『倭人と韓人』(講談社学術文庫)上垣外憲一

イツツヒコ・イソタケル・イタテ

 巨大古墳は、たしかに大和の支配者の勢力の拡大を物語っている。しかし、自己を飾り、誇ることの多い皇室の伝承によっても、崇神天皇が征服したのは北陸路から吉備までであり、東国がいったいどの程度服属したのか、はなはだ疑わしい。また当時、文書による官僚制的支配が初歩的な段階で導入されていたとしても、北陸から瀬戸内までを中央集権的に支配したとは、とうてい考えられない。崇神天皇は、この地域において中国の春秋時代の覇者のごとき存在だったので、四道将軍として記録に残る北陸道の大毘古や吉備の吉備津彦などは、かなり独立性の強い権力の保持者だったとみるべきだろう。豊臣秀吉の覇権のもとの徳川家康や毛利家のような存在である。

 ところで、いちおう崇神天皇を覇者として立てる地域とは別の強力な勢力が、同じ時期にあったと思われるふしがある。それはこれまで最も重要であって、しかも崇神朝の影響力が及んだようには思われない地域、北九州から出雲にかけての勢力である。じつは、先に取り上げたツヌガアラシト説話にその人物はチラリと姿を見せている。敦賀に上陸したツヌガアラシトは、それまでの困難な航程について、次のように語ったという。

 穴門に到る時に、其の国に人有り。名は伊都都比古。臣に謂りて曰はく、「吾は是の国の王なり。吾を除きて復二の王無。故、他処にな往にそ」といふ。然れども臣、究其の為人を見るに、必ず王に非じといふことを知りぬ。即ち更還りぬ。道路を知らずして、嶋浦に留連ひつつ、北海より廻りて、出雲国を経て此間に至れり。

 穴門はのちの長門、山口県下関近辺のことである。現在も関釜フェリーが釜山と下関を往復しているように、最も加羅から近い地のひとつである。そこにイツツヒコと名乗る者があって、自分がこの国の唯一の王であるから他所には行くな、と言ったという。下関には大和の崇神朝の権威など認めず、王を称する人物が勢力を張っていたのだ。
 下関といえば、もう少し時代が下る「仲哀天皇紀」には、五十迹手という人物がいて、鏡、玉、剣の三種の神器、支配権の象徴を捧げるという降服の儀式と思われる仕方で下関の彦島に仲哀天皇を出迎えた、という記事がみえる。場所が同一であり、イツツヒコとイトテは音がよく通ずる。イトテはイツツヒコの子孫で、下関を中心に勢力を張り、この時、天皇家に降服したのではないか。

 出雲神話には、このイツツヒコやイトテに音のよく似た神が登場する。五十猛神である。
 『日本書記』はイタケルのことを次のように伝える。

 素盞嗚尊、其の子五十猛神を帥ゐて、新羅国に降到りまして、曾尸茂梨の処に居します。乃ち興言して曰はく、「此の地は吾居らまく欲せじ」とのたまひて、遂に埴土を以て舟に作りて、乗りて 東に渡りて、出雲国の簸の川上に所在る、鳥上の峯に到る。

 よく知られた大蛇退治の物語が、このスサノオの天降りの別伝に続き、その後に、五十猛神が曰本に木を植えて「青山」に成した、という説話が続く。スサノオ神話とイタケルの物語が結合した形といえる。
 ところで、スサノオが新羅から曰本に来たという物語は、この別伝だけである。とすると、次のような推定が成り立つ。スサノオの天降りの物語は、もともと高天原から追放されて出雲国に降り立つ形のものが行われていた、そこに、後に新羅の地から渡ってきたというイタケルの話が結合し、その中でイタケルはスサノオの子だ、というような伝承が成立していった、ということである。

 出雲の西方の石見国、今曰の島根県大田市には、このイタケルを祀る五十猛神社、また五十猛という漁港もあり、ここが五十猛神の上陸地だという伝承が残っている。その五十猛漁港の東には韓国新羅神社があって、スサノオを祭神としている。同じ新羅から渡来した二柱の神ということで、スサノオとイタケルの二神が伝承のうちで重複していったものだろう。

 ところで、この西より来たった五十猛は、出雲では一時かなりの勢力を持っていたらしい。『延喜式』神名帳によると、次のようなものがある。

 玉作湯神社 同社坐韓国伊太
 揖夜神社  同社坐韓国伊太
 佐久多神社 同社坐韓国伊太
 阿須伎神社 同社坐韓国伊太
 出雲神社  同社坐韓国伊太
 曾枳能夜神社 同社坐韓国伊太

 伊太

 先にあげたそれぞれの神社は、古い由緒ある社で、別々の地方神を祀っている。それらの社に伊太

 五十猛という神名は、ヤマトタケルとの連想からいかにも征服者を思わせる。イタテという名前がもとの韓国音に近く、それが征服者というイメージから、後の時代に流行したクマソタケル、ヤマトタケルといった××タケルという呼び名へと変わっていったのであろう。先の神話でも、「興言して」と軍勢が雄叫びをあげて新羅から渡ってきた、というのだから、五十猛の出雲への渡来は征服的なものであったと想像される。

 さて、そのイタテが本来の音であるとすると、下関で仲哀天皇に降服したというイトテと、いかにもよく音が通ずる。しかも、この人物が下関に根拠地があったとするなら、イタケルが新羅から来たという伝承とも、石見国五十猛に上陸したという方向とも、大変よく符合する。下関の響灘に面した綾羅木郷遺跡は、中国地方の弥生時代の遺跡中でも最大級であり、また付近の遺跡からも半島系の遺物を多く出している。この地一帯は、博多付近に次いで古くから半島との交通が盛んだった地域である。また、博多よりも東寄りであるから、新羅方面との交通には、より有利な位置にある。

