古代の祭式と思想(角川選書)


「イタケルの神話」の概要 上垣外憲一氏執筆

 イタケルの神というのは実は大変おもしろいというか、多分、日本の神話に出てくる神様の中でも変わった神様です。それは一つは、このイタケルという神は新羅から来たということが『日本書紀』にはっきり書いてあるのです。イタケルというのは、『日本書紀』神代の上巻の出雲神話の中に出てきます。実は須佐之男命の子神であるということで出てくるのですが、字は「五十猛」と書きます。『日本書紀』の読み方ではイタケルというふうに読んでいますが、これは出雲の地元というのはおかしいですが、島根県の大田市、出雲大社のある少し西のほうですが、そこにイタケルの神が上陸したのだという伝説の場所がありまして、そこでは「イソタケ」というふうに呼んでいます。そういう読み方も可能かもしれないと思います。

島根県太田市五十猛町の五十猛神社

 まず、『日本書紀』の言葉を読んでおきたいと思います。こういうふうに『日本書紀』には出てきます。「ある文にいわく。須佐之男命の所行無状(しわざあづきな)し。故、もろもろの神たち、おほするに、千座置戸をもつてし、つひに逐ふ。」これは須佐之男命がいろいろと悪いことをしたので、罪になることをしたので高天原から追放されたということを書いているのです。『日本書紀』ほ「ある文にいはく」という形で、神話のバリアント、異本をたくさん載せています。これはその異本の一つで、多分、皆さんは余りご存じないお話ではないかと思います。

曽尸茂梨に比定される韓国春川の牛頭山

 このときに、「須佐之男命、その子五十猛神を率いて新羅の国にあまくだりまして曽尸茂梨(そしもり)のところに居します。すなはち興言(ことあげ)して曰はく。この国ほ吾居らまく欲せじと曰ひて、つひに埴をもつ て船につくりて、乗りて東の方に渡りて、出雲の国の簸の川上にある鳥上の峯に到る」(岩波古典大系本による)。この話を見ますと、皆さんよくご存じの須佐之男命が高天原から降りてきて、出雲の国の簸川の上流の烏上の峯というところに天降ったという話です。その中に、その子の五十猛神と一緒に新羅の曽尸茂梨というところに降りてきた、天降りしたということが書いてあるのです。さらに、ハニというのは埴輪の埴ですけれども、土で船をつくって、そして「興言して曰はく」といって、非常に勇ましく船に乗って押し渡ってきたような書き方をしています。こういうのを読みますと、すぐ騎馬民族征服説とかを考えたくなるのですが、それはちょっと置きまして、ともかく土の船ではありますけれども、船に乗って渡ってきた。それがもう一度天下りしたような形で鳥上の 峯に降りてきたというわけです。

船通山(伝鳥上峯)

 その後の話は須佐之男命の例の八岐大蛇退治の話が加わっておりますが、そこはあまり違っていません。ところが、その終わりのところにまたイタケルの神の説明がしてあります。「初め五十猛神、天降ります時に、多に樹種を持ちて下る。然かれども、韓国に殖ゑずして蓋に持ち帰る。遂に筑紫より始めて、凡て大八洲国の内に播殖して、青山に成さずといふことなし。所以に、五十猛命を称けて有功の神となす。即ち紀伊国に所坐す大神是なり」というふうに言っております。

 おもしろいことに、この五十猛命というのを祭っているのは和歌山なんです。伊太祁曽神社という名前の神社があります。これは和歌山市の少し山のほうに入ったところにあるのですが、ちょっと盆地のようなところにある真ん中に伊太祁曽神社というのがあります。和歌山というのはいわゆる紀伊の国、木の国ということですね。植林の神が祀られるのにいかにもふさわしい。私は実は木曽の出身なので、伊太祁曽の「きそ」というのは何で「きそ」かなというのをつい思うのですけれども、林業ということにかかわっていろいろ名前がおもしろい、変わったところがあります。

