大屋毘古と五十猛について

 五十猛や大屋彦に関連する古典を探して見ました。

成立年 古典 神名 概要
712 古事記 神代 大屋毘古神 神々の生成 家屋の成立を示す?
  古事記 神代 木国の大屋毘古神 大穴牟遅神を根の国に逃がす。
713 播磨国風土記 御船前の伊太 因達と称するのは神功皇后渡海の神の地
  築後国風土記 麁猛神(五十猛神) 通行人の半分を殺した。人が尽きる。筑紫の語源
720 日本書記 神代 五十猛神、名付けて有功(いさおし)の神、紀伊國所坐大神 高天原を追われた素盞嗚尊に率いられて新羅の曽尸茂梨に降臨
  日本書記 神代 五十猛・大屋津姫・抓津姫命は紀伊国に渡った 三神は木の種子を播いた。紀伊国に祀っている。
4初 日本書記 垂仁 穴門 伊都都比古 穴門の伊都都比古が大加羅国の王子都怒我阿羅斯等に対して。 国王を僭称。
4中 日本書記 仲哀 筑紫伊都県主の祖 五十迹手。 三種神器を捧げて天皇を迎えた。
  築前国風土記 五十迹手を恪(いそし)と称えた 。 五十迹手は高麗の意呂山(蔚山)に天降った日桙の末裔と名のった。
686 日本書記 天武 紀伊國國懸神 天武 朝廷が幣帛を捧げた。
692 日本書記 持統 紀伊大神 持統 朝廷が幣帛を捧げた。
8後 万葉集3883 伊夜彦神 伊夜彦(いやひこ)おのれ神さび青雲の棚引く日すら小雨そほ降る
  万葉集3884  〃 伊夜彦の神の麓に今日らもか鹿(か)の伏せるらむ皮衣着て角つ
9初 続日本紀 伊太祁曾神社三神分遷 702年伊太祁曾・大屋都比賣・都麻都比賣
9中 地神本紀 五十猛神、名付けて有効の神  
  地神本紀 五十猛握神、大屋彦神とも云う。 五十猛神・大屋姫神・抓津姫神の三柱は紀伊国造の齋き祠る神。
叙任時      
806 新抄格勅符抄 伊太祁曾神 五四戸 紀伊国
  〃 大屋津比売神  七戸 紀伊国
  〃 都麻都比売神 十三戸 紀伊国
  〃 中臣神  五戸 播万国
9初 住吉大社神代記 伊達神社 往古、船玉神社から紀伊三所神として勧請。
833 続日本後紀 伊夜比古神 祈雨
842   〃 伊夜比古神 從五位下
844   〃 伊達神社 紀伊国従五位下
850 文徳天皇実録 紀伊國伊太祁曾神 從五位下
  〃 紀伊国伊達神 正五位下
859 日本三代実録 伊太祁會神 從四位下
  〃 大屋都比売神 従四位下
  〃 神都摩都比売神 従四位下
  〃 紀伊国伊達神 正四位下
861   〃 越後国弥彦神 正四位下
875   〃 紀伊国伊達神 従三位
883   〃 伊太祁曾神 従四位上
870 海部氏系図 天五十楯命 天村雲命と同神 彦火明命の孫
911 和名抄 紀伊国名草郡 大屋地名が二ヶ所 大屋彦と大屋姫にかかわるか?
1223 上記うえつふみ 五十猛命・事代主命 豊国文字を考案した。
1429 永享文書 五十猛三神 垂仁天皇十六年、伊太祁曽神社は鎮座地を日前国縣神宮に地を譲った。

豊国文字

延喜式神名帳  主祭神が大屋毘古神・五十猛神・大屋都比売・都麻都比売の神社
 1-15は真弓常忠氏の『古代の鉄と神々』から
1 伊多太神社 山城国愛宕郡 イタタ
2 伊多波刀神社 尾張国春日部郡 イタハト
3 伊大弖和気命神社 伊豆国賀茂郡 イタテワケ
4 伊達神社 陸奥国色麻郡 イタチ 播磨より勧請
5 伊達神社 丹波国桑田郡 イタテ
6 同社坐韓国伊太神社 出雲国意宇郡玉作湯神社 カラクニイタテ
7 同社坐韓国伊太神社 出雲国意宇郡揖夜神社   〃
8 同社坐韓国伊太神社 出雲国意宇郡佐久多神社   〃
9 同社坐韓国伊太神社 出雲国出雲郡阿須伎神社   〃
10 同社坐韓国伊太神社 出雲国出雲郡出雲神社   〃
11 同社坐韓国伊太奉神社 出雲国出雲郡曽枳能夜神社   〃
12 射楯兵主神社 播磨国飾磨郡 イタテヒャウス
13 中臣印達神社 播磨国揖保郡 ナカトミインタチ 播磨風土記
14 伊太祁曽神社 紀伊国名草郡 イタキソ 日本書記
15 伊達神社   〃 イタチ 住吉神代記
16 大屋神社 近江国蒲生郡 ヲホヤ 大屋彦
17 伊夜比古神社 越後国蒲原国 イヤヒコ 弥彦
18 大屋都比売神社 紀伊国名草郡 オホヤツヒメ 三神分遷の一
19 伊夜比盗_社 能登国能登郡 イヤヒメ 伊夜比古を呼ぶ
20 都麻都比売神社 紀伊国名草郡 ツマツヒメ 三神分遷の一
21 杉山神社 武蔵国都筑郡 スキヤマ
22 くさ野神社 陸奥国標葉郡 クサノ
23 佐麻久嶺神社 陸奥国磐城郡 サマクミネ 日前宮から勧請
24 度津神社 佐渡国羽茂郡 ワタツ
25 立虫神社 出雲国出雲郡 タチムシ
26 伊我多気神社 出雲国仁多郡 イカタケ
27 筑紫神社 筑前国御笠郡 チクシ 麁猛神
28 荒穂神社 肥前国基肄郡 アラホサコ姫を見初める
29 那須加美乃金子神社 対馬国上縣郡 ナスカミノカネコ
30 天健金草神社 隠岐国隠地郡 アメタケカナクサ 大屋都比売
31 韓国宇豆峯神社 大隅国囎唹郡 カラクニウツミネ 豊国から勧請


1 イタケ神とイタテ神は同神か

韓国伊太神は出雲各地で居候神として祀られていた。天保四年1833に千家俊信の「出雲国式社考」 で、この神を素盞嗚尊の御子の五十猛命と考証。印達神や射楯神、伊達神も五十猛神とした。
大三元氏アイヌ語「イタテ」:itak-te 音便で itat-te 「話す」の使役、即ち「話させる」。
「イタケ」:itak-ke 何かの話をする。
イタケ/イタテが、「一言」とか「事代」ともつながりそうだ。
事代=言代=itak sinne と 一言=sine itak 。以上大三元氏。

市杵島姫は素盞嗚の御子、事代主は大国主の御子、御子神は荒御魂であるが、同時に親神を祀る神でもあった。即ち親神の意を伝えるスポークス神となる。五十猛神も素盞嗚尊の御子神、やはり託宣の神でもある。


2 植樹と家屋

『紀』では、五十猛・大屋都比売・都麻都比売は木種を播いて後、紀伊の国に鎮まったとある。木種を播いたのは五十猛ではなく、大屋彦だったのではなかろうか。
国生みの次の神生みで、石土毘古神、石巣比売神(石・土・砂の神格化)、大戸日別神、天之吹男諾冉二神の国生みの次の神生みで、大事忍男神石土毘古神、石巣比売神(石・土・砂の神格化)、大戸日別神、天之吹男神(屋根を葺く神)、大屋毘古神(家屋の神)を生んでいる。日本の家屋と樹木は深いつながりを持つ。大屋都比売・都麻都比売(抓津媛)は家屋との関連が見える。

五十猛は韓鍛冶として製鉄の燃料としての木材の育成にかかわる。そのような縁で五十猛と大屋彦とは習合したのだ。
伊太祁曽神社はもとは大屋彦神を祀っていた。そこへ五十猛神がかぶさり、社名を乗っ取ったことになる。伊太祁曽神社の鎮座する名草郡には、大屋地名が二ヶ所ある。一つは大屋都比売神社付近。もう一つは国懸神宮の付近とされる。かっての大屋彦の鎮座地と思われる。

佐賀県杵島郡 妻山神社「抓津姫命、抓津彦命」辛嶋氏の伝える五十猛命の系図に、素盞嗚尊ー五十猛命ー豊都彦ー 豊津彦ー都万津彦ー曽於津彦ー・・とあり、五十猛命の子孫にツマツヒコの名が見える。抓津比売は五十猛命は帯同した姫神とされたのだろう。

紀伊国名草郡 国懸神社 国懸神は有史時代(天武持統期)の紀伊の大神として初めて名前が出てくる。紀伊大神とは神代紀では五十猛神のことである。紀伊国を輝かした神である。


3 韓鍛冶の神・武勇の神

肥後国玉名郡船山古墳出土の直刀の銘文「作刀者伊太□書者張安也」とあり、伊太□は作刀者。伊太□は刀鍛冶の名。
素盞嗚尊が埴土で船を造ったが、埴土は製鉄の原料であり、鉄器を作り、造船したと云う意味。
出雲の砂鉄の産地の船通山の麓に、伊我多気神社・鬼神神社が鎮座、ここは韓鍛冶の神としての五十猛を祀っている。
真弓常忠氏の名著『古代の鉄と神々』では、延喜式1〜15の神社を韓鍛冶の齋祀る神としている。
陸奥国の伊達神社は坂上田村麿が蝦夷討伐の際に播磨より勧請したとする。武神である。
豊前国下毛郡 貴船神社 合祀 勇猛神
肥前国杵島郡 稲佐神社 天神、女神、五十猛神 杵島山には南西から北東にかけて三つの峰があり、南西の峰を比古神、中の峰を比売神、北東の峰を御子神と称すという。御子神は別名軍神とも呼ばれ、この峰が鳴動すると戦いが始まると言い伝えられている。



4 渡しの神

中臣印達神社
『播磨国風土記』飾磨郡因達の里 因達と云うのは息長帯比売命が韓国を平定しようと思って御渡海海なされた時、御船前の伊太の神がこの処においでになる。だから神の名によって里の名とした。
紀伊 伊達神社元社は住吉の船玉神社である。
佐渡国 度津神社   隠岐国 度津神社   摂津 度津社
伊太祁曽神社では浮き宝の神としている。浮き宝とは漁船のこと。海に浮いていて魚をとるので宝と云うそうだ。
渡海には丈夫な船が必要であり、楠などの木材と加工する鉄器が必要、すべて植樹にかかわる。



5 五十猛と言語

豊国文字の考案
豊国文字は大屋彦神と事代主神の考案と云う。
鎌倉時代の『上記』は、頼朝の御落胤との伝ええれている豊後国守護大友能直が古文書をもとに編纂した文書で、豊国文字で記されている。

出雲の同社坐韓国伊太神社の言語関係(大三元氏ヒント)

揖夜神社
出雲風土記では「伊布夜」と記され、斎明天皇紀には「言屋社」と表記されている。

曾枳能夜神社
垂仁天皇の皇子のホムチワケはしゃべれなかったのは、「出雲大神のたたりじゃ」ということになり、出雲へ出かけて大神を拝んで、キヒサツミの饗宴に出たら喋った。キヒサツミは曽枳能夜神社に祀られている。

阿須伎神社
出雲風土記に、阿遲須伎高日古根命は幼い頃、喋ることができなかったとある。



6 新羅の国との関わりの深い神

九州の旧伊都国(糸島郡)に鎮座の白木神社の祭神は五十猛神。
『筑前国風土記逸文』高麗に降臨した日桙の末裔、怡土県主の祖、五十迹手は恪(いそ)しと称えられた。五十猛神も有功(いさおし)の神と称えられ、五十迹手との関係は無視できない。
住吉大神(筒男神)の御子神が船玉神、その御子が伊達神達。筒男は『垂仁紀』の伊都都比古に比定できる。筒男神と伊達神、これが伊都都比古と五十迹手の関係と見ることができないか。
石見(島根県大田市)の韓神新羅神社、阿波(鳴門市)や陸奥(宮城懸)の新羅神社の祭神は五十猛神とされている。
『神仏図絵』素盞嗚尊皇子なり母は稲田姫尊、五十猛尊紀州名草の社、近江国新羅大明神是なり。



7 禁酒の神

杉鉾別神社の伝承 神が酒に酔っぱらって野原の枯れ草の中で眠ってしまった。その時野火が起こり、命はすっかり取り囲まれて絶対絶命の状態になった。するとどこからともなく小鳥の大群がやってきて、濡れている羽から水滴をたらしていった。いくどもいくども繰り返された。さしもの野火も消え神は危うく一命をとりとめることができた。


8 牛の取引の神

但馬国養父郡 養父神社 養父市場は但馬牛の牛市の中心地であった。延喜式には養父市場では五十猛命を牛取引の神様とするとある。


9 命の神 

伊太祁曽神社 大穴牟遅神を木国の大屋毘古神の御所に違へ遣りたまひき。ここより根の国に逃がす。



10 五十猛と似た名前の神は。

天五多手(あまのいたて)
天村雲神の別名とされる。天村雲とは八岐大蛇から出た刀、素盞嗚尊の御子神と言える。五十猛としてもいい。
天香語山命は、異腹の妹の穂屋姫(ほやひめ)を妻としている。穂屋姫と大屋姫、ゆれの範囲内。
また、能登の伊夜比盗_社の祭神は大屋姫となっている。伊も大も敬称とすれば、二柱は同神。
そうすると、越後の伊夜比古神社の祭神は伊夜比古のはずだが、天香語山命となっている。これらのことを整理すると、五十猛、大屋彦、伊夜彦、天香語山、その御子の天村雲までひとくくりの神とする伝承があったのだろう。

武位起命 豊後国海部郡 椎根津彦神社「椎根津彦命 (配祀)武位起命 祥持姫命 稚草根命 他 」
丹後の籠神社に伝わる『海部氏系図』によると、海部氏の始祖彦火明命の御子に武位起命の名があり、次に宇豆彦命(椎根津彦命)となっている。宇豆彦命は大和直の祖の名であり、また紀氏の祖にもこの名前がある。武位起命は「たけくらいおき」と訓するようだが、「たけいたて」とも訓める。

安曇族の祖の磯良もしくは磯武良対馬国下県郡 多久頭魂神社摂社松崎神社「安曇磯武良」
五十猛の訓みに「いそたけ」がある。その名にちなむ磯竹との地名もある。一方、磯武良も「いそたけら」。渡しの神としての共通点もある。

名草郡に鎮座する五十猛
略称は「なぐさのたけ」とすると、神武天皇の父の彦波限建鵜葺草葺不合命の「彦波限建」に比定できる。



11 鬱陵島

 17世紀後半に南宗庵が編んだ『残太平記』の記事。隠岐国の商人を呼んで五十猛島の事を問えば、隠州より七十里。東西九里で、大竹が芦しげく生えて、竹の中に道があり、人は不在、一つの岩屋があり、広さは一町四方もある。人が覗けば、色黒く一眼の人で高さ一丈二過、竹葉を衣として鉄棒を振って追い出す。この大人は素盞嗚尊の御子五十猛命がこの島に住すると伝えたとあれば この大人は神であろう。
 鬱陵島は後に磯竹島もしくは竹島と呼ばれていた。五十猛島とも表記されていた。
 鬱陵島とら東へ90kmで、日本領である竹島がある。江戸時代には松島と呼んでいた。


太田市五十猛町(旧 磯竹村)
宝暦九年(1759)の『八重葎』(やえむぐら)「沖に竹島あり、其の磯だから磯竹と言うと記す」とありこれは太田市五十猛町(いそたけ)の昔の名である。


12 島原半島

猛島と呼ばれていた。五十猛にかかわるとの説がある。
長崎県島原市 猛島神社「五十猛神、大屋津姫神、抓津姫神」


13 中臣氏と五十猛神

中臣氏の祖神の天児屋根命の孫の天種子命は、神武東征にお供をし、宇佐にて在地の豪族菟狭津媛を娶ったと『紀』に記されている。景行紀の熊襲征伐ではこの中臣氏一統の援助があって成功したので、天皇は直入中臣神を祀っている。このような伝承から見ると、韓国宇豆峯神社の鎮座するこの大隅地方を征服したのは、辛嶋氏配下の中臣氏ではないかと考えられる。
中臣氏と五十猛との関係は春日大社の摂社として紀伊神社が祀られていることからも理解できる。

 『播磨国風土記』大田里の条 播磨の大田という地名由来は、昔、呉勝(くれのまさる)が韓国から渡ってきて、はじめに紀伊国名草郡の大田村に至った。その後、一部が摂津国三嶋の賀美郡に移り、さらに揖保郡大田村に移った。
大田の近隣
 紀伊の大田 伝承では伊太祁曽神社の旧鎮座地、現在は日前国懸神宮が鎮座。
 摂津の大田 新屋坐天照御魂神社・疣水神社の鎮座。中臣氏の拠点。鎌足の墓所の地。
 播磨の大田 中臣印達神社は粒丘に鎮座。粒坐天照神社。

 中臣氏は紀氏への牽制として、伊太祁曽神社を重視し、三神分遷を目論んだのではなかろうか。三神分遷は勢力を削のではなく、その反対の厚遇であるとは、和歌山県立博物館長寺西貞弘氏の説である。論文

五十猛命ホームページ
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