 イツツヒコ、イタケル、イタテ、イトテはもともと同音と考えられ、この名前(神か、王号か)によって代表される勢力は、下関を中心に北九州から出雲までを制圧していたと思われる。下関のイツツヒコの勢力が出雲を征服した、つまり、大和勢力の出雲征服として解されてきた大国主の国譲りの物語は、じつはその大部分がイツツヒコ一族の事業の伝承であったのではないか、ということなのである。

 下関の北方、黒井村(現・豊浦町)に長門三の宮の杜屋神社があり、その祭神は三穂津姫命である。この三穂津姫命は、『曰本書紀』の別伝の出雲征服譜の中で、次のように語られている。

 故、経津主神、岐神を以て郷導として、周流きつつ削平ぐ。逆命者有るをば、即ち加斬戮す。帰傾ふ者をば、仍りて加褒美む。是の時に、帰順ふ首渠は、大物主神及び事代主神なり。乃ち八十万の神を天高市に含めて、帥ゐて天に昇りて、其の誠款の至を陳す。時に高皇産霊尊、大物主神に勅すらく、「汝若し国神を以て妻とせば、吾猶汝を疏き心有りと謂はむ。故、今吾が女三穂津姫を以て、汝に配せて妻とせむ。(後略)」

 この別伝は、出雲征服のヴアリアントの中でも最も具体性を感じさせる。従わぬ者は殺戮し、帰頼した者には血縁の女性と結婚させ、連繋を強めるという政略は、神話の世界というよりは、現実政治のものである。その帰順者の大物主神と事代主神が「天」に昇ったとは、征服者の本拠地に参じたことを示すだろう。

 事代主は、『古事記』では大国主=大物主神の子とされているが、ここでは出雲内の一勢力の長、「首渠」と表現されている。事代主は島根県八束郡美保関町の美保神社に祀られている。大国主を祀る出雲大社が出雲西部の大社町に鎮座するので、出雲東部の勢力の中心が美保にあったのであろう。東方の丹波から北陸へと続く航路の要地である。

 大国主のもう一人の子、趨後のヌナカワヒメとの間に生まれたタケミナカタが最後まで抵抗したというから、もっと東の北陸の勢力は、この出雲征服時にも従わず反抗の気勢をあげていたのだ。であれば、東方進出の基地となる美保の豪族との同盟を固めておくことは、下関の勢力にとっておおいに意味がある。

 下関から出雲へというイツツヒコ一族の征服経路は、もちろん玉の交易路を押さえることが目的の第一だったろうし、その玉交易こそ、イタテ神やイタケルが朝鮮半島から出雲に来たった最大の要因だったろう。

 イタテ神が合祀されていたという玉作湯神社は、名前の示すとおり、玉作りの神を祀り、付近の山にはメノウを産し、古代の玉作りの工房跡も発掘されている。こうした玉製品は、もちろん下関の遺跡からも発見されている。現在発見されている工房跡は四世紀末くらいに年代が下がるようだが、原石を近くに産することからみて、この付近でもっと古くから玉作 りが行われていたことは確実だろう。

 下関のイツツヒコは、この日本海から朝鮮半島に連なる玉交易のルートを押さえて、王を自称し、大和の崇神朝などを眼中に置かないほどに強勢を誇ったのだ。


  下関の新羅系王朝
 下関に半島系の王が蟠踞して、大和、北陸、瀬戸内の勢力と対立していたとする構図は、次のような伝承によっても裏付けられる。

 山口県下関市長府の忌宮神社は、下関のイトテを降服させたと『日本書記』に載る仲哀天皇を主祭神とする古社で、仲哀天皇の豊浦宮の跡といわれ、長門国二の宮とされるほど社格も高い。この神社には、仲哀天皇にまつわる次のような物語が伝えられている。

 仲哀天皇は九州の熊襲の叛乱を平定のため西下し、穴門(長門)の豊浦(長府)に仮の皇居を設けたが、朝鮮半島の新羅国の塵輪が熊襲を煽動して豊浦宮に攻め寄せた。皇軍は大いに奮戦したが、黒雲に乗って海を渡ってきた塵輪が空から射かけるために苦戦し、宮門を守備する阿部高麿、弟助麿も相次いで討死した。天皇は大いに憤って自ら弓矢をとって塵輪を見事に射落した。そこで賊軍は色を失って退散した。

 忌宮のある長府は古来、瀬戸内の航路の終点であった。それは、ここから西の関門海峡の潮流が非常に激しいために航海の難所となっていて、人びとは、ここで船をいったん降りて、陸路を下関まで向かったのである。おそらく古代には、長府から長門一の宮の住吉神社を通って、弥生遭跡のある綾羅木へと道は通じていたので、忌宮も住吉神社も、その方向に 通が通じるようになっている。

 したがって長府の豊浦宮、現在の忌宮神社は、瀬戸内海勢力の西への前進基地、あるいは防衛拠点だったのだ。先の説話でみると、”新羅の賊軍”は長府まで攻め寄せて、仲哀天皇の軍はあやうく敗退しそうな危機におちいったところを、仲哀の奮戦によってようやくしのいだのである。九州内陸部の熊襲と組んでいた″新羅の賊”の根拠地は、おそらく下関だろ う。またそれは、イタケルが新羅から渡ってきたという伝説、そしてイタケルがイツツヒコと同一人物である、という推定とも符合する。

 もう一つ、『日本書紀』には下関のイトテの出自に関する記事がある。イトテは下関の彦島に仲哀天皇を迎え、三種の神器と同じ組み合わせの曲玉と鏡と剣を天皇に捧げる。王権を象徴する宝器を献上したのであるから、これは支配権の譲渡、すなわち降服を意味する。仲哀天皇は豊浦宮の防衛に成功し、今度は下関を陥落させたのだ。恭順を誓ったイトテを天皇はほめる。

 天皇、即ち五十迹手を美めたまひて、「伊蘇志」と曰ふ。故、時人、五十迹手が本土を号けて、伊蘇国と曰ふ。

 このイソの国は、普通、現在の福岡県糸島郡、古代の伊都国と解されている。しかし、この下関のイトテが新羅から渡来した一族だとするなら、その地域に「本土」を求めねばならない。

 この当時、まだ新羅という国家は形成されていないが、辰韓として古来、言語・風俗を同じくする人びとが、そこには住まっていた。慶州の斯廬国が発展して他の小国を吸収して新羅国を形づくったのである。ところでこの時期、四世紀には現在の慶尚北道清道つまり慶州の新羅国の西方に”伊西国”あるいは”伊西古国”と呼ばれる国が存在していた。『三国遺事』は伊西国、『三国史記』では伊西古国となっている。新羅からきたという五十猛、伊都都彦、こうした名前も、彼がイソ国の出身と考えれば、じつによくわかる。

 イツツヒコのヒコは尊称、ツはかの”にあたるから、伊都=伊西、Ttus=Isoeと音がきわめて近いことを考えれば、イソ国出身の王者、といった名前と考えられる。五十迹手、大田市の地名などではイソタケという読み方であり、イソ出身の勇者の意になる。

 五十迹手が半島からの渡来者と考えられるもう一つの証拠は、『筑前国風土記』逸文にみえる五十迹手が、天之日矛の子孫であったという伝承である。五十迹手が下関の彦島に仲哀天皇を迎えたときの描写は『曰本書紀』と同様であるが、天皇の、誰か、という問いに答えて五十迹手が、

 「高麗の国の意呂山に、天より降り来し日桙の苗裔、五十迹手是なり」

 と名乗ったという。但馬国出石を本拠とした天之日矛とイトテがどのような関係にあったかは問題である。意呂山は、新羅の東南岸にあたる蔚山に比定される。イトテは、後に新羅の一部となった伊西国の出身で新羅系という伝承がはじめあって、のちに、新羅系であるとはっきり伝えられ、天皇家との婚姻の系譜を持つ天之日矛を祖先とする、という伝承になっていたのだろう。『風土記』にいうように、筑前国の恰土の県主がイトテの子孫と名乗ったのも、名前の類似から過去の有名人と結んだものだろう。

 『曰本書紀』のイトテの記事にも、恰土の県主の祖、とイトテを記すのは、半島の「伊西国」が早く亡びて「伊蘇国」との関係がわからなくなった後世に、恰土の県主の主張が書紀の記述に取り入れられていったものと考えられる。また天之日矛は神功皇后の母方の先祖ということで、いっそう家柄に箔を付けるにふさわしい人物である。系譜には造作の跡が感じ られるが、今まで考察してきた点と合わせて、イトテが新羅系である、という点には真実を認めてよいだろう。

 以上のように慶尚北道、後の新羅の領域に入る伊西国からイツツヒコが下関に渡来し、さらにそこを根拠地として出雲までを勢力圏におさめた。それに対して大和や北陸の政治集団の指導者は、もとをたどれば加羅系である可能性が強く、少なくとも、文化的に加羅と密接な関係にある人びとだった。当時の崇神朝とイツツヒコの対立の図式は、半島での弁韓と辰 韓の民族的・文化的な差異・対立に一面由来するといえる。

 そのように考えると、『曰本書紀』また『三国史記』 の倭と半島との関係の記事がじつに明快に読み解けるようになる。たとえば、三世紀末から四世紀前半にかけての、『三国史記』「新羅本紀」 にみえる次のような一連の倭国関係の記述である。

 儒礼尼師今四 (二八七) 年
  夏四月、倭人襲一礼部、縦火焼之、虜人一千而去。

 同六 (二八九) 年
  夏五月、聞倭兵至、理舟楫、繕甲兵。

 同九 (二九二) 年
  夏六月、倭兵攻陥沙道城、命一吉

 同十一(二九四) 年
  夏 倭兵来攻長峯城、不克、

 同十二 (二九五)年
  春、王謂臣下曰、倭人屡犯我城邑、百姓不得安居、吾欲与百済謀、一時浮海、入撃其国、如何、舒弗邯弘権、対曰、吾人不習水戦、冒険遠征、恐有不測之危、(以下略)

 同十四(二九七)年
  伊西古国来攻金城、我大挙兵防御、不能攘、忽有異兵来、其数不可勝紀、人皆珥竹葉、与我軍同撃賊、破之、(以下略)

 基臨尼師今三(三〇〇)年
  春正月、与倭国交聘、

 訖解尼師今三(三一二)年
 春三月、倭国王遣使、為子求婚、以阿

 同三十五(三四四)年
 春二月、倭国遣使請婚、辞以女既出嫁、

 三十六(三四五)年
  二月、倭王移書絶交。

 三十七(三四六)年
  倭兵猝至風島、抄掠辺戸、又進囲金城、急攻、王欲出兵相戦、伊伐


 こうした「新羅本紀」の記述を読むと、三世紀末に「倭兵」の来襲があり、捕虜を劫掠して去ったり、おそらく東海岸のどこかと思われる沙道城を攻め落としたりといった事件が起こっていることがわかる。三世紀末は、『魏志』「倭人伝 」の記録でも、卑弥呼の魏および楽浪への遣使(二三八〜二四七年)の後に、卑弥呼が死に、十三歳の女王壱与が立った、というところで記事は終わっており、その後、邪馬台国は歴史の暗い波の中に消失してしまう。

 じつはこの時期、楽浪とその南の帯方郡では、倭国のことなどかまっていられないほどの大争乱が起きていたのだ。『魏志』「倭人伝」は次のような事件を報告している。

 楽浪本統韓国。分割辰韓八国以与楽浪。吏訳有異同。臣

 楽浪郡が以前から韓族諸国を支配していた。帯方郡ができて辰韓諸国をこれが支配するようになったが、そのうち八国を楽浪郡の支配に移そうとした。その説明で通訳官が誤訳したため、韓族諸国の王が怒り、連合して帯方郡の崎離宮(現・黄海道)を攻めた。この戦いで帯方太守弓遵が戦死するほどだったが、ニ郡はようやく韓族諸国の連合軍を撃破することが できた。

 帯方太守の弓遵は、魏の高句麗攻撃に呼応して正始二(二四一)年には東

 このように、半島で二郡に対する韓族の攻撃があれば、当然、倭国との連絡は杜絶し、邪馬台囲の支配者がその権威の裏付けとしていた魏国のバック・アップが消えるわけで、男王を立てて国中が服さず、十三歳の少女が女王になるようなきわめて不安定、妥協的な政権が崩壊の道をたどつたであろうこと、想像に鞋くない。しかも、半島では楽浪・帯方の反撃が いちおう効を奏して、韓族の支配に再び成功したというが、この反撃戦は、戦死した帯方太守の報復戦でもあり、韓族諸国がおとなしく引っこんだはずもなく、激烈な戦闘が行われ、韓族が敗北したのだろう。またこれは、韓族の民族国家形成への胎動を感じさせる出来事で、当然、韓族内部の支配体制の再編成をともなっていたと考えられる。三世紀後半の半島南部は、激動期にあったのだ。

 そうした闘争に敗れた者のうち幾人かは倭国へと渡来したはずで、その流れの中にイツツヒコもあった、と考えたい。倭国は内乱状態にあり、北九州、山口、山陰の海岸部に半島から渡ってきた人びとが、かなり征服者的、暴力的なやり方で拠点を獲得した、その模様を語ったのがイタケル神の神話であり、そうした各勢力を統合したのがイツツヒコの王国だったのだ。

 三世紀末の倭人の来寇は、一つには半島から倭国までにらみをきかせていた魏国楽浪郡の権威の失墜と関連しているのである。後代の倭寇をみても、曰本国内に強力な政権がなく、地方の海上勢力、つまり潜在的な海賊業者に対するコントロールがきかず、しかも半島内の政治が混乱して有効な防衛策が打てないときに、最も激しい倭人の侵攻が起こつている。鎌倉末の動乱期は、あたかも高麗の衰退しきった頃にあたり、北九州の海賊衆が半島で最も猛威をふるった時期だったが、この三世紀末も、おおむね似たような状況にあったのである。

 さて、三世紀末、慶州の斯廬国に対する倭人の来襲の中心人物が伊西国出身のイツツヒコだったとすると、斯廬国にとって、これは由々しき事態である。先に引用した「新羅本紀」によれば、伊西古国(伊西国) は、二九六年には金城、すなわち今曰の慶州を包囲するほど、斯廬国(後の新羅)に対して攻勢に出ているのである。もしも、この伊西国と、倭国で王を称していた下関のイツツヒコとが連合したなら、斯廬国は、西からは伊西国に陸を攻められ、東から倭に海路攻撃を受けることになる。下関という位置からして、イツツヒコの勢力は海上が主体である。

 伊西国来攻のこ年前、二九四年には新羅王儒礼尼師今は倭兵の跳梁に我慢ならず、百済と謀って、「一時浮海、入撃其国」、海を渡ってその本拠地を直接たたこうとまで思い立つが、側近から「吾人不習水戦」、自軍は水戦に不慣れで危険すぎる、と諌められ思い止まっている。倭が新羅に優越するのは舟戦であったことがこれでわかるのだが、王は伊西国に攻め られ苦戦した事件ののち間もなく没している。倭に反撃をかけるどころではなかったのだ。

 そして次の王基臨尼師今の代になると、伊西国と倭国のはさみ撃ちを回避しようということであろう、「与倭国交聘」と、倭国と友好を通ずる政策に転じている。強硬策の不可能を悟って微笑外交に転換したのだ。さらに、次の訖解尼師今の代には倭国王が王子の妻を「求婚」してきたのに応じて大臣格の阿

 イツツヒコが、この「新羅本紀」に現れる「倭国」の王ではないか、と筆者が考える理由は、こうした新羅から大臣の娘が嫁入りしてくるという、当時にあっては大事件であったろう話の片鱗も、『曰本書紀』には載っていないからである。この三一二年は、おそらく崇神朝の安定期で、書紀の記述もツヌガアラシトなどについて詳しいのに、新羅との交渉の話は 出てこない。新羅のすぐ対岸にあたる下関に、大和の崇神朝とは別の王朝があり、それが倭国として新羅の記録に残された、そう考えるとき、先に引用した「新羅本紀」の記事は現実性を帯びてくるのだ。

 しかも斯廬国の大臣の娘と倭王の息子との通婚も、この倭王が下関のイツツヒコであり、斯廬国と同じ辰韓の中の伊西国出身の王であるとすれば、それほど不自然な国際結婚とはいえない。国が違うといっても、言語・風俗を同じくするために、辰韓という一つのまとまりを持つものとして、中国史書にも記述されていたわけで、斯廬国と伊西国では、言語・習慣 の差異はそれほどなかっただろう。とすれば、国際結婚に際して大問題になる”文化摩擦”を斯廬国の娘はあまり味わわずにすんだのかもしれない。

 そうはいっても今曰の郡より小さいくらいの領域が一国で、互いに敵国として争うような当時に、海を越えて嫁いでいくというには、一大決心が必要だったろう。大臣の娘も、今、倭国との通婚がどんなに大事かということを、周囲の者に懇々と説得されて、泣く泣くお嫁に行くことを承諾したのだろう。韓国版王昭君である。

 この古代にあたっては最高のデタント外交の手段、結婚による和平は効を奏したようで、この三一二年以後、三四三年まで倭倭寇の記事は「新羅本紀」には現れなくなる。この時期、大和は大古墳がつぎつぎと造られた時期で、『古事記』『曰本書紀』をみても、崇神朝の末年から垂仁天皇の治世というのは、比較的安定した時期だったようだ。畿内・北陸から丹波・東瀬戸内海ぐらいが崇神朝、北九州・山口・出雲がイツツヒコの王国と一応勢力範囲も確定して、ともあれ緊張をはらみながらも、平和共存の時期を迎えた模様である。

 ところで、こうした平和共存状況の中で、一番いたたまれない思いにかられたのは、伽耶諸国の人びとだったろう。辰韓の伊西国(慶尚北道清道)といえば、伽耶諸国ともすぐ南と西に擦する地域である。そこの出身者が倭寇を指揮する倭王となり、慶州の斯廬国とも婚姻同盟を結んだとなると、辰韓に陸を攻められ、倭国からは海路を侵略される、はさみ撃ちの 憂き目にあってしまう。

 こうした状況が、ツヌガアラシトの来航の真の理由だったのではないか。ツヌガアラシトは崇神天皇の末年に来たというのだから、三ニ○年頃のことだろう。倭ー新羅の同盟の成った直後といってよい。前に青いたように、崇神天皇はもともと加羅とのつながりが深い人物である。そのつてをたどつて、なんとか背後からイツツヒコを牽制してもらうよう、頼みこ んだのではないか。支配領域あるいは勢力圏からいって、イツツヒコよりも崇神のほうが優勢なので、崇神がいちおう曰本全体の覇者として一目置かれる存在であったろうし、その影響力に伽耶側も期待したのだ。

 とすると、『曰本書紀』に載る任那朝貢の記事も、まったく現実から離れたものとはいえなくなってくる。「崇神天皇六十五年の条」に、

 六十五年の秋七月に、任那国、蘇那[褐の旁]叱知を遺して、朝貢らしむ。

 朝貢というのは、形式上の臣従を意味するが、これは後代の誇張である。が、伽耶諸国が贈物を贈って、なにぶんよろしく、と辞を低くして頼みこむ場面は、実際に起きた可能性が十分ある。崇神はこの三年後に亡くなったと書紀にはある。名前からしてなんらかの関係が任那=伽耶と関係があったであろう妃の御間城姫の影響力に期待しての遣使だったろう。使 者の蘇那[褐の旁]叱知は、ツヌガアラシトの同音異写だろうと考えられている。

 もっと興味深く、また今まで考察したことを参照するとその意味がよくわかるのは、次の記事である。「垂仁天皇二年の条」に、

 是歳、任那人蘇那[褐の旁]叱智請く、「国に帰りむ」とまうす。蓋し先皇の世に来朝て未だ還らぎるか。故、蘇那 叱智に敦く賞す。仍りて赤絹一百匹をもたせて任那の王に賜す。然して新羅人、道に遮へて奪ひつ。其の二の国の怨、始めて是の時に起る。

 任那からの使者が帰国するに際して、垂仁天皇は贈物として「赤絹一百匹」を任那の王に贈った。ところが「新羅人」が道を遮って、これを奪ってしまったという。この「新羅人」を下関の新羅(辰韓)系の王と考えると、まず第一に、地理的にちょうど大和から任那への帰途の要衝に下関があることになる。第二に、任那と大和の政権が親交を結ぶことは、イツ ッヒコの王国が逆に両面から圧迫されることを意味するから、下関側がこれを阻止しようとすることは自然のなりゆきである。このような点から、先に掲げた『曰本書紀』の記事に出る「新羅人」とは、下関の新羅人、すなわちイツツヒコの勢力と解すべきである。

 また、この文に「二の国の怨」というのは、任那と新羅というよりは、下関のイツツヒコと大和の崇神・垂仁朝の関係が、このような事件をきっかけにしだいに険悪なものになった、と解すべきだろう。倭国内での新羅系と加羅系の対立の図式である。


 記紀の仲哀天皇と神功皇后の所の解釈

仲哀天皇は長門豊浦宮から下関をうかがう態勢にあり、一方、息長一族は但馬からさらに海路、対朝鮮交易ルートを確保しょうと西下の途上にあった。そこで下関から出雲を押える新羅系のイツツヒコ王国に対する攻守同盟が、息長一族と豊前−長門の仲哀一族の間に結ばれ、両者は協力して、イツツヒコの王国を亡ぼした。当時のあり方からして、この攻守同盟 には、血による固め、政略結婚が伴っていたであろう。それが仲衷と息長帯比売(神功皇后)の結婚として伝えられたのだ。

 さて、それでは強勢を誇っていたイツツヒコの王国は、どうしてこの新興勢力の前に敗れ去ったのだろうか。一つは、もちろん中九州豊前からと、東の但馬からとはさみ撃ちにあったためだろう。もう一つの理由は、出雲をいったん支配下におさめたとはいっても、出雲人が完全に屈服したとはいえない。先にイツツヒコが出雲を征服したときの話であろうとし た、三穂津姫と大物主の結婚譚も出雲の豪族の主権をある程度認めて、結婚による同盟という形で出雲を勢力圏に取り込んだわけであるから、出雲の豪族たちはかなりの主体性を保持していたのだ。
 古墳文化からいっても、出雲は四世紀を通じて方墳、前方後方墳が圧倒的で、その独自性を誇示している。したがって、下関政権が守勢にまわったとき、出雲は簡単にそれを見限ったであろう。出雲が離反してしまえぼ、息長一族と仲哀一族連合に、下関勢は抗すべくもない。「仲哀天皇紀」に、下関のイトテがなんの戦闘もなく降服したように描かれているの は、案外事実であったのかもしれない。

 しかし、そのようにイツツヒコの王国が弱体化してしまうのには、一つのステップがあったらしい。それは『三国史記』の次の記述からうかがえる。

 訖解尼師今 三十五(三四四)年
  春二月、倭国遣使請婚、辞以女既出嫁。

 同三十六(三四五)年
  二月、倭王移書絶交。

 同三十七(三四六)年
  倭兵猝至風島、抄掠辺戸、又進囲金城、急攻、王欲出兵相戦、伊伐

 「新羅本紀」によれば、三四四年に倭国が通婚を求めてきたが、もう娘は嫁に出してしまっていない、と断ったという。王の娘に適齢期のものがいなければ、王族の娘でも誰でも考えられたであろうから、これは断りの口実だったろう。前回のときには、西の伊西国に攻撃されるという窮状に斯廬国はあって、やむなく請婚に応じたのだが、おそらくその後、伊西国とも同盟を固めるか、倭国との同盟の間に伊西国を征服したかで、この方面の脅威も薄らいでいたのだろう。娘を嫁にやる新羅側としては、やはり倭国への屈従という側面のある結婚話は、もともと避けたいと考えていたこともあって、今回の拒絶となったのだ。

 逆に倭国側からみれば、娘が嫁にきているのだから攻めないでやっているのだ、結婚を断るのは同盟の破棄、あるいは平和条約の破棄である、と受け止めた様子で、翌三四五年には、「移書絶交」と外交文書を送って国交断絶を宣言し、その翌年の三四六年には大規模な侵攻を開始して、辺境を荒らし、さらに進んで慶州を包囲するという事態になった。これは、三世紀末の倭兵の侵攻が、東海岸の辺境を襲って人びとを略奪するという倭寇的・ゲリラ的な行き方だったのに比べて、正面切って絶交状を送りつけ、敵の首都を包囲するという一国の総力を挙げた全面戦争の観がある。海賊の親分的な存在だったイツツヒコの国も、その間に組織を整備して、外交の専門家も持つようになっていたのだ。

 ところで、国家らしく成長したからといって、よいことばかりではない。ゲリラ的なやり口で辺境略奪を行い、主力軍が来る前にいち早く引き揚げるのは、見ばえこそしないが、水上戦に弱い新羅側では防衛に最もてこずる、つまり最も合理的な戦法である。一方、全面侵攻となれば、敵の主力と海を越えて決戦を行うわけで、遠征する側としては、補給その他で おおいに不利である。新羅に比べて水戦が得意なだけ陸戦には不安があるわけで、この点にも弱点がある。それに総力を挙げた遠征であれば、失敗したときの打撃は致命的なものになりかねない。この遠征は、イツツヒコ側にとってきわめて危険な賭けだった。

 よく考えてみれぼ、結婚を断られたぐらいのことで、自尊心を傷つけられたと怒って遠征軍を送るのは、倭王が驕慢になっていたというべきだ。この倭王は、すでに代替わりして平和に慣れ、戦争のむずかしさがわかっていなかったようだ。

 「新羅本紀」によれば、新羅側は正面決戦を避けて持久戦を計った。新羅軍は城門を固めて出撃せず、倭軍は食糧が尽きて後退をはじめる。そこに騎馬隊を出して追い討ちをかけたという。新羅側の理にかなった戦法に、倭の遠征軍はなんの成果もあげずに引き揚げたのだ。その退却の様子は、ナポレオン軍のロシアからの敗走の小型のものと考えてよいだろう。

 下関政権は新羅遠征に失敗して、その威信はガタ落ちになる。主力部隊の損耗はひどく、財政的にも打撃は大きかった。出雲は離反し、そして息長一族と仲哀一族の連合軍の進出の前に配下の部族はつぎつぎと離反して、イツツヒコの王国は、あっけない終末の日を迎えるのである。イツツヒコの子孫イトテの降服の模様を、『日本書紀』は次のように描いている。

 又、筑紫の伊覩県主の祖五十迹手、天皇の行すを聞りて、五百枝の賢木を抜じ取りて船の舳艫に立てて、上枝には八尺瓊を掛け、中枝には白銅鏡を掛け、下枝には十握剣を掛けて、穴門の引嶋に参迎へて献る。

 曲玉と鏡と剣、三種の神器と同じ組み合わせの宝物を、船の上に立てた神木に掛けて、征服者に捧げる。三種の神器は支配権の象徴、王者の印であるから、これを捧げることは、征服者による支配権の没取、降服を意味している。海上での降服儀式とは、いかにも海を舞台に玄界灘に雄飛したイツツヒコの王国にふさわしい最後である。

 世にいう神功皇后の”新羅征伐″とは、第一義的には、この新羅系の下関王朝の打倒にほかならない。それは一種の国土回復運動であり、倭人の解放運動とも呼べる性質のものであった。神功皇后の人気の秘密は、外征や植民地支配ではなく、人民の解放者としての役割にあった、というべきである。神功皇后が新羅にまで押し渡った、というあの『日本書紀』 の伝承も、日本の中の新羅=下関とすれば、けっして不自然な物語ではない。神功皇后説話が最も厚く流布しているのも、下関から福岡香椎宮にかけてであって、実在の神功皇后の足跡を求めるならば、まず第一にこの付近を訪れるべきである。

 忌宮神社の仲哀天皇の説話をみても、″新羅の賊”は相当猛威をふるっていたようで、海賊玉的な色彩の強いイツツヒコが恐れられ、倭人の憎悪の対象となったとしても不思議はないし、それを打倒した息長一族の看板娘の神功皇后が、日本のジャンヌ・ダルクのごとく、当時もてはやされたのも、さまざまに語り継がれるなかで空想的な神威の持主としてイメー ジがふくらまされていったことも、また当然だった。

 ところで、イツツヒコを神格化したと思われるイタケル神=イタテ神も、神功皇后ほどではなくとも、その人気は完全に消えはしなかった。『延喜式』には、イタテ神を祀る神社が出雲に六社、紀州に二社あり、とくに、紀州の名草郡にある伊太祁曾神社、伊達神社は名神大社である。真弓常忠氏によれば、イタテ神は渡来系の製鉄神であり、古い倭鍛冶に対して、新しい技術、韓鍛冶と結びつけられるという。五十猛神の出雲征服そのものが、新しい鉄器技術の勝利であったと思われるが、征服者は同時に新技術の伝達者でもあったのだ。

 征服を憎むか新技術を上しとするかで、五十猛神の評価は変わってこよう。他所ではイタテ神の崇拝が消滅していくなかで、韓鍛冶の集団はイタテ神を祀り続けたのである。肥後国玉名郡船出古墳から出土した鉄製直刀の銘文に、「而万者伊太□書者張安也」とあり、伊太□はイタテと当然関係ある名と考えられ、作刀者名と推測されている。

 じつに興味深いことに、イタチ神とほぼ同じ神格を持つ製鉄神の兵主神の分布は、イツツヒコと対立した、大和を中心とする勢力の支配範囲とほぽ一致するのである。とくに近江の兵主神は、野洲町伊香郡と、孝元・開化天皇から神功皇后にいたる系図で触れた地名が現れ、丹波に一社、大和に二社、但馬は天之日矛の本拠の出石を含めて五社を数える。さらに 因幡に二社、播磨に二社、それより西では壱岐に一社あるのみである。これは今まで考察したことからみて、同じ韓鍛冶でも、加羅系の技術であったろう。開化−崇神の勢力は、やはり新式の鉄器製作技術によって勢力を拡大していったと考えられるのである。

 それではなぜ、紀州にイタテ神が祀られているのであろうか。神功皇后はこの後、紀州を経て大和に攻め入ったと『日本書紀』は伝えるので、降服したイトテの一族もそれに従って戦い、水軍の根拠地として適当な紀州に定着し、イタテ神を祀ったのではないか、と思われるのである。

 『日本書紀』の別伝は、五十猛神=イタテ神の善神としての側面を次のように記している。

 初め五十猛神、天降ります時に、多に樹種を将ちて下る。然れども韓地に殖ゑずして、将に持ち帰る。尽に筑紫より始めて、凡て大八洲国の内に、播殖して青山に成さずといふこと美し。所以に、五十猛命を称けて、有功の神とす。即ち紀伊国に所坐す大神是なり。

 植林を行い、木を育てる神としての五十猛神である。”木の国”紀州の豊かな木材資源を管掌するのが、五十猛神を祀る伊太祁曽神社なのであるが、同時にそれは、製鉄のために多量に消費する木炭の供給を意味する。

 しかし、木材の用途として当時最も重視されたのは船材であろう。スサノオとイタケルは『曰本書紀』では、「埴土を以て舟に作りて、乗りて東に渡りて」と造船技術の所有者のように描かれているが、海上を制覇したイツツヒコが、造船に意を注いだことは当然だ。『住吉大社神代記』は、住吉大神の子として″船玉神”を挙げ、注として、

 紀氏神、志麻神静火神、伊達神の本社なり。

 といっている。紀州の伊達神は、住吉大神の子神とされる舟玉神ともみられていたことがこれでわかるが、イタテが海上勢力の神であり、住吉神を祀った神功皇后に従った人びとの神だったとすれば、舟の神で、住吉神の下位に立つものとされるのは、当然のなりゆきである。

 このように、イタテ=イツツヒコは、新型の造船技術をも日本にもたらしたのであり、また船の材料として最も重要な木材資源の管理技術を倭人に伝えたのである。



古代船の構造

 イタテ神が、新しい鉄器製造と造船技術に関わる神だったとすれば、その技術革新の内容は、具体的にどのようなものだったろうか。日本では縄文時代から丸木舟が使用されていたことが、種々の発掘から明らかにされている。丸木舟であれ ば、世界各地の鉄器を持たない民族が行うように、火で焼いて丸木をえぐつて舟を造ることができる。

 こうした一本の大きな材木から造る丸木舟では、その大きさは用材の大小に左右される。ところが鉄製の釘があれば、 板を接合してより大きな船を造ることが可能になる。

 弥生時代後期の舟に関する遺品として有名なものは、福井県坂井郡春江町出土の銅鐸に鋳出された船の図である。これ は細長い船体の前後が高くそり上がったゴンドラ形の船で、十人を越す人の姿が船の上に見える。こうしたゴンドラ型の 船は、丸木舟の造り方では不可能で、釘を用いて板を継ぎ足つことによって造られたものだという。

 福井県春江町は、日本海の要港三国の近辺であり、この三国から九誓川をさかのぼると福井に達するが、先に紹介した四道将軍の一人大毘古の舟は、さらに上流の鯖江の舟津神社に着いたという。日本海と九頭竜川を結ぶ中間点が三国であり、この地域の古代人の生活にとって舟便が非常に重要だったことが、この船の図を銅鐸の模様としてこの地の人びとに選 ばせたのだろう。また弥生後期には、玉をめぐる日本海交易が盛んであったことを先に考証したが、この地域では、新しい、釘を使用した”縫合船”が弥生後期には出現していたのであり、造船技術においても、この地域が先進地域であったことがうかがえる。

 この日本海の海上勢力、大毘古の婿であった崇神天皇が、新型の造船技術に強い関心を寄せないわけがない。西には瀬戸内海、北には琵琶湖を経て日本海と、支配の領域を拡大する交通手段は、馬のなかった当時、船が最善最強カなものだった。『曰本書紀』「崇神天皇十七年の条」は、次のように船の建造について伝える。

  (崇神天皇)詔して曰わく、「船は天下の要用なり。今、海の辺の民、船無きに由りて甚に歩運に苦ぶ。其れ諸国に令して、船舶を造らしめよ」とのたまふ。冬十月に、始めて船舶を造る。

 この時、始めて船舶を造るというのは、丸木舟はどんな地方にも普及していたのであるから、丸木舟のことではない。漢字二字の船舶、本格的な大型船を造らしめた、と解すべきだ。その構造はおそらく、先の銅鐸に見るような丸木舟を基本として、舷側や船首、船尾に板を継ぎ足した”縫合船”だったろう。これでも当時としては驚異的な技術革新だったとい える。

 この時期以後、船の構造は、前と後を別々に造って中央部で継ぎ合わせた”複材構造船”へと変化していく。この型になると、船材を継ぎ合わせるための釘、鉄製工具がいっそう重要なものとなる。鉄神と船神の複合したイタテ神の新技術とは、この複材構造船の造り方の秘密にあったのではないか。イタテ神を祀る紀臣一族は、五世紀を通じて対半島の水軍とし て活躍したが、おおむねこの時期の大型船は、この複材構造船だったと考えられている。

 こうした複材構造船は、実際どれほどの大きさがあったろうか。天保九(一八三八)年に愛知県海東郡諸古村(現・佐織町)で発見されたクスノキ製の複材構造船は、長さ十三間(約二四メートル)あったという。明治十一(一八七八)年、大阪市浪速区船出町(現●浪速区敷津東)で発見されたものは、長さ一五メートルあったという。

 『曰本書紀』「応神天皇の条」に名前の出る″枯野”という船は、長さ十丈(約三〇メートル)だったというが、大きなもので三〇メートル近いというのは、出土した船の大きさからみて多少誇大であるとしても、ありえない数字ではない。

 たとえ複材構造船であっても、基本的にその大きさは用材によって決まる。半島と日本では、温暖で降雨量の多い日本のほうが、はるかに木材資源に恵まれている。仮に技術導入がスムーズに行われて、造船技術に大差ないとすれば、倭国の水軍は船の大きさ、強度からして非常に有利な立場に立てることになる。

 新羅王が、海を越えて倭兵の根拠地をたたこう、と言ったとき、側近が「吾人不習水戦」、水軍は不利だから、と言った背景には、船自体の問題も含まれていた、と考えるべきである。製鉄と造船にとって、木材の豊かさは決定的なのだ。イタケルが日本に渡ってきたときのことを、『日本書紀』別伝はこう伝える。

 初め五十猛神、天降ります時に、多に樹種を将ちて下る。然れども韓地に殖ゑずして、尽に持ち帰る。遂に筑紫より始めて、凡て大八洲国の内に、播殖して青山に成さずといふこと莫し。

 これは、なぜ日本の山は木の青々と繁茂する「青山」であり、韓国の山には木が少ないか、という″起源説話″の形をとっているが、古代の倭人にも朝鮮半島の山には木が少ない、と映っていたようだ。基本的な気候条件の違いがある以上、木々の豊かさで彼我に差があるのはいつの時代も同様であるし、早くから製鉄業の盛行した半島では、ただでさえ少ない木材資源をいっそう早く涸渇させていっただろう。豊かな木材による造船の発達、それが四世紀から五世紀にかけての倭国の強味であり、それを誇っているかのような調子が、先の五十猛神の説話には看取される。

 古い歴史を持つ神社を訪ねると、樫、楠をはじめとする、いわゆる照葉樹の大木が、ほとんど原始そのままの姿で残されているが、それは、原始人の樹霊信仰といったもの以上に、製鉄・造船にとってかくも重要な木を愛護する、という心情が働いていたと思われるのである。

 神功皇后もまた五十猛神同様、航海者の神としての性格を強く持つが、神功皇后の創建になるという長門一の宮の住吉神社や、神功皇后が住んだという香椎宮などは、いずれもみごとな林相の社叢を持っている。  

伊太祁曽神社

神奈備にようこそ