伊太祁曽神社

 例えば、宮城県には伊達神社があって、イタケルの神をお祀りしている。普通は伊達(だて)と読みますね。しかし、この関連の読み方からしますと「いだて」と読んだほうがいいのではないかと思いますが、こういうような言い方をされる場合もありますし、あるいは伊太(いたて)と読みますが、これは出雲の国でこういう名前で書かれている場合が多いようです。これはいわゆる『延書式』に神名帳というのがありまして、諸国の神社を書き出しているものがあるわけです。もちろん平安時代のものです。そこに出雲の国の、たしか六つだったと思いますが、いろいろなお社に、そこに一緒に祭られているという形であらわれてくるのです。一つだけ書いておきましたが、「玉作社坐韓国伊太神社」という書き方をしています。玉作はご存じのように出雲にある玉造温泉の玉造にあるお社なんですけれども、そこに「います」。ともかく一緒に住みついているというのか、祀られているというのか、そういう神様がいて、それが韓国の伊太神社である。イタケとイタテ、音が大変近いですし、恐らく同じ神と考えていいのでしょうけれども、こういう書き方をされて、ここでも韓国といって、新羅とはちょっと違う書き方でありますけれども、朝鮮半島から来た神様であることがはっきり示されているのです。それが主に紀州と出雲に祀られている。

 これは一体どういう神様か。ここで読む限りは植林の神様であるということです。このイタケルの神様というのは、天から降ってきたときには木の種をたくさん持ってきた。しかし、韓国、朝鮮半島、新羅のほうには植えないで日本に持ってきた。

 そして、筑紫から始めて、ずっと日本を青い山にしていった。今は紀伊国に祀られているというのが『日本書紀』の文章です。紀伊国はご承知のとおり木国でして、大変温暖で雨が多いですし、山には豊かに木が生えていますね。そういうことを思うと、森林を扱う神である。それが紀伊国にあるというのは自然なのかもしれません。

筑紫の荒穂神社と五十猛神が最初に木を植えたと伝わる基山

 これは一体どういうことなのだろうかと私はいろいろ考えました。ところが、このイタテという神様はいろいろ複雑な神格を持っていまして、製鉄、あるいはもっと正確に言うと鍛冶、鉄を鍛えて鉄製品をつくる。特に武器をつくる。どうもそういった神格も持っているようです。

 能本県の江田船山古墳というところから出土した、銀象眼だったと思いますが、有名な鉄剣がありますが、その銘文の中に「作刀者名伊太□、書者張安也」とあり与(「探訪日本の古墳」西日本篇、有斐閣による)。張安というのはいかにも中国人風の名前で、漢文ができた人なのでしょうけれども、この鉄剣をつくった人物はイタ何とかである。私はやっばり伊太に結びつけていいのだろうと思うのですが、そういうことを見ますと、どうも鍛冶、つまり鉄を鍛えて剣をつくる人の名前にこういう名前があらわれてくるということは無視できないですね。それをどうやってつなげて考えるかということを私はいろいろ考えたのですが、こういうことではないか。

 一つは、このイタケルの神話をよく考えてみると、これは韓国に植えずして日本に木の種をまいて、日本が青い山になった。逆に言うと、韓国ははげ山だということを暗に言っていると思うのです。韓国が青い山になるはずだったのに、木の種は播かれなかったのだから、韓国ははげ山で、日本は木が茂っている。今の韓国は相当一生懸命植林をされて山が大分青くなっていますが、私の父は実は営林署で戦前に北朝鮮のほうへ行っていたことがあるのですが、はげ山が非常に多かったと言っています。今も日本に比べればやはり木は少ないと思います。これは『日本書紀』の記述ですけれども、恐らく日本の古代人も、韓国はどうも山に木が少ない、日本は青い山だという印象を持つていたようです。そうしますと、これはなぜ日本に木が豊かなのかという一種の起源説話というふうにも読めると思うのです。

 そうして、韓国に木が少なく日本に木が多い、その理由に鉄がからんでいるのではないかと私は思うわけです。それはどうしてかといいますと、これは三世紀のことを書いた書物というのは例の『魏志倭人伝』と同じく「魏志」でして、先ほど金関先生が引用されましたけれども、『魏志韓伝』というものの中に朝鮮半島の南部の三世紀のことが書かれているわけです。その中で、朝鮮半島南部の弁辰という言い方をしておりますけれども、大体、釜山からずっと洛東江という川をさかのばったその流域辺、大ざっばに言えばそう言えると思いますけれども、その地域から鉄が出る。そして南朝鮮の韓族、それから倭人もこれを採る。つまり、三世紀にそこから鉄が出て、その鉄を倭人も交易に来るということを書いています。この倭人を日本人、この日本列島に住んでいた人というふうに考えてみますと、その弁辰、朝鮮半島南部で出た鉄を日本人は交易で持ってきていた。実際、これはもう少し時代が下るかもしれませんけれども、古墳なんかから鉄[金廷]という鉄の板、あるいは延鉄と言っていいのですか。要するに延べ棒のような形の鉄がよく出てきますが、こういうものは恐らく素材の鉄ですね。そういった鉄素材が朝鮮半島から輸入されて、日本において鍛造して、そしていろんな鉄製品がつくられたというふうに考えられております。

 それが三世紀のことである。そうすると、朝鮮半島では、このように製鉄が非常に盛んであったということです。森林資源の枯渇する理由はいろいろあると思いますけれども、農業そのものは森林を破壊しません。特に日本みたいなところ、あるいは朝鮮みたいに山の多いところでしたら、平地に畑をつくれはいいので、山はほっておけはいいわけですから。ところが、製鉄を非常に盛んに行ったとしますと、これは確実に山ははげていく。製鉄のためには大変な量の燃料を必要とするわけです。高熱を必要としますから、ともかくその高熱を得るために大変な量の燃料を使用します。こういう形で、製鉄の盛んな地域ではどんどん森林資源が枯渇していくというのが、ごく近代に至るまでの文明のバターソです。ですから、木を使い尽くした民族は鉄がつくれなくなって、結局、軍事力、生産力が落ちて没落するということになるわけです。これは近代に入って、イギリスなどで石炭からコークスを使うようになって木炭でなくて済むようになってから、こういう森林の呪縛から解放されるわけですけれども、それまでほ森林がなければ鉄ができない。

 私は、三世紀の段階で、日本列島と朝鮮半島とでは相当山の森林資源に差があったのではないかというふうに思います。日本は、その当時の製鉄遺跡というのはまだ発見されてないですし、これからもちょっとしたものは出るかもしれませんが、大したものは出ないだろうと思います。それにひきかえ、朝鮮半島では盛んに鉄をつくっていましたから、特に南朝鮮では山の木を盛んに切ったと思います。自然条件から言えば朝鮮半島のほうが日本より悪いですから、森林の再生産というのは大変状態が悪いですね。ですから、日本が青い山で向こうがはげ山という状況はまずあっただろうと思ます。古代のどの時期のことを言っているかというのは大変難しいですが、三世紀から四世紀ぐらいにかけて、この神話が生まれてくるような状況が日本列島と朝鮮半島の問にはあったということは言えるだろうと思います。

 それからもう一つ、ここにはイタケルの神というのが植林の神であるように書かれていますね。ですから、これも自然林が非常に豊かなところでは植林の技術なんていうのは全く必要ないわけで、日本で起こるというよりは、木を大変切って森林資源の枯渇を感じていた朝鮮半島で植林の技術ということがまた考えられ、発展してきたということが十分考えられると思います。そういう点で、このイクケルという植林あるいは森林資源の神様が朝鮮からこちらに渡ってきたというのは、三世紀と言い切れるかどうか疑問ですけれども、その当時の状況から十分あり得ることだと思います。

 次に住吉神社とこのイタケルの関係について考えてみたいと思います。住吉神社というのは大阪にもありますし、博多にもありますが、私が重要だと思うのは今の新下関の近くにある長門の国の一宮と言われている住吉神社です。『住吉大社神代記』といわれる書物の中にほ先ほど言った伊達神がちょっと出てきて、住吉神とイタケルの関係を推測させるのですが、それはこういう形です。「船玉神」、これは住吉神の子神であるとなっているのですが、その中で、船玉神というのは「紀氏神、志麻神、静火神、伊達神の本社なり」と書いてあります。本社というのはどういう意味でしェうか。もとの神様でしょうか。『神代記』では、住吉神の子神様が船玉神で、そして伊達神はまたその分身みたいな形に考えられています。ですから、住吉神の孫の神というか、子の神というか、そういう形で伊達神というのは考えられていることになります。

大阪住吉大社の摂社船玉神社

 まず第一に「紀氏の神」というのが出てきているのが大変印象的で、先ほど伊太祁曽神社が紀州にあると申し上げましたけれども、紀氏は本拠地が紀州になるわけです。これは『日本書紀』の中で「紀の臣」と言われている人は、先ほどから申し上げている朝鮮半島と大変関係の深い氏族として常にあらわれてきます。それはどういうことかというと、この辺は大変問題のある記述ですけれども、この紀の臣の将軍がいわゆる任那のほうに行って大変活躍したということが仁徳天皇、あるいはもう少し後の時期のこととして書かれています。多分、雄略天皇の時代ぐらいまで、ところどころに紀の臣というのが出てきます。このことが本当に大和朝延の朝鮮半島への経略ということを示しているかどうかはいろいろ疑わしい点があると私は思いますけども、しかし、紀の氏、紀の臣という紀州を本拠にしていると考えている人たちが大変朝鮮半島と関係が深い人たちであったということは言ってもいいだろうと思います。

 和歌山市内には有名な大谷古墳というのがあります。五世紀の中葉か末期の築造と考古学では言うようですけれども、ここからは恐らく朝鮮半島で製作されたであろう、あるいは朝鮮半島から来た人がつくったであろう有名な馬胃が出ているのです。これは鉄製のちょうど馬の顔の形のようにつくったとても精巧なマスクです。馬具、しかも馬の胄なので、こういったものはどうしても朝鮮半島と結びつけて考えなけれはいけないものでしょうし、紀の氏というものと大谷古墳から出た鉄製の馬具をつなげて考える人は多いと思います。

大谷古墳から出土した馬胄

 こういうことを考えてみますと、ここでも実は伊達神というのは朝鮮半島とつながってくるわけです。それから大谷古墳から鉄の馬胄が出た。鉄製品ということでも言えると思います。それから「静火の神」というのがあ りますが、「静火の神」の神格も、火を扱うのだなあということを当然思いますね。そうしますと、やはり製鉄、あるいは鍛冶ということと何か関係があるのではないかと思います。

 そして長門の国にある、下関にある住吉神社の祭神は、『日本書紀』によれば表筒男命、中筒男命、底筒男命というふうになっています。これも実は朝鮮半島とかなり関係があるというのは、物語の中に、神功皇后のいわゆる三韓征伐のときにですね、この神が霊験をあらわした。そういうことが書かれているのです。神功皇后の三韓征伐ははなはだ疑問の多い記述ではありますけれども、下関という位置を考えても、朝鮮との通行にこの神様が深い関係があったと言うことは言ってもいいのではないかと思います。

 実は、この住吉神の名前が不思議だと、私は前から思っていたのです。表筒男命、中筒男命、底筒男命。だから、表と中と底を取ると、みんな筒なのです。ですから、結局ほ一つの神様を三つに言ったような感じがします。それで、どうしても私に連想されるのは、『日本書紀』 の「垂仁天皇紀」に出てきまして、これはミマキノスメラミコト、つまり崇神天皇のときの話として有名な、これはまた朝鮮関係で興味のある方はよくご存じだと思いますが、ツヌガノアラシトというのがその崇神天皇のときに福井県の敦賀にやって来たという話がかなり詳しく載せられています。そのツヌガノアラシトは大加羅、洛東江の上流のほうと言うのですが、どうでしょうかね。ともかく朝鮮半島の南部からツヌガノアラシトが敦賀までやってくる。そのときどういうふうに来たか。「穴門に 至る時に、其の国に人有り、名は伊都都比古、臣に謂りて日はく、我は是の国の王なり、吾を除きて復二の王無・・・」、こういうふうに言っているのです。

 つまり、これはこういう話です。ツヌガノアラシトが、釜山と言ってもいいでしょうけど、そちらのほうから、穴門ですから長門のことですが、下関にやって来たときに、そこに人がいて、伊都都比古と言った。これが、「自分はこの国の王である。ほかのところにほ王様なんかいないから先へ行くな」と。ツヌガノアラシトは、よくよく見ても王様らしくないので、出雲の国を通って敦賀へやって来ました。それで崇神天皇にまみえたということになっているのです。

 これを私が大変おもしろいと思うのは、いわゆる皇国史観というのですか、天皇家の話を中心にしてつくっているはずの『日本書紀』で、崇神天皇という日本全体の王様であったはずの天皇の話をしているときに、下関に「自分は日本の王だ」と言っている者がいたと書いてあることが大変おもしろいと思うのです。もちろんこれは伝説、伝承ですから信じなくてもいいのですが、私は、しかるべき伝承があったのではないかと思うのです。つまり、こういうことは天皇家中心の考え方からしたらはなはだけしからんことではないかと私は思うので、そういうけしからんことがわざわざ載っているからには、何か少なくとも伝承はあったのだろうというふうに思います。

 もう時間がなくなってしまいますから、私の思っていることを申し上げますと、もちろん仮説ですが、住吉神社で祀られている筒男命というのは伊都都比古のことではないか。つまり、下関で「自分は王である」と言っていた伊都都比古ではないか。仲哀天皇の『日本書紀』の記述では、五十迹手(いとて)という者が下関の彦島というところで仲哀天皇に降伏したという話が出てきます。三種の神器のようなものを木にかけて、これも朝鮮式といいますか、先ほど金関先生が説明された木にそういう宝器をかけて、それを降伏の印に差し出すという物語なのです。ここで降伏して下関の彦島にいたという人物の名前が五十迹手と言うのです。これはやはり何らかの形で伊達や伊都都比古と関係があるのではないかと思うわけです。先ほど伊達神というのが住吉神の子神あるいは孫神だという考え方があると申し上げましたけれども、そうしますと、ちょうどその形に伊都都比古の話と下関の五十迹手の話は対比して考えられるのではないかと私は思ったのです。

 実は、この五十迹手というのも大変おもしろいので、『筑前国風土記逸文』では、「高麗の国の意呂山に天降った天日槍の末」。つまり、オロ山と心うのは蔚山だと言われますが、韓国の新羅の地域ですね。そこに天降った天日槍の子孫が五十迹手だと言われております。だから、五十迹手というのは新羅から先祖が来たということになりますね。

 それからもう一つ、下関で新羅と関係があるということを申し上げたいのは、長門の国の二宮は長府というところにある忌宮という神社ですけれども、それは仲哀天皇を祀っています。そこの伝承というのは、仲哀天皇の宮があった。豊浦宮と言っていたと言うのですけれども、そこに実は新羅の国の賊が攻め寄せてきた。そして、仲哀天皇はみずから矢を射てこれを撃退したというのがその忌宮に伝えられています。忌宮がある長府というのは、ご存じだと思いますが、下関から少し瀬戸内側に入ってきたところの海岸部です0住吉神社とは本当にすぐ近くです。そこに二宮の住吉神社があって、長府に忌宮があります。こちらが仲哀天皇の本拠地だったという伝説になっています。

 こういうことを考えますと、私は下関にいた伊都都比古というのは新羅系ではないかと思うのです。それが祭っていた神か、あるいはその人を神格化あるいは祖先神として扱ったものが五十猛あるいは五十迹手神ではないかと思います。

 先ほど安田さんが三世紀というのほ非常な気候変動の時期だったと言いましたけれども、三世紀の朝鮮半島というのは非常な動乱の時期です。楽浪郡というのがあります。これは漢の時代からの中国人の植民地で、最終的には三百十三年、つまり四世紀の初めに滅びますけれども、そういう動乱乱があって、ついに肝心の植民地が滅びる時期に当たっているのです。私は、こういう時期に半島から動乱の余波で渡ってきた人たちがたくさんいただろうと思います。その人たちの中には鉄の技術、あるいは船の技術、あるいは植林の技術というのを持った人たちがいて、大変強い力を振るったのではないか。そして、こういう新羅系の人がたとえ何かで打ち倒されたとしても、技術者集団として生き残って、大変強力な神様として生き残っていったのではないかと思うわけです。

伊太祁曽神社

神奈備にようこそ