耶姫を祀る都萬神社であることが『日本書紀』により証明されています。都萬神社南西に当たる処に現に酒元と云う部落がありバス停留所もあります。
 ◎恋の願いが叶い良縁に恵まれる 特殊神事〃更衣祭〃 都萬神社の更衣祭は日本のお祭りの中でも最も珍しい祭典行事であります。祭神木花開耶姫命が天孫瓊々杵尊に逢初川のお見逢いによって長狭神の媒介によりお嫁入りされる時の古事そのままの姿をおつくりする神事で、晴れの婚礼衣裳をサクヤ姫の御神像にお着せ申し、白粉や口紅をつけ角隠しの帽子をかぶせ、花嫁姿になられる有様を生でじかに行うゆかしい神事であります。この神事が我が国婚姻儀礼のハジメであると社伝にあります。当日は午後三時まで全く可愛らしい清らかな姿を御神殿正面に御遷座申し上げ、その間一般参拝者に拝観が許されます。良縁に恵まれ仕合せな結婚が出来た人。又良縁に恵まれたい人の参拝が多く、殊にお母さん方のお参りが多いのは母親の愛情から女性の守り神として崇敬が厚いからでありましょう。青年男女のお参りは特に正月の年頭参拝は押すな押すなの盛況ぶりで最近は東京方面からの女性参拝も多くなっています。
 以上

『宮崎県神社誌』、『式内社調査報告』『平成祭CD』

 韓国宇豆峯神社

鹿児島県霧島市(国分市)上井898 mits-mo

神社全景と宇豆峯(左)

交通案内
JR国分駅 東南4km

祭神
五十猛命

神体山の韓国岳と大池

由緒
 大隅国囎唹郡の式内社。
 『続日本紀』によると、和銅七年(714)大隅国設置の翌年に、豊前国から二百戸(約5000人)の民を隼人を教導するために移住させており、その時に彼らが奉斎する韓国神を遷座させて建立したものと伝わっている。
 『宇佐記』によると、「欽明天皇三十二年(571)、豊前国宇佐郡菱形池の上の小椋山に祀られたのを当地宇豆峯の山頂に遷座され、さらに国司の進言により永正元年(1504)、現在地に奉遷した。」との記録がある。(以上は社頭説明:国分市教育委員会)

 『日本の神々1』によれば、「和銅七年に韓国神だけではなく、鹿児島神宮の一要素となっている八幡神も豊前から遷され、国府のある国分平野の西辺と東辺に配置されたのであろう。」としている。

鳥居と拝殿

 『式内社調査報告』には、祭神として天児屋根命も一つの説としてあることを言う。中臣氏の祖神の天児屋根命の孫の天種子命は、神武東征の途中、宇佐にて在地の豪族菟狭津媛を娶った豊前仲津郡中臣郷出身であったとする太田亮の説をあげ、景行紀の熊襲征伐ではこの中臣氏一統の援助が功を奏したと考えるのは、直入中臣神を祀っており、当検校川畔に中臣神が祀られても不思議ではないとする。また中臣氏は播磨国揖保郡で中臣印達神社の例を見るように五十猛神を祀る例がある。
 中野播能氏の『八幡信仰史の研究』には、宇佐神宮を祭祀した辛嶋氏は次の系譜を伝えていると記す。
 素盞嗚尊−五十猛神−豊津彦−都萬津彦(C妻)−曽於津彦(D曽於)−身於津彦(E美々津)−照彦(F垂水)−志津喜彦(G志布志)−兒湯彦(H児湯)−諸豆彦(I諸県)−奈豆彦(J宇豆峯)−辛嶋勝乙女。

C 宮崎県児湯郡妻町 五十猛命の妹神に抓津姫。都萬神社「木花開耶姫」神名帳考證には抓津姫。
D 鹿児島県曽於郡
E 日向市美々津町 神武天皇の船出の伝承地 立磐神社「住吉三神」
F 鹿児島県垂水市
G 鹿児島県曽於郡志布志町 枇榔神社「乙姫」
H 宮崎県児湯郡 都農神社「大己貴命」
I 宮崎県諸県郡 都城市 早水神社「諸縣君牛諸井」
J 鹿児島県霧島市(国分市)韓國宇豆峯神社「五十猛命」

 このような伝承から見ると、当社が鎮座するこの地方を征服したのは、辛嶋氏配下の中臣氏ではないかと、『式内社調査報告』の中で藤井重寿氏は述べている。

辛嶋氏の系譜の地図

お姿
 五十猛神を祀る最南端の式内社。近づくに従ってウキウキ、到着してどきどき、お詣りしてわくわくの感動が順番に襲ってくる。これを感じるために詣でている。
 濃い緑の中に鎮座、朱色の社殿にも目が慣れてきた。五十猛神を祀る神社で朱色なのは神奈川にもあった。

本殿

左が宇豆峯、正面に神社
北向きだから韓国岳や高千穂峯が見えるかも知れないが黄砂が邪魔をした。

お祭り

例祭日 九月 九日 

 剱神社

鹿児島県霧島市(国分市)敷根99 its-mo

剱嶽の岩壁  境内の剱岩
 

交通案内
JR国分駅 南南東6km

祭神
五十猛命。しかし社頭掲示は日本武尊、天児屋根尊とする。

鳥居

由緒
 大隅五社の内、韓国宇豆峯神社は上代には国分上井の韓国嶽に鎮座していた。これを敷根に勧請し剱大明神と称えた。
 古くは神社の東北約500mの剣岩の頂上、琵琶甲に石祠があり、拝殿はその麓にあった。延宝元年十二月(1673)今の地に遷宮され敷根郷の崇社として崇敬されてきた。
 明治四十三年に、太玉神社、菅原神社、兵主神社を合祀している。
 敷根氏が当郷を領していた時代に、剱神は荒廃していた。

拝殿

お姿
 五十猛神を祀る国内最南端の神社。
 海岸に近く、境内には松林。さわやかな雰囲気を感じる。

本殿

お祭り

例祭 3月 18日 


五十猛命ホームページ